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イギリス経験論について(ヒューム)

今回も、勢力尚雅共著『経験論から言語哲学』から、デヴィッド・ヒュームについて学びます。

ヒュームが取り組んでいるのは、われわれが「私自身」とか「精神」と呼ぶものが、諸知覚の生成継起する場のようなものにすぎないにもかかわらず、「私自身という同一不変の存在者を想定してしまう「傾向性(性向)」はどのように働いているのだろうかという問題であった。

離人症者のばあいは、空間的・時間的な「つながり」や「あいだ」、あるいは「意味の連続性」のない諸知覚が無秩序に現われているという。

一方、われわれのばあいは、離人症者とは異なり、継起する諸知覚を精神が束ねて、数多くの適切な信念(世界は実在するという信念、その世界には因果法則があるという信念など)を作り出すことができるのだ、と答えたくなります。

ところが、ヒュームは、次のように提案する。

しかし、知覚を見たり組み立てたりする能動的な精神の存在という想定自体も、一つの信念にすぎないのでは ないか。 われわれが観察できるのは、 諸知覚のみなのだから、 能動的な 精神が諸知覚を秩序づけていくという信念自体を考察の対象とし、この 信念も含め、そもそも諸知覚がさまざまな信念へと形成されていくときに何が生じているのかを観察しようというのがヒュームの提案となる。

『イギリス経験論から言語哲学へ』P57

バークリが、外的物体という想定を斥けたのに対し、ヒュームは、観念を見たり束ねたりする能動的存在者としての精神という想定を留保して、われわれの経験を描き直そうとする。

そして、ヒュームの関心は、今ココに現前していない観念間に原因や結果の関係を発見することができる因果的推理とは何かということに向かう。

ヒュームによれば、原因から結果、あるいは結果から原因への推移を正当化する媒介項としての「自然の斉一性原理」それそのものは正当化されていないにも関わらず、想像力は理由なしにこの原理を未来にまで想定し続けている、と言うのである。

「自然の斉一性原理」とは、過去における原因・結果の規則的な繰返し(「恒常的連結」)と、まだ到来していない未来に起こるであろうと予測する出来事が同じである、と信じることを意味している。だから、ヒュームはこれを正当化するわけにはいかないと考える。

バークリは、感覚の観念が生む原因としての神の博愛を語っていたが、それは想像力に頼りすぎるからであると、ヒュームは批判する。

そもそも原因と結果についての推理が想像力によるものとすれば、無数にあり、それをすべて受け入れるというオプションは拒否する、とヒュームは言う。 

私は、すべての信念と推理を拒否する用意ができていて、いかなる意見をも、他のものより蓋然的であるとか、 よりありそうであると見 なすことさえできないのである。

私はどこにいるのか、また私は何な のか。 私はいかなる原因から私の存在を得ているのか、そしてどんな 状態に戻るのであろうか。 私は誰の好意にすがるべきなのか。 そして、 誰の怒りを恐れるべきなのか。

いかなる存在者が私を取り巻いている のか、そして,誰に対して私は影響力をもっていて、 誰が私に対して 影響力をもっているのか。

私はこれらすべての疑問によって茫然自失 し,自分を最も深い暗闇に取り巻かれ、 すべての器官と能力の使用を 全く奪われて、 想像できるかぎり最も哀れむべき状態にいると空想し 始めるのである。 (THNI4-7p.175)

『イギリス経験論から言語哲学へ』P76~P77

ヒュームの認識論はこのような懐疑に至ったから失敗だったという評 価は、哲学史の 「常識」 としていまだに根強い。 しかし、ヒュームの真意は、われわれが 「知性」 や 「理性」 と呼ぶ能力についての再考を促す ために二つの論点を提示するところにある。

第一に、われわれの認識は, 「知性」 の行使によってというよりも、 想像力の不随意かつ抗しがたい作用によって生成しているということ。

そして、第二に、 もし仮にそのような認識の正当性について精査し続け る知性だけを恒常的に行使できるとすれば、それは自らが虚偽である可 能性を計算し続け、 すべての信念を消し去ろうとする作用になってしま うということである。

