ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ 『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂病』(9)読書メモ
第三章 第四節 精神分析と人類学
私 たち は 性急 に 進み すぎ て いる。あたかもオイディプスが未開の大地機械の中にすでに確立されているかのように、私たちはふるまっている。けれども、ニーチェが良心の呵責について語っているように、このような植物が成長するのは、この地の上ではない。
なぜなら、精神医学や精神分析に固有な家族主義の枠において理解される「家族的コンプレックス」としてのオイディプスを生みだす諸条件は、もちろんまだ与えられていないからである。
未開の諸家族は、縁組と出自とに関する実践、政治、戦略を形成する。これらの家族は、形式的に社会的生産の動力をなる要素であり、表現的なミクロコスモスとは何の関係もない。父、母、姉妹は、これらの家族において、常に、父、母、姉妹とは別のものとして働いている。
さらに、こうした父や母などに加えて、ここには姻族が存在する。この姻族は、の動的な具体的実在であり、社会野と外延の同じくする家族間の様々な関係を構成している。
しかし、家族的諸規定が社会野のあらゆる隅々において破裂し、社会に固有の諸規定に合体したままであるといってしまっては、やはり正確ではないであろう。
なぜなら、家族的規定と社会的規定とは、大地機械において唯一の同じ部品であるからである。ここではまだ家族の再生産は、性質を異にする社会の再生産に役立つ単純な手段や質量ではない。
だから、家族の再生産の上に社会の再生産を折り重ね、これら両者の間に一対一の対応関係を打ちたてうる可能性は、なんら存在していない。この一対一の対応関係は、仮に成立するなら、なんらかの家族的コンプレックスに、表現的な価値と、見かけの上の自律的形態とを与えることになるものであるが。
ところが逆に、たとえきわめて小さくても、家族の中のまったく小さな個人さえも、直接的に、歴史的経済的社会野を備給しているということは明らかで、この社会野は、いかなる精神的構造にも、またいかなる情動的配置にも還元されえないものである。
私 たち は 分裂 分析 を二つの様相によって規定した。
①無意識の疑似的な表現的形態の破壊
②欲望による社会野の無意識的備給の発見
多くの原始的治療は、まさにこの観点からあらためて考察しなおされなければならない。これらは、まさに実践された分裂分析なのである。
ところで、病気 の 原因 を指し示すという責任を負った占い術と、病気をなおす責任を負った医療とは、どのようにして行われるのか。病気の原因は歯である。それは祖先の狩人の上の二本の門歯であり、これらの門歯は聖なる袋の中に収められているが、しかし病人の身体につき刺さろうとして、この袋から逃げることもできる。
しかし門歯の及ぼす効果を診断しそれを払いのけるために、占い師と医者は社会的分析に専念するのであって、この分析は、領土とその近隣、族長と副族長の支配領、家系とその線分、縁組や出自に関するのである。
つまり、占い師と医者とは、たえず政治的経済的なもろもろの単位と関係づけて、欲望を解明しようとする。
病人 に 水薬 を 与え、門歯を吸いこむために病人の身体にいくつかの角をとりつけ、太鼓を打たせ、医者はひとつの儀式にとりかかる。この儀式は休止と再開によって中断され、ここにはあらゆる種類の流れがあり、ことばの流れと切断がある。村の成員たちが話しにやってくる。病人は語る。亡霊が呼び出される。医者が説明する。儀式あ再び始まる。太鼓、歌、失神状態。
問題は、単に利害による社会野の前意識的備給を見いだすことだけはない。もっと深いところに、欲望による社会野の無意識的備給を見いだすことである。まさにこれは、病人が結婚するときに、また彼が村の中でひとつの地位を占めるときに、さらには族長が集団の中であらゆる地位を強度として生きるときに、介入しているのだ。
出発点 はオイディプス的であるようにみえる、と私たちは言った。だが、それはただ、私たちにとって出発点にすぎなかったのだ。誰かが父、母、祖父について私たちに語るたびに、私たちはすぐオイディプスと呼ぶように仕込まれているからである。ほんとうは、ヌデンブ族の分析は決してオイディプス的ではなかった。
つまり、この分析は、直接的に、社会的な組織や組織解体にかかわるものであった。性愛そのものが、女たちとの結婚による、欲望のある種の備給であった。両親は、ここでは刺激の役割を演じていたのであって、族長やその形象によって引き受けられる集団の組織者(あるいはその破壊者)の役割を演じていたのではない。
あらゆるものが父の名の上に引き下ろされるのではなく、むしろその名は歴史上のあらゆる名前に開かれていた。あらゆるものが去勢というグロテスクな切断に投射されてしまうのではなく、あらゆるものは族長支配や家系や植民地化といった無数の流れー切断の中に分散していた。関係の数千の流れー切断の中に分散していたのである。
