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中島義道著『ウソつきの構造』を読みました

本書のタイトルは「ウソつきの構造」と称しているが、「人がウソをつくのは不思議でならない」と訴えているわけでもなく「人がウソつくのはあたりまえだ」と居直りたいわけではなく、「人はなぜウソをつくのか」を端的に解明している、と中島氏は述べている。

といっても、ウソという広大な範囲をすべてカバーしているのではなく、親子間、夫婦間、友人間などのごく親しい者同士のウソは省いています。

さらに、振り込め詐欺や手抜き工事などのはっきりとした悪意を含んだウソは、発覚すれば法廷制裁の対象となるので排除している。

中島氏が問題にしているのは、次の通りです。

では、これらの広大な領域を除いていったい何が残るのか? 私がとくに本書で問題にしたいのは、法に則ったウソ、法のもとに保護されるウソ、いわば「法に守られたウソ」であり、興味深いことに、これは反転図形のように、そのまま「法に守られた真実」に反転しうる。

中島 義道. ウソつきの構造 法と道徳のあいだ (角川新書) (p.4). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

安倍元首相、裏金疑惑の議員、小池都知事達のウソは、「何らかのごまかしがある」と直感していても、決定的な論理的矛盾ないし証拠を示さない限り、「法に守られた真実」となるのが問題だと言うのです。

政治家が思わずホンネを吐露して、批判の嵐にさらされると、「本心ではなかった」「失言だった」「誤解をまねく言葉だった」などと弁解するのが真正のウソであり、政治家として、いや人間として最も道徳的に悪いとしている。

どうして、こういうことになるかということを、中島氏は、次のように説明している。

こうして、現代日本ではウソのありかがきわめて見えにくくなっているから、あえて繰り返して言うが、子どものない者、産めない者、産みたくない者を配慮すべきであり、白血病になった者、被災地の者の苦しみを気遣うべきだという定型的な優しい気持ちが、暴力的でマグマのように莫大なウソを排出させるということである。

現代日本の報道機関の活動のかなりの部分が、政治家をはじめとしてこうした(広義の)公人の「問題発言」を摘発することに躍起になり、公人の側は、それに乗せられて自己の発言の弁明(これこそウソ)に終始しているように思われる。

とすれば、報道機関な正義を旗印にしながら、その背後でウソを増殖させているとも言えるのではないだろうか?

中島 義道. ウソつきの構造 法と道徳のあいだ (角川新書) (p.37). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.



カントが徹底的に糾弾したのは、「道徳的価値は内面的な真実性にあって、外面的な適法性にあるのではないが、それにもかかわらず、われわれは外面的な適合性を第一にして内面的な道徳性を第二にするという転倒を犯している」点である、と中島氏は述べている。

現代の価値相対化の時代においては、「何が真実かわからない」という言葉が出てくる。外面はゆらぐことはあっても、自分の内面については、自分がいま何を考え、何を感じているか、そのとき何を考えていたか、何を感じていたかは、よく知っているはずだという。

すべての人は、理性的であるかぎり、自分の内面的真実を知っているはずである(これを「叡知的性格」という)。

しかし、少なからぬ人において、それが混濁し見通せないように思われるのは、そこに知らず知らずのうちにソン・トクを混入させるからなのだ。

そして、自分にとってトクな(社会的制裁を受けないような)内面的真実のみを残し、自分にとってソンな(社会的制裁を受けるような)内面的真実を抹殺するからなのだ。

中島 義道. ウソつきの構造 法と道徳のあいだ (角川新書) (p.135). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.



カントは、このメカニズムを知り尽くしていたからこそ、われわれは常に自分の内面を厳しく点検しなければならないと考えていた、と指摘する。

カントの道徳感はヘーゲルを始め、さまざまな哲学者から、厳しすぎだと批判されているが、自分の幸福を追求する功利主義(ソン・トク感情)を是とする政界、財界、医学界等々を見ていると、カントの道徳感を再評価すべきだと思える。

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