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ヘーゲル『大論理学』第二巻 本質論(2)

第一篇 自己自身における反省としての本質


第一章仮象

A 本質的存在と非本質的存在

(1)本質は止揚された有である。本質は自己との単純な同等性だが、しかしそのことは本質が有の領域の一般的否定であるかぎりにおいてである。それ故に本質は、直接性〈有〉が本質の生成の源であって、この止揚の過程〈本質の生成〉の中に保存され、維持されているものとして、その直接性を自己に対立させる。

ヘーゲル全集「大論理学」中巻P10

「本質は止揚された有である」
ヘーゲルが使う止揚とは、植物に例えると、種⇒芽⇒つぼみ⇒花と変容していて、つまり、芽は種を、つぼみは芽を、花はつぼみを、それぞれ否定しつつ、包み込んでいるので、この状態を止揚と称している。すると、本質は有の領域に含みこまれているとなる。

止揚(弁証法)というのは、自己と自己の否定が現われたとき、その否定も自己として包み込み、自己を大きくしていく運動と言える。

真理はそのあらわれかたは多様ですが、単純なものです。それをいきなりもってくるのはダメである。否定といっても、有の領域の一般的否定においてである。

直接的に、目の前にあらわれているものそのものではなく、その根底となっているものがそこにある非自立的なものだ、という否定である。それを通してから、本質は本質となる。本質は有への運動となる。

(2)本質は有の絶対的否定性である。本質は有そのものであるが、しかし単に他者として規定されているのではなく、直接的有としても、ある他在に結びついているような否定としての直接的否定としても止揚されたところの有である。

したがってまた、有または定有も本質とは別のものとして(本質との関係において)保持しているのではない。

それで、この本質と全く区別されたところの直接的なものは単に非本質的な定有ではなくて、むしろ即かつ向目的に(全く)空な直接者である。それは単に非本質にすぎず、仮象にすぎない。

同上

「絶対的否定」とは、同じ次元の否定ではなく、より高い次元からの否定となる。

有の他者となると、同じ有の次元に落ちてしまい、本来の本質ではなくなる。

有または定有は本質と別のものとしてあるのではなくて、自己の真理、自己の根底として、本質をそれ自身においてもっている。

だから、本質的なものとか、それから区別された直接的なものもの、非本質的なものは、自立性をもたない空っぽなものである。これが仮象である。




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