つまり、われわれの認識を必然的にガイドしているように見える想像力に身をまかせることは危険であるが、かといって、それを疑い続け純粋な知性の行使を企てることも危険であり、この二つの極端が、哲学者たちの誤りの源泉になっている、という蓋然的推理である。

もちろん、この二つの道の危険性を信じさせる蓋然的推理自体もまた想像力の産物であるとすると、その示唆に従うことも、その蓋然性を吟味し続けることも、どちらの道にも、自信がもてない、「哲学的憂鬱と錯乱」に沈んでしまう。

しかし、ヒュームは、他者とともに生き、話し、行動することによって、そうした憂鬱や錯乱から逃れることができる、と言っている。

こうして、ヒュームは、知性への懐疑を独白的に語る人から、他の人とともに考え、行動する実践の人へと転身した。

次に、考えることと話すことの分かちがたい関係、つまり、想像力と言語の関係についてのヒュームの観察を見てみる。

ヒュームによれば、想像力は、類似、接近、因果の関係にある諸知覚を束ねるように自然によって決定されている。しかし留意すべき点は、諸知覚を束ねる際に働く想像力を支配するこの連合原理の作動には、言語が大きな役割を果たすということです。

一般名辞を用いた判断に用いられる言語(「一般的な言語」)についてのヒュームの議論は以下である。

第一に、諸知覚の類似関係が直観によって把握されるものだとしても、言語を用いて他者に判断を伝える際には、どんな類似関係も承認されるわけではない。

第二に、語の意味を知るとはいわゆる「メンタルイメージ」(語に対応する私秘的なイメージ)をもつことはない。

では、言語使用に際して諸観念相互に「一定の関係」を帰す、つまり言語の用法と知覚の束ね方に一定のルールを帰す習慣を、どのように獲得するのだろうか。

ヒュームによれば、暴力や無秩序といった著しい不便を避けることに役立つ一般的な言語と、それらを用いる際の知覚の束ね方を導く一般的なルールは、社交し判断しあう人々の間で自然に発明される。しかも、そのルールは、恣意的であることが許されず、「共通基準」でありうると言う。このような現象を生むことを「コンベンション」と言う。

つまり、理性に基づく契約が秩序を生むのではなく、コンベンション、すなわち、人々が相互に表現しあう「共通利益の一般的感覚」が不便や無秩序を減らすことに役立つルールの適切な形を人々に自然に探らせる。

各自がそれぞれの交際範囲の中で、互いに相手も自分と同じようにルールを守るだろうと想像しながらルールを守りあうことによって、結果として「正義」という有用な制度が社会に確立されていくとヒュームは考えるのである。

もちろん、ヒュームは一般的なルールの遵守や、一般的判断における他者との協調行動は、「表面上の調和」を生むにすぎないことを看過していない。

たとえば、一般的観点に立って道徳的判断を下すという一般的なルールは、一般的判断における一致を生み、ある程度の調和を生むが、そのルールの具体的解釈や、個別的な問題についての判断となると、調停が容易でない対立が残るだろう。

ヒュームが生きていた時代と古代ギリシャとでは、同性愛、近親相姦、決闘、自殺、武勇、不倫などの判断は必ずしも一致しないというようなことである。

人々が強調して実践することに共通利益を感じること(コンベンション)によって広まる発明・工夫として、「寛容さ」の生成が推理される。これは具体的にはどのようなものだろうか。

ヒュームによれば、われわれの共感能力は、自分に近い人たちを偏愛する傾向があり、経験の狭さと、慣れ親しんだ言語用法への執着から、誰しも偏った判断に囚われてしまう。

とりわけ、哲学者や神学者が空想と言語を組み合わせてつくる偏狭な世界観を、ヒュームは「人為」と呼び、それを強く批判している。

しかし、一方で、ヒュームは、近親者を偏愛したり、偏狭な人為的世界観を作って異質な他者を排除することに共謀しがちはわれわれの自然な弱点が、歴史的に見ればコンベンションから生まれる工夫の試行錯誤によって、ある程度緩和されるとも考えている。

ヒュームは懐疑論者であるというイメージに反して、その思想には現実のなかで市民社会の存続と発展を望んでいるという一面を見せている。

参考図書:
勢力尚雅共著『経験論から言語哲学へ』
竹田青嗣編『哲学書で読む 最強の哲学入門』











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