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アンリ・ベルクソンの神秘主義

アンリ・ベルクソン著『道徳と宗教の二つの源泉』より、神秘主義にフォーカスして描いてみます。ベルクソンは、アメリカのプラグマティズムの提唱者であるウィリアム・ジェイムズの影響で神秘主義に関心を持つことになったと言われています。

ウィリアム・ジェイムズ は、 自分 は 神秘的 状態 を 経験 し た こと は ない と 言っ て いる。 しかし つけ加え て、 この 状態 を 体験 で 知っ た 人 の 話 を 聞けば、「何ほどかの自分のうちにも反響するものがあった」と言っている。

ベルクソン. 道徳と宗教の二つの源泉II (中公クラシックス) (Kindle の位置No.2596). . Kindle 版.

神秘的な体験をしたなどと口に出すと、いかさまか気違いだとしか見ようとしないのは、一般的な反応だと思われるが、実際に体験し、すでに反響を聞いている人にとっては少しも痛痒さを感じないのであろう。

実は、私自身も小学3年生か4年生の頃に、奇妙なものを見たという体験があるので、「いかほどかの反響するものがあった」というのは、分からないではない。

平賀裕貴氏は著作『アンリ・ベルクソンの神秘主義』で次のように叙述しています。

神秘経験が「確実性」をもつことを証明するために、〈事実の複数線〉とい う方法が提示される。ベルクソンによれば、それぞれの神秘家の経験は、それがひとつだけ孤立した 状態にある場合は、たんなる「蓋然性」しかもたないが、複数の経験の「蓋然性」が「加算」される と、「蓋然性」の集積が「確実性」を帯びたものとなる。「確実性」を得るためには、ひとつひとつの 経験の事実がもつ方向性を線状に延長させ、それぞれの経験から延長された各線が交差する一点を探 る必要がある。経験から延長されたこれらの各線が交差する点においてこそ「確実性」が得られる、 というのが〈事実の複数線〉とベルクソンが呼ぶ思考の方法である。
 ベルクソンにとって、なぜ経験は「蓋然性」 しかもちえないのか。 これは、経験についての「観察」が、「蓋然性」 しかもたらさないと言い換えることができる。元来ベルクソンにとっては、神秘 経験に限らず非宗教的な経験ですら外的観察を受け入れない。 要するに、外的観察で経験者本人の感 覚を知ることはできないというのが彼の主張だ。

『アンリ・ベルクソンの神秘主義』P83

平賀氏によれば、ベルクソンの最初の著作『意識に直接に与えられたものについての試論』の時点でこの主張は強調されていたと言う。

経験そ のものは、そこに含まれる内的感情の強度を含め、数値や記号へと翻訳されなければ外部に伝達でき ない。しかし翻訳された数値や記号は、内的感情とは似ても似つかないものへと変質している。だか らこそ、経験についての観察は 「蓋然性」 しかもたらさないとベルクソンは説く。 それゆえ、ベルク ソンにとっては、経験的「蓋然性」を乗り越えて、哲学的 「確実性」を獲得するための方法が必要だ ったのである。

同上P84

〈事実の複数線〉における事実の承認が、一種の協力関係によって構築されうるという点を、測量技術になぞらえてベルクソンは説明している。

測量 技師 は、 直接 足 を 運べ ぬ 地点 への 距離 を 測る ため に、 到達 可能 な 二地点から、それぞれ問題地点への方向鏡照準をつける。私は、このいわゆる交会測量法こそ、形而上学を決定的に進歩させうる唯一の方法だと思う。

ベルクソン. 道徳と宗教の二つの源泉II (中公クラシックス) (Kindle の位置No.2655). . Kindle 版.

この方法によって、哲学者たちの間にも協力が打ちたてられ、そして神秘経験の確実さを探求するためにも〈事実の複数線〉は適用される、とベルクソンは考えた。

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