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ハイデガーの解釈学的現象学(5)

引続き、榊原哲也氏共著『現代に生きる現象学 ー意味・身体・ケアー』に基づいて学びます。

ハイデガーによれば、他者への「顧慮的気遣い」は、そうした積極的な様態に関して、「二つの極端な可能性」をもっている。それは、「跳び込んで尽力する気遣い」と「先に跳んで手本を示す気遣い」である、と言う。

「跳び込んで尽力する気遣い」について、ハイデガーは、次のように述べる。

顧慮的な気遣いは特定の他者から「気遣い」をいわば奪取して、その他者に代わって配慮的な気遣いのうちに身を置き、その他者のために尽力することがある。

こうした顧慮的な気遣いは、配慮的に気遣われるべき当のことをその他者に代わって引き受けるのである。

その他者はそのさいおのれの場面から追い出され、身を退くことによって、その結果、配慮的に気遣われたものを、意のままになるように仕上げられたものとして後で受け取ることになるか、ないしは配慮的に気遣われたものからまったくまぬがれてしまう。

そうした顧慮的な気遣いにおいてはその他者は、依存的で支配をうける人になることがありうる。たとえ、この支配が暗黙のうちのものであって、支配をうける人には秘匿されたままであろうとも、そうなのである。

尽力して「気遣い」を奪取してやるこうした顧慮的な気遣いは、相互共存在を広範囲にわたって規定しており、またそうした顧慮的な気遣いは、たいてい道具的存在者の配慮的な気遣いに関係している。

ハイデガー. 存在と時間I (中公クラシックス) (p.350).
中央公論新社. Kindle 版.

これは、前回に記述した、空腹の子どもに対して親が食事を用意し世話するような顧慮的気遣いが、これにあたるだろう。

デイサービスで事務の仕事をしていたときに、ある看護師さんのケースは、まさにこの通りだった。勤務中でも家族(当時中学生や高校生だった子ども)から頻繁に携帯電話が鳴っていて、ナニは何処にある、アレは何処にあるなどの、たわいもない内容のことが、洩れ聞こえていた。

勤務中に、家庭内の瑣末なことを、電話かけたり、電話をかけることを許すことは問題である。が、それよりも、子どもが大きくなっても、親離れ、子ども離れしていない様子を見れば、「顧慮的な気遣い」が行き過ぎて、親の支配と子どもの依存の関係が続いていることの方が、より問題であろう。それゆえ、デイサービスでの利用者や介護士との関係も同様となっていた。

専門である介護士たちに任せればよい作業を、看護師自ら率先して行うということを続けてきた結果、介護士たちの中には、すっかり看護師に依存してしまう人もいた。他の看護師が勤務のときには、何もしてくれないと、不満をもらす人もいたぐらいだった。

生活相談員が対処すべきことを、利用者の家族やケアマネージャーから連絡があっても、相談員に連絡もせずに、自己判断で対処したことが度々あり、すったもんだがあった末に、その後始末を相談員が行っていた。

「跳び込んで尽力する気遣い」というのは、いかにも、積極的で前向きなようなイメージがあるが、「いっちょかみ」的で迷惑な存在になる面もあるようです。

一方、「先に跳んで手本を示す気遣い」については、人格的にも優れた人が行う気遣いであるが、詳細は次回に記述します。
(続く)




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