竹田青嗣 (著)『欲望論』 美の普遍性と欲望論的洞察
美の普遍性
「美の謎」の核心にあるのは、なにであるか。
「美の普遍性」の問題であることを理解せ ねばならない。あるいはまた、近代哲学における美学的探求の努力が、根本的には、美の普遍性をい かに根拠づけうるか、という主題をめぐっていたことを再確認せねばならない。
主観―客観の一致を めぐる認識問題と同じように、美の問題もまたその本質を認識問題としてもつのである。そうであるからには、伝統的な美学哲学よりも、現象学的ー欲望論的な方法が優位となる。
美とは何であるか。
われわれは時間が何であるかをよく知っているがそれを言葉にしようとすると大きな困難が現われ る、とアウグスティヌスはいったように、美が何であるかについても事情は同じである。
では、どのような探求方法を取るのか。
探求の対称は、事柄の真偽ではなく価値的事象なので、現象学的-欲望論的方法を取り、探求の始発点を「きれい - きたない」の審級の発生について論じることになる。
人が「よいーわるい」を価値判断するのは、原初的な「母ー子」の間で、どのような「言語ゲーム」が営まれてきたかに関係すると、竹田は言う。
たとえば、赤ん坊が、「お腹がすいた」と身体的な要求として泣き声を発したとすると、母はそれに応答することになる。
ここで、母は、子が飲んでから一定の時間がたっていないようなときは、「ダメ」と禁止の言葉を発する。この禁止の言葉が登場することによって、子の世界は、一変する。子は「禁止ー許可」という、新しい項を見いだすことになる。
竹田によれば、ここにこそ人間的「よいーわるい」の価値審級の源泉がある。
しかしながら、「きれいーきたない」の審級には、根源的な審級形成の原則が明らかになっていないので、「よいーわるい」の審級を適用できない、ということである。
美の欲望論的洞察
「本質」の問題を扱うには、何が解明される必要があるのか。
認識対象の本質論の原則にのっとって、解明されるべき問題は以下である。
第一の問題:プラトンによる美の知覚 - 感覚性と美的感受性の矛盾。なぜ単なる知覚(視覚・聴 覚)が美的感受の能力をもつのか。
第二の問題:美は主観性だが普遍性を要求する(カント)。しかし美の感受ははたして普遍性をも つか。もつとすればその根拠は何か。
第三の問題:美と芸術の本質的区別。
第四の問題:美と善の関係的本質。
第一の問題については
となる。
ある対象を美しいと思うのは、知性による判断力が行うのではなくて、一目見て、一瞬のうちに感じ取るものであるというわけです。
第二、第三の問題については
となる。
美の普遍性に関していえば、たとえば「かわいい」の場合は、これは、人それぞれに価値観があり、必ずしも普遍性をもたなくても良いと、考えられる。 美の場合は、ある程度の普遍性を持っているのではないかと感じ取る。「美しい」と思う場合は、他の人も、同じように思っているのではと想定しているところがある。しかしながら、事物の認識については、厳密な共通性が成立するが、美的感受については、厳密な間主観的一致が成立するとは限らないので、芸術的な判断においては、さらに困難さが増すということである。
どのような困難さが発生するのかは、次回に示す。
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