ヘーゲル『大論理学』第二巻 本質論(2)
第一篇 自己自身における反省としての本質
第一章仮象
A 本質的存在と非本質的存在
「本質は止揚された有である」
ヘーゲルが使う止揚とは、植物に例えると、種⇒芽⇒つぼみ⇒花と変容していて、つまり、芽は種を、つぼみは芽を、花はつぼみを、それぞれ否定しつつ、包み込んでいるので、この状態を止揚と称している。すると、本質は有の領域に含みこまれているとなる。
止揚(弁証法)というのは、自己と自己の否定が現われたとき、その否定も自己として包み込み、自己を大きくしていく運動と言える。
真理はそのあらわれかたは多様ですが、単純なものです。それをいきなりもってくるのはダメである。否定といっても、有の領域の一般的否定においてである。
直接的に、目の前にあらわれているものそのものではなく、その根底となっているものがそこにある非自立的なものだ、という否定である。それを通してから、本質は本質となる。本質は有への運動となる。
「絶対的否定」とは、同じ次元の否定ではなく、より高い次元からの否定となる。
有の他者となると、同じ有の次元に落ちてしまい、本来の本質ではなくなる。
有または定有は本質と別のものとしてあるのではなくて、自己の真理、自己の根底として、本質をそれ自身においてもっている。
だから、本質的なものとか、それから区別された直接的なものもの、非本質的なものは、自立性をもたない空っぽなものである。これが仮象である。
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