人種、氏族、縁組、出自のあらゆる働き、歴史的、集団的なあらゆる漂流。こうしたものは。まさしくオイディプス的分析の対極にある。オイディプス的分析は、錯乱の内容を執拗に粉砕し、これを全力で「父の象徴的空虚」の中につめこんでしまう。
植民地 化 の 影響 によって、分析が部分的にオイディプス的になることがあるのだ。例えば植民者は、自分の目的に役立てるために、族長支配を廃止したり使用したりする(いやそれだけでなく、さらに多くの他のものも使用する。族長支配は、まだとるにたらないものだ)。
植民者はこう語る。おまえの父はおまえの父で、それ以外の何ものでもない。あるいは、母方の祖父の同じだ。こういう人物たちを族長と混同してはならない。・・・・おまえの家族はおまえの家族で、それ以外の何ものでもない。社会的再生産は、もはやおまえの家族にかかわらない。もっとも、新しい再生産体制にやがて従属する材料を供給するために、あまえの家族は間違いなく必要とされるのであるが・・・・。そうだ。このとき、無一物になった未開人たちのためにオイディプスの枠が、浮かび上がる。スラム街のオイディプス。
ところが、私たちは、被植民者たちがずっとオイディプスに対する抵抗の典型的な実例であったことをみてきた。じじつここでは、オイディプス的構造は閉じることができず、三角形の各項は、争っている場合も、妥協している場合も、いずれにしろ圧倒的な社会的再生産の代理者たちに固着したままなのだ(白人、宣教師、徴税人、物資輸出業者、役人となった村の名士、白人を呪う古老たち、政治闘争を始める青年たち、等々といった人びとに)。
そして確かに、人類学的あるいは歴史的説明が私たちの現在の組織と矛盾しないことは、それなりに人類学的仮説の基礎的要素を含んでいることは、単に正当なことであるのみならず、無視しえないことでもある。こうした考え方は、世界史の要求を喚起しながら、マルクスが語っていたことである。ただし、それは現在の組織が自分自身を批判しうるという条件においてのことであると、彼はつけ加えていた。
人類学者たちは、精神分析家に、たくさん教えることがある。 「何を意味するか」が重要ではないこ とについて。 ギリシャ学者たちがフロイトのオイディプス概念に対立する立場に立つとき、彼らは精 神分析的解釈に他の解釈を対立させていると考えてはならない。 人類学者とギリシァ学者たちの方が、 最後には精神分析家たちを強いて、同様の発見をさせることもありうるからである。
すなわち無意識 の材料も、 精神分析的解釈も、もはやありえず、ただ用法があるだけであり、無意識の総合の分析的 用法があるだけであって、それはもろもろのシニフィエの規定によっても、ひとつのシニフィアンの 指定によっても、定義されはしない。 それはいかに作動するのか、ということだけが唯一の問題なの である。 分裂分析はあらゆる解釈を放棄する。 なぜなら、それは無意識の材料を発見することを、断 乎として放棄するからである。
つまり無意識は何も意味しない。反対に、それは諸機械を構成してい る。それは欲望の機械なのである。 分裂分析は、これらの欲望の諸機械が社会諸機械に内在しながら、 いかに使用され、いかに作動するかを発見する。 無意識は何も語らず、機械として作動する。 それは表現的でもなく、生産的である。象徴とは、単にひとつの社会的機械であり、これは欲望機械として作動する。
事物の釈義的な意味(つまり、ひとが事物について語ること)というものは、諸要素の中のひとつの要素でしかなく、その事物の操作的用法(ひとがその事物について行うこと)や、位置にかかわる機能(同じ複合体の中ににおける他の事物との関係)ほど重要ではないのである。これにしたがえば、象徴は、決してその意味と一対一に対応する関係にあるのではなく、常に多様なものを参照している。つまりそれは「常に多声的、多義的」である。
経済的、政治的、宗教的等々の組織体に対する意識的備給の下には、無意識の性的備給、ミクロの備給が存在し、このミクロの備給は、欲望が社会野に現前する仕方を保証し、欲望がこの社会野に結びつく仕方を保証する。社会野は、欲望に関係づけられ統計的に規定される領域なのである。欲望機械は、社会諸機械の中で作動する。
あたかも、欲望機械は、それ自身が多数の次元で別に形成しているモル的集合の中に、自分自身の固有の体制をもっているかのように。ひとつの物神物神〔 呪物〕は、欲望機械の表出なのである。
性愛は、家族的集合の中で表象されうるモル的規定ではまったくない。そうではなくて、もともと社会的であり二次的に家族的である諸集合の中で作動する分子的な細部の規定なのである。
これら の 集合 は、まさに欲望の現前と生産の領野を、非オイディプス的な無意識全体を示している、この無意識がオイディプスを生みだすことになるのは、ただその二次的な統計的形成物(「もろもろのコンプレックス」)の中のひとつとしてでしかない、しかもそれは、社会機械を次々と生成させる歴史の最後においてのことでしかない。この社会機械の体制は欲望機械の体制に比較されるものだ。
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