内田樹氏のブログについて

セックスワーク-「セックスというお仕事」と自己決定権(内田樹の研究室)

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下記は内田樹氏が作成したブログから一部を抜き出しました。

20年ほど前に性についての倫理を主題にした論集に「セックスワーク」についての寄稿を求められた。まったく不得手な論件だったけれども、苦心して書いた。なんという本だったか忘れてしまった。たしか岩波書店から出た論集だと思うけれども、もう手元にない。
 考えていることは昔と変わらない。今はもうこんなにきつい書き方はしないと思うけれど。

はじめに

 最初に正直に申し上げるが、私自身は、セックスワークについて専門的に考究したこともないし、ぜひとも具申したいような個人的意見があるわけでもない。ときどき、それに関する文章を読むが、数頁(場合によっては数行)読んだだけで気持ちが沈んできて、本を閉じてしまう。困ったものではあるが、私を蝕むこの疲労感は、必ずしも個人的なものとは思われない。
 私の見るところ、この問題については、どなたの言っていることにも「一理」ある。ただし、「一理しかない」。異論と折り合い、より広範囲な同意の場を形成できそうな対話的な語法で自説を展開している方にはこの論争の場ではまずお目にかかることができない。みんなだいたい「喧嘩腰」である。経験が私に教えるのは、この種の論争では、みなさんそれぞれにもっともな言い分があり、そこに最終的解決や弁証法的止揚などを試みても益するところがないということである。
 私は以下でセックスワークについて管見の及んだ限りの理説のいくつかをご紹介し、その条理について比較考量するが、そこから得られる結論は「常識」の域を一歩も出ないものになることをