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美の普遍性

美の普遍性

近代哲学における美学的探求の努力が、根本的には、美の普遍性をいかに根拠づけるうるかという主題をめぐっていた。

主観ー客観の一致をめぐる認識問題が、善と正義の普遍性の根拠づけの問題にかかわっていたように、美の問題もまたその本質を認識問題としてもっている。

それならば、現象学的ー欲望論的な方法を試みるべきだ、と竹田青嗣氏は主張する。

美の欲望論的洞察

本質の問題を扱うために解明されねばならない中心的諸問題は以下の通りである。

  • 第一の問題。
    プラトンによる美の知覚ー感覚性と美的感受性の矛盾。なぜ単なる知覚(視覚・聴覚)が美的感受の能力をもつのか。

  • 第二の問題。
    美は主観性だが普遍性を良い要求する。しかし美の感受ははたして普遍性をもつか。もつとすればその根拠は。

  • 第三の問題。
    美と芸術の本質的区別。

上記の問題についての竹田の答えを示す。

第一の問題
一瞥的知覚において対象の多様で豊富な意味を受取ることができるように、対象から美的情動も一瞥的に喚起されるのである。

第二および第三の問題
美的情動の本質性格についての内的洞察を竹田は遂行する。

  • 感情の基礎的カテゴリーには、喜び、愉しみ、悲しみ、寂しさ、怒り、憎悪、嫉妬、愉快、退屈、畏れ、恐怖、不安などがある。

  • しかしながら、「きれい」「美しい」にかかわる情動はこの類型に属していない。だから美については言葉にできないという表現をする。

  • とはいえ、視覚的な美的感覚は色彩、光、陰影の形象性によって与えられるが、これらを表現する一般的な言葉として、鮮やか、艶やか、透明、明澄、優美、優雅、繊細、流麗、生き生き、鋭敏、均整等がある。

  • 音楽がもたらす美的感覚を表現するものとしては、憧憬、ロマン性、感傷、憂愁、郷愁、エロス的高揚、躍動的、抒情的等の概念がある。

これらは視覚的な一般表現以上に美的感覚の本質性格を教えてくれる。

竹田は「きれい」という美的感覚は母から与えられることを延々と思弁的洞察を行っている。その総括を以下に示します。

ある対象が「母」によって美的な意味で「きれい」と呼ばれ、指示されることの反復。さまざまな対象が美的な意味で「きれい」と名指され、いわば共志向されること。

この経験の共通性を形づくるのは、対象の知覚の形象的類似性ではなく、第一に、その対象に対して「母」が示す感情性(肯定的許可、推奨)。

第二に、母親による感情共有(共に見ること)の暗黙の促し。

第三に、感情共有に媒介されてもたらされる対象の独自のノエマ(新奇性、エロス予感、背後性、世界性)。

これらの諸契機が、「子」のうちに「きれいなもの」の一般ノエマを形成してゆく。

竹田青嗣. 欲望論 第2巻「価値」の原理論 (p.376). 講談社. Kindle 版.

「きれい」と「美しい」

「きれい」という言葉は、「美しい」を代行しうるが、常に代行可能であるわけではない。

たとえば、「きれいな水」と言うが、「美しい水」と日常的な口語としては使わない。逆に「美しい行為」とは言うが、「きれいな行為」とは言わない。

この後竹田は、「きれい」が「美」へと転移されていく道筋や、様々な美的対象についての考察を展開する。

「きれい」「美しい」という語は、その基底的な意味を感覚的、主観的な美的快適(「きれい」)にもつ。だがこの語は、言語ゲームにおける使用のうちで意味の多義的な展開‐転移をとげる。

すなわち、「きれい」はまず「清潔‐不潔」の対項性から始発し、そこから対象の形象的感覚についての快適を表現するものとなる。

「きれい」はまた、対象のより一般的、抽象的、評価的な側面において清潔‐不潔の感覚から離れて美的感覚を表示する「美しい」へと転移し、「美しい」の抽象的、客体化的、批評的契機がさらに、事物対象の形象的美性を超えて、人間の心意、性格、営みが与える「適意」の表現へと、すなわち人格性や精神性の高さ(低さ)を表現するものへと転移する。

竹田青嗣. 欲望論 第2巻「価値」の原理論 (p.390). 講談社. Kindle 版.

ある感覚が美的に感受され、かつまた普遍性をもちうる根拠は、美が母との感情共有として子に伝えられるからである。ここに、美が普遍性を持つ根拠がある、と竹田は叙述する。

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