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物語と時間 (続)
今回も、放送大学の教材の『現代フランス哲学に学ぶ』内で杉村靖彦氏が解説するポール・リクールについて学びます。
前回は、時間性のアポリア(行き詰まり)について説明されるわけではないが、時間が物語の筋立てとして形象化されることによってわれわれが自己と世界を生きるための図式になるというところまで記しました。
今回は、リクール理解のキーワードとなる「行為し受苦する自己」、「フィクション物語と歴史物語」、「物語的自己同一性」を追記します。
行為し受苦する自己
SNSなどで何らかの発言(行為)をすると、いいね!ボタンだけがくるわけではなくて、中には厳しい反論を受ける(受苦)こともある。
個人の痛切な経験であれ, 歴史的な苦難であれ、深 い痛苦は人を沈黙へと追いやる。 そして、時間を哲学的な謎であるだけ でなく、実存的に耐えがたいものとする。
そこでこそ物語の力は試され るだろう。 アーレントにならってリクールは 「苦はそれを物語ること で耐えうるものとなる」という。
自己の内面を描いたからといって、苦から逃れるわけではない。だが、描くことによって、少なくとも苦の正体をつきとめることはでき、苦に耐えることはできる、ということでしょう。
フィクション物語と歴史物語の交差
物語とは所詮、フィクションにすぎないのではないかという考え方もあるが、それは余りにも単純だ、と杉村靖彦氏は言う。
一般に物語というと、想像力を自由に羽ばたかせる文学作品が真っ先 に思い浮かぶ。
だが, リクールは歴史もまた物語であり, 歴史学がどれ ほど学問的に精緻になろうとも、歴史叙述から物語るという営みを排除 するわけにはいかないという。
たしかに歴史叙述は実在した過去を描こ うとするが、同時に過去は二度と戻らないものである。
それゆえ、過去 を描こうとする者は、 過去の痕跡を伝えるさまざまな資料を参照しなが らも、最終的には, 時間を筋立て形象化する物語の力に頼るしかない。
この時、 過去の実在性へと向かう歴史的志向性は, 物語に養われる想像 力を不可欠な媒介とする。
その意味で、 過去は多少なりとも文学的だと いってもよい。「昔むかし」 がおとぎ話の始まりを告げるお決まりの言 い方となることは,、そのような観点からも理解できるだろう。
歴史書はノンフィクションだとするが、過去の史実に基づいていたにしても、過去に遡って確認することができないのだから、結局、史実をネタにして、物語を描かざるをえないということになり、つまりフィクションと同様なことになる、というわけです。
物語的自己同一性
構造主義の時代が終わり、この時代を主導した「主体の解体」の後で、改めて別の形で「自己」を探求することになった。解体された主体の後に、「誰が」来ることになるかの結論として「物語的自己同一性」という概念をリクールは提示した。
ところが、概念を提示しただけで、次の課題として残こすことになった。リクールがこの課題に取り組んだのは、1990年に刊行された「他者としての自己自身」であった。これについては、次回とします。
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