中島義道著『ウソつきの構造』を読みました
本書のタイトルは「ウソつきの構造」と称しているが、「人がウソをつくのは不思議でならない」と訴えているわけでもなく「人がウソつくのはあたりまえだ」と居直りたいわけではなく、「人はなぜウソをつくのか」を端的に解明している、と中島氏は述べている。
といっても、ウソという広大な範囲をすべてカバーしているのではなく、親子間、夫婦間、友人間などのごく親しい者同士のウソは省いています。
さらに、振り込め詐欺や手抜き工事などのはっきりとした悪意を含んだウソは、発覚すれば法廷制裁の対象となるので排除している。
中島氏が問題にしているのは、次の通りです。
安倍元首相、裏金疑惑の議員、小池都知事達のウソは、「何らかのごまかしがある」と直感していても、決定的な論理的矛盾ないし証拠を示さない限り、「法に守られた真実」となるのが問題だと言うのです。
政治家が思わずホンネを吐露して、批判の嵐にさらされると、「本心ではなかった」「失言だった」「誤解をまねく言葉だった」などと弁解するのが真正のウソであり、政治家として、いや人間として最も道徳的に悪いとしている。
どうして、こういうことになるかということを、中島氏は、次のように説明している。
カントが徹底的に糾弾したのは、「道徳的価値は内面的な真実性にあって、外面的な適法性にあるのではないが、それにもかかわらず、われわれは外面的な適合性を第一にして内面的な道徳性を第二にするという転倒を犯している」点である、と中島氏は述べている。
現代の価値相対化の時代においては、「何が真実かわからない」という言葉が出てくる。外面はゆらぐことはあっても、自分の内面については、自分がいま何を考え、何を感じているか、そのとき何を考えていたか、何を感じていたかは、よく知っているはずだという。
カントは、このメカニズムを知り尽くしていたからこそ、われわれは常に自分の内面を厳しく点検しなければならないと考えていた、と指摘する。
カントの道徳感はヘーゲルを始め、さまざまな哲学者から、厳しすぎだと批判されているが、自分の幸福を追求する功利主義(ソン・トク感情)を是とする政界、財界、医学界等々を見ていると、カントの道徳感を再評価すべきだと思える。
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