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ポール・リクール著『記憶・歴史・忘却』について(1)

今回も、放送大学の教材の『現代フランス哲学に学ぶ』内で杉村靖彦氏が解説するポール・リクールについて学びます。

記憶という作業

一般に、記憶は過去から現在への時間的連続を成り立たせ、記憶する 自己を保持する営みとみなされている。

しかし、このことを一体どのようにすれば確証できるのか?

リクールはそこに原理的なアポリア(行き詰まり)を見ている。

記憶とは、端的にいえば,、「もはやない」 という 「喪失」を 「あった」という 「過去の実在性」として受けとり直す営みである。 

かつての実在と現在の記憶像を、 原本と写しを照合するように第三の視点 から突き合わせることはできない。

過去の出来事は一回きりであり、両者の間には過ぎ去って帰らない時間がはさまっているのである。

『現代フランス哲学に学ぶ』P202

実際には、アポリアであるはずの記憶を実践している。

リクールは、過ぎ去ってしまったものを「もはやない」と「かってあった」ことに分離した。

「もはやない」ことを受容する「喪の作業」とし、「かってあった」ことを再認する「想起の作業」とする二重写しの構造と捉えた。

リクールにいわせれば, 「喪の作業は想起の作業の代価だが、想起の作業は喪の作業の恩恵」だということになる。

生者と死者の交錯

リクールの前著『他者としての自己自身』 では、解釈学的自己は、同一性と自己性,、自己性と他者性という二重の両極性の下で、「裂けたコギト」という姿 をとるに至った。

上記の記憶論によって,、この解釈学的自己の 「裂け 目」は、さらに奥深く陰影に富んだものとなった。

記憶とは「かってあった」という有の次元と、「もはやない」という無の次元が一体となるという、不思議な現象である。

これは、自己が自己になることと自己自身の喪失を受容することと一体となることを意味している。

このような洞察をもっとも強力に展開したハイデガーは『存在と時間』で次のように述べた。

私たちの「現存在」 は 「死への存 在」であり、自らの死を自己固有の可能性としてあらかじめ引き受ける ことで現存在は本来的な自己となる。

リクールは、この説を批判した。リクールによれば、「自己の死」を直接受容することはありえないと至極当然のことを主張したからである。

にもかかわらず、時間的存在としての私たちはやはり 「死への存在」であり、その 「自己性」を確証する記憶の作業は喪の作業と一体でなければならないとリクールは述べる。

だとしたら、 どうすればいいのか?

ここでリクールは、「喪失と喪は他者の死を経由する道の途上でのみ学ばれる」という。

リクールの主張は下記の通りです。

死者としての他者が私たちの記憶に介在してくるこ とでのみ、私たちは同一性の次元での「喪失」 から自己性の次元での 「喪」へと移る。

そして、 「もはやない」ものを「かつてあった」ものと して受けとり直す記憶の作業が、自己性の次元では何を意味するのかを 理解するに至る。

その導きとなるのが、死者は 「もういない」が、「(い た〉という謎めいて深く暗い事実」は抹消できないという事態である。

『現代フランス哲学に学ぶ』P205

「もういない」 死者が「いた」 という事実が 「謎 めいて深く暗い」のはなぜか?

それはこの事実が、完了形の「既 成事実」には収まらず、死によって 「未完了」のまま 「中断」 された可能存在の事実性を指すからである。

かつての可能存在たる死者は、一度も現実化しなかった 「抑圧され、流産した存在可能性」も含めて、「い た」のである。

こうして、死者は私たち生者を存在可能性のレベルで触 発する。 この触発を介してのみ、生者は自らの「自己性」 を形づくる終 わりなき「作業」へと送り返されるのである。

このように、記憶のアポリアに対する解釈学的自己の応答は、その最内奥に「死者による媒介」 を組みこまざるをえない。

だとすれば、 記憶する自己はそもそもの始めから 「歴史的」だともいえる。

生者と死者の 関係は、歴史が生起し語られるための最初の要件だからである。

記憶論を通して浮き彫りになるのは, 解釈学的自己それ自体の歴史的条件なのである。













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