「般若心経」はにせもの?
苫米地英人著『お釈迦様の脳科学』を以前に読んだことあるのですが、今回何気なく手にしてみると、「般若心経はにせもの?」という箇所にでくわし、おもわずのけぞってしまった。
前回は気づかなかったのか、気にしていなかったのかのどちらかでしょう。
苫米地氏は、次のように述べています。
苫米地氏は、認知科学者であるが、天台宗で得度し僧籍があり、ハワイ別院国際部長という肩書を持っている方ですので、気になるところではあります。
苫米地氏は、「漢語版『般若心経』は7世紀からあるのに、サンスクリット語版は8世紀後半のものしかない」というのです。
サンスクリット語に訳したのは、最初に『般若心経』を漢訳したとされる、玄奘ではないか、と苫米地氏は推測している。
仏教の経典は、大乗経典を含めて全て「如是我聞」 つまり「私がお釈さまから聞いたところ」というフレーズから始まる。
ところが、『般若心経』だけは「観自在菩薩」から始まる。しかも、観自在菩薩が釈迦の弟子のサーリプッタ(舎利子)に説教する形となっている。これは仏教がわかっていない人間が作った可能性がある、と苫米地氏は酷評する。
仏教的には観自在菩薩よりサーリプッタの方が立場が上なのだが、何故か、般若心経はそうなっていないというわけです。
これでは、取り付く島もない状態となるので、仏教学者佐々木閑著『100分で名著ブックス 般若心経』で確認してみた。
サンスクリット語版は法隆寺のものが最古であり、漢訳版より最古のサンスクリット語版は現在でも発見されていないことは、苫米地氏が述べている通りです。
観自在菩薩がサーリプッタを説教していることについては、佐々木氏は次のように述べている。
釈迦の死後約500年経過した新興の宗派である「大乗仏教」が興ったのであるが、般若心経は、その大乗仏教運動の中で作られている。
観自在菩薩、つまり観音様は、そうした運動の中で生まれたアイドルゆえに、釈迦の一番弟子よりも上位にあることを強調したということなのでしょう。
『般若心経』の価値については、佐々木氏は、次のような見解を述べています。
釈迦の教えというものは、宗教にしては、かなり論理的であり、どちらかといえば科学と親和性があるぐらいです。この点は、苫米地も同様のことを述べています。
しかし、釈迦が説く「修行一筋の道」では救われない人がいることは確かです。神秘的なことに希望を抱き、そこにしか安らぎを得られない人のために「般若心経」が作られたと考えられうる。
だからこそ、釈迦の仏教を否定していることで、般若心経の存在意義が生まれてくることが理解できる。
縁起という概念に縛られ、にっちもさっちもいかない状況にあっては、これをちゃぶ台返しのようにして、否定する爽快さが般若心経にはある。しかも、たった262文字の短くもないが、決して長くはないお経に、仏教のエッセンスが全て封じ込められているというのは、驚きではある。
「羯 諦 羯 諦」(ギャーテイギャーテイ)という呪文には、たいした意味はないが、とにかくこの文言を口に出して唱え、文字にして書くことが大切だ、と佐々木氏は言う。意味がないのではなくて、奥に秘めた意味、神秘があるというのです。
神秘の力で空なる世界を見通し、あらゆる困難を克服し、自分がブッダとなることを可能にする不思議な「特効薬」となるのが、「羯 諦 羯 諦」という呪文だというのです。
神秘となると、なぜか抵抗感があるのは、それは、「神秘」と「迷信」を混同しているからです。
「迷信」は、現前にある現象の間に誤った因果関係を想定している。「神秘」は、世の中の現象の奥にある人智では説明不可能な力を感じることです。
ただし「羯 諦 羯 諦」と唱えると、病気が治ると断定すれば、迷信となる。
病んでいるとき、苦しんでいるとき、悩んでいるとき、死にたいなどと思ったとき、理詰めの論理より、不思議な力にすがりたくなるのは人の常です。
そのときは、意味の理解できないお経でも唱えていると、気持ちが落ち着くものです。それは、どんな合理主義者でも否定できないことでしょう。
【余談です。哲学者ベルクソンは、神秘性を強調しているが、同じ1859年生まれのフッサールは、論理的であり、神秘には、まったく縁遠い人である。つまり、フッサールは、釈迦的であり、ベルクソンは大乗仏教的だということになるのかな。】
3年前ぐらいに、きれいな文字を書きたいという目的もあって、般若心経の写経キットを購入したが、一回使ったキリだった。探しだして、また練習してみるか。気持ちも落着くから・・・
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