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「~とは何か」(1)

ものごとの本質をつかみ取ろうとするとき「「~とは何か」という問いを発することになる。このとき、どうしても身構えてしまう。

どうしてそうなるかといえば、すでにその答えがあらかじめわかっていて、それは永遠不変の真実在そのものがあるに違いないと思い込むからかも知れない。

「嫉妬とは何か」、「執着とは何か」「センスとは何か」等々を議論するポッドキャストの番組を聴いていると、出演者がそれぞれ自分自身の体験から発言して、その中から、「あるあるだよね」と皆が納得するものを見つけ出していくという進行となっていた。

何を喋ってもよいが、一定の約束事があり、それは「他者の話しをよく聞く」「えらい人(有名な哲学者など)の言葉をつかわない」「人それぞれにしない」の三つです。

これは、プラトンの初期対話篇で示されたような様々な事例(「徳とは何か」、「勇気と何か」「正義とは何か」など)を出しながら、それらのなかで直観されている共通な意味を言葉でつかまえようとする、という意味での哲学対話のようなものになっている。

さらにフッサール現象学では、この手法を、つまり諸体験のなかで直観されている共通な意味を取り出す作業を「本質観取」と名づけている。

この「本質」という概念が、中々やっかいなことになっている。

この本質という言葉には、中期プラトン以来の「永遠不変なイデア」というニュアンスがつきまとっている。

そのため、この「本質観取」もまた、「諸体験に含まれる永遠不変なものを、そのまま取り出すこと」と理解されてきた。

これに対して、20世紀以降のほとんどの哲学が、永遠不変なイデア的なものの存在を疑い、また、そうした永遠不変なものをそのままに取り出すことを疑ってきた。

なぜなら、こうした見方は、「そもそも認識とは、特定の関心や言語や社会関係のなかで形づくられるものだ」ということを意識したとたん、疑わしいものになるからである。

具体的には、欧米の哲学者は下記のように、本質という概念に疑いをもっている。

  • 英米哲学のウィトゲンシュタインは、本質は存在せず、家族的類似性があるだけだと述べている。

  • 同じく英米哲学プラグマティズムのローティは、本質の概念を悪しき形而上学だと見なしている。

  • ポスト・モダン哲学のデリダやフーコーは、本質や真理をを求めようとする志向じたいを解体しようとしている。

  • 「社会構築主義」は、永遠な本質などはなく。本質とされてきたものは社会におけるそのつどの社会的文脈や権力関係において構築されたものにすぎない、という考え方をとる。

何故このように、本質が避けられることになったのだろうか?

  • 言語や社会的文脈以前にあらかじめ永遠不変な本質が存在することを疑う。

  • ポスト・モダン哲学に大きな影響を与えたニーチェは、認識を根源的に欲望のなす賛否として捉えるーーー 一切の対象を欲望と相関するものとして捉えるーーー見方も、やはり永遠不変な本質の存在を破壊した。

こうして20世紀には、認識とは「言語(文化)」「社会的文脈(権力関係)」「欲望」などによって形作られるものである、という見方が広まった。

さらに、本質の否定にはより現実的な理由があった。唯一不変の本質という観念は、人々の求める自由な生き方を抑圧することになるという感じ方が広まったことにある。

20世紀は、世界大戦争と冷戦の時代であり、民主主義の正義と共産主義の正義と、それぞれが自己の正義の正統性を声高々に主張しあった結果、相手を攻撃し、殺し合うという時代であった。

こんな時代にあっては、「唯一の真なる正義」や「唯一の本質」という観念をイデオロギーに捉われているもとして批判し相対化することがポスト・モダン哲学者たちにとって、大きな政治的課題だった。

その他、フェミニズム、人種なども問題も本質主義への批判となった。本質という言葉は、党派的思考や差別や不自由を生み出す悪しきものとされてきた。

こうしたことが重なって、フッサール現象学は、ポスト・モダン哲学者たちそしてポスト・モダン後の、新実在論主義者たちから否定、ないし無視されてしまっている。

さらに、西研氏、竹田青嗣氏、苫野一徳氏たちのフッサール現象学解釈は、他の現象学者からは異端とされている。どうにも不思議な現象だなぁ~
と、モヤモヤしたものがあったので、それを解消する作業を、今後細々と続けていく予定です。
(続く)

引用図書:西研著『哲学は対話する』

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