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「生活世界」について

フッサールが『ヨーロッパの学問の危機と先験的現象学』において定位した「生活世界」の概念は以下の通りである。

生活 世界 は、 その世界 の 中 に 目ざめ つつ 生き て いる われわれ にとって、 つねに そこ に あり、 あらかじめ われわれ にとって 存在 し、理論的 で あれ 理論 以外 で あれ、 すべて の 実践 の「 地盤」 なので ある。

世界 は、 目ざめ つつ、 つねに 何らかのしかた で 実践的 な 関心 を いだい て いる 主体 として の われわれ にとって、 たまたま ある とき に 与え られる というものではなく、あらゆる現実的および可能的実践の普遍野として、地平として、眼前に与えられている。生とは、たえず確信の中に生きるということなのである。

竹田青嗣. 欲望論 第1巻「意味」の原理論 (p.656). 講談社. Kindle 版.

フッサールは、「生活世界」はこのような確信、信憑を得るための総体であるという観点から諸学問についての現象学的本質学の体系を構想した。

フッサールによれば、近代の人文科学の学的探求は、認識問題を解明することができなかったために完全に挫折した、という。

なぜならば、自然科学の認識の客観性(普遍性)の根拠は「数学化」にあり、一方、人文科学においては「数学化」を認識の普遍性の根拠を基礎づけることができないからである。

人文科学においては、普遍性の基礎づけは根源的な明証性としての「生活世界」に求められねばならないというのである。

ガリレオやニュートンたちの自然科学者たちが自然世界の客観的認識を成し遂げたために、人文領域も同じ 方法が適用されるうると考えたのが挫折する元となった。

「 生活 世界」 が、 認識 の 普遍性 の 最も 基盤 と なる 領域 として 設定 さ れる べき 理由 は 何 か?

自然科学においては、対象物の硬さ、厚さ、重さなどを数値化し「数学化」が可能であるが、人文領域では、対象とするのは自己、他者、他者関係、精神世界、集合世界における関係的本質が認識さるべきものであるため、これらは「数学化」されえないからである。

『ヨーロッパの学問の危機と先験的現象学』の中心的課題が「生活世界」におくのは、フッサールが本質学の構想を人間と文化の領域へと展開してゆくための予備的作業を意味する。


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