メルロー゠ポンティの「身体論」について
自己の身体については、対象する側であるが、対象される側でもある。これを、小難しく表現すると下記のようになる。
このことを初めて提示したのは、メルロー゠ポンティの「身体論」である。『知覚の現象学』においてメルロー゠ポンティは、「身体論」における現象学的方法の意義を以下のように語る。
この見解は、フッサールの超越論的現象学の趣旨を的確に捉えていると、竹田青嗣氏は評価する。
「現象野」とは、意識経験におけるこの不透明性それ自体を、その本質において把握しようとする視線であり、そこに現象学の方法が本来含意する、とメルロ=ポンティは言う。
メルロ=ポンティの身体論からは、二つの力点を取り出すことができる、と竹田は叙述する。
第一に、実存としての身体の本質を、実証主義と主知主義の間にあるものとして位置づけ、この両極の間の両義性として、すなわち相互浸透の相において示唆していること。
第二は、身体の実存性とは、われ我が単に生理的身体を生きているのではなく、いわば過去の経験の総体的な堆積として自己の身体を生きていること、それは想起可能な記憶としてではなく、非人称的で身体化された世界経験の総体としてわれわれの身体性を構成をしていること、を意味している。
上記のメルロ=ポンティの身体論、つまり両義性と相互浸透の構図から離れ、それが含む本質学的動機をさらに拡張して、現前意識に定位する身体の本質洞察の例を提示する。
われわれが出会う事物の存在として、事物、他者身体、自己身体とある。ショーペンハウアーは他者身体については、何も語っていないが、自己身体の内的洞察はきわめて妥当だ、と竹田は評価する。
竹田は、ショーペンハウアーの洞察を反転することができるとする。すなわち、ある事物が自分の意志に応じて運動するのを見るなら、われわれはこの事物を自分の身体(の一部)とみなさないわけにはいかない、と言うのである。
われわれに自己身体は身体意志によってコントロールされ、その意志に対応して身体は変化する。自己身体の位置を変化させればこれに応じて外界の視野や聴覚野もまた変化する。この空間的対応関係の図式を一般にキネステーゼ(運動感覚)と呼ばれている。
だが、この洞察も本質の一契機にすぎないという。
自己身体が外的事物との接触によってそれと知られる内的感覚の外延であるというものもある。逆に言えば、自己身体の外延を、その全体を限界づける触覚において認知する。ある事物が打撃を受けたのを見て自分の内に衝撃や痛みを感じるとき「私」はその事物を自己身体と感じるであろう、ということである。
さらにわれわれは、現前意識に到来するさまざまな感覚表象(情動触発)について、自己身体の外延的境界において生じると感じるものとそうでなものとがある。後者は内的なものとみなし触覚ではなく内感と呼ぶ。
内感は、五官的な知覚を起源としない情動感覚を源泉としている。たとえば、飢えや渇きを感じるときは、内部器官の触覚や知覚感覚をもつわけだはない。
現前意識に到来するさまざまな感覚ー情動は外的知覚と内感とに区別するが、外的世界を「環境世界」として知り、内的世界を自己身体として了解するのである。つまり、自己身体は、外界と内的世界のインターフェースといえる。
引用図書: 竹田青嗣著『欲望論 第1巻「意味」の原理論』
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