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「物語的自己同一性」について

今回も、放送大学の教材の『現代フランス哲学に学ぶ』内で杉村靖彦氏が解説するポール・リクールについて学びます。

リクールは、『時間と物語』で結論として、「物語的自己同一性」の概念を提示した。

今回は、それが、どういうものかを見ることにします。

リクールの第一の論点

自己同一性を同一性と自己性に区別したことである。

ふつう自己同一性というのは何かが「同一」であることを、たとえば、花をさして、「これは何か」と尋ねると、「これは花です」というように答えることができるので、「同一」であることを確認できます。これを、リクールは同一性と呼んでいます。

ところが、「お前は誰か」と尋ねられたときは次のようになる。

「お前は誰か」 と問われた時、 私たちはさまざま な 「同一の」 事柄をもちだすだろう。

私は○○という名で、日本人で、これこれの身体的性格的特徴をもっている, というように。

だが、そ れらが私は「誰」なのかという問いへの答えとなるのは、結局それらを 自分のこととして認めるのが同じ自己自身だからである。

この「同じ」 とはあるものが 「何」 であるかを外から識別させる 「同一性」 ではな く、 「自己 (soi/self) 」 への再帰的な関係によってそのつど生起する 「同じ」である。

『現代フランス哲学に学ぶ』P200

これをリクールは「自己同一性」と呼んでいる。「私は誰か」と尋ねられたら、自分の過去を物語的に語らねければならない。だから「物語的自己同一性」を追求するということになる。

さらに、自己が幼児期のころについては、両親や親戚、さらに近しい人々の他者が語るというのが加わってくる。

人間の自己同一性は、同一性と自己性という統一不可能な二極の間に 張り渡されている。

物語性が時間性のアポリアへの応答であったように、「物語的自己同一性」とは、人間の自己同一性のアポリアへの応答である、ということになる。

リクールの第二の論点


自己を語るときは、先述したように無数の他者も乱入してくるので、「自己性」と「他者性」の弁証法がリクールの論点となる。

物語的自己同一性の探究は、無数の可能 的物語の交差の中で、必然的に自他関係の交錯を内包せざるをえない。

物語を介してそのつど形をとる 「自己の問い」は、さまざまな種類の他者性への開口部としての自己を描くのである。

物語られた自己は他者の 物語を組みこみ、他者へと向けて自らを語り出す。

『現代フランス哲学に学ぶ』P201

また、物語がアポリ アに対する実践的応答への媒介であったことを思い起こせば、リクール が自己性という語でとらえる自己再帰は、「行為し受苦する自己」の 「行為と受苦」の次元で確認されるはずである。その場合、自己の内な る他者性ともいうべき身体性も関わってくるだろう。















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