ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ 『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂病』(11)読書メモ

第三章 第六節 野蛮な専制君主機械

専制君主 機械機械あるいは野蛮な社会体の創立は、新しい縁組そして直接的な出自として要約することができる。専制君主は、古代共同体の側方的田組と延長された出自を認めない。彼は新しい縁組を押しつけ、神との直接的な出自関係に入る。

つまり、民衆は従わなければならいのだ。新しい縁組の中へと飛躍し、古い出自と断絶すること。このことは、異邦の機械において表現される。あるいは、むしろ、異邦人機械といってもいい。この機械の場所は砂漠であり、最も厳格、最も過酷な試練をおしつけるものとして、古い秩序の正当性を同時に証ししている。

異邦人機械は、古いシステムとの葛藤を表現しているからこそ、偉大なパラノイア機械であり、同時 にまた新しい縁組の勝利を準備しているかぎりにおいて、すでに栄光の独身機械でもある。 専制君主 はパラノイア人である(この場合、精神分析と精神医学におけるパラノイアの概念に固有の家族主義 を放棄し、社会組織体を備給するひとつの型としてパラノイアを認めさえすれば、この命題にはもは や何の不都合もない)。

そして、倒錯者の新しいグループが、この専制君主の発明を普及してゆくこ とになる(おそらく、このグループが、専制君主のために、この発明さえ実現したのかもしれない)。 自分らが創設し、あるいは征服する町々に、専制君主の栄光を拡大し、 彼の権力を押しつけながら、 専制君主とその軍隊が通過してゆくところではいたるところで、医者、僧侶、書記、官吏たちが行列 している。

以前の相互補完的状態が地滑りして、新しい社会体を形成したといってもいい。もはや、 叢林のパラノイア人と村や野営地の倒錯者ではなくて、砂漠のパラノイア人と都市の倒錯者が登場す るのだ。

専制君主 の 野蛮 な組織体は、原理的には、原始大地機械との対比において考えられなければならない。そして、これは大地機械の廃墟の上に打ちたてられるのである。これが帝国の誕生である。

しかし現実には、ひとつの帝国が先行の帝国から離脱するときにも、あるいは世俗的帝国が退廃し、教権的帝国の夢が現われるときにさえ、この野蛮な組織体の運動は同じように認められる。その企ては、何よ りもまず軍事的で征服をめざすものかもしれない。 また、何よりもまず宗教的であって、軍隊の規律 を内的な禁欲や団結に転換するものかもしれない。

パラノイア人自身は柔和な被造物であったり、鎖 を解かれた野獣であったりするかもしれない。しかし、いつも私たちは、こうしたパラノイア人とそ の倒錯者たちの姿を、征服者とそのエリート集団、専制君主とその官僚たち、聖者とその弟子たち、 隠者とその修道者たち、キリストと聖パウロを見いだすのである。 モーセはエジプト機械をのがれて 砂漠にいき、そこに新しい機械を、つまり契約の櫃と移動しうる寺院を設置し、彼の民族に宗教的軍 事的組織を与える。

根底から変化したものは、社会的機械である。 大地機械の代りに、国家という「巨大機械」が、つま り機能的なピラミッドが登場し、その頂点には不動の動者である専制君主をもち、側方的表面と伝達 器官としての官僚装置を、 底辺の労働する部品として村びとたちをもっている。

ストック 〔貯蔵〕 蓄積の対象となり、負債のブロックは、年貢の形をとって無限の関係となる。 コードのあらゆる剰余 価値は所有の対象となる。こうした転換が、すべての総合に浸透する。つまり、水力機械、鉱山機械 による生産の総合会計機械、筆記機械、 記念碑機械による登記の総合、最後に専制君主、その宮廷、 官僚階級を維持する消費の総合といった三つの総合の働きに。

国家を、住居にしたがって人びとを登 記する領土化の原理とみなすのではなく、むしろ住居の原理を、 脱領土化の運動の結果とみなすべき なのである。この運動は、対象としての大地を分割して、人びとを新しい帝国的な登記に、新しい充 実身体に、新しい社会体に従属させる。

商業において貨幣の演ずる役割は、商業そのものよりも、国家による統制に依存するのだ。 商業と貨 幣との関係は総合的であって、分析的ではない。基本的には、貨幣は商業と一体ではなく、国家装置 の維持費としての税金である。 支配階級がこの装置と区別され、自分らの私有財産のためにこの装置 を利用しているところでは、貨幣と税金のきずなは眼に見えるはっきりとした形で現われている。

要するに、貨幣または貨幣の循環は、負債を無限にする手段なのである。国家の二つの行為はまさに このことを隠している。すなわち国家にかかわる居住や領土性は、脱領土化の大規模な運動を開始し、 これがあらゆる原始的出自を専制君主機械に従属させる(農地の問題)。

また負債の廃棄と、負債を 計量可能な形態に変えることは、国家への果てしない奉仕の義務に道を開き、国家はあらゆる原始的 みずからに従属させることになる(負債の問題)。無限の債権者あるいは無限の債権が、可動 的かつ有要な負債ブロックに代ったのである。 専制君主制の地平には、常に一神教が存在する。つまり 生存の負債となる。 臣民自身の生存が負債となるのだ。 債権者はまだ覚していないのに、 債務者は返し続けるというときがやってくる。

帝国的登記は、あらゆる出自と縁組を裏づけ、存続させ、それらを専制君主神の間の直接的な出自 関係と、専制君主と民衆の間の新しい縁組に収束させるのだ。 原始機械のコード化されたあらゆる流 れは、いまや河口にまで導かれて、ここで専制君主によって超コード化される。 超コード化、これこ そが国家の本質をなす操作であり、国家が古い組織体と連続すると同時に断絶する事態を評価する操 作なのである。

つまり、ここには、コード化されないかもしれない欲望の流れに対する恐怖があり、 また超コード化する新しい登記の確立があり、この新しい登記は、たとえそれが死の本能であったとしても、欲望を主権者のものにするのだ。

カーストは超コード化と分かち難い関係にある、数々の支配「階級」を含んでいるが、これらはまだ階級としては現れておらず、国家装置と一体である。誰が主権者の充実身体に触れることができるのか。これこそが、カーストの問題である。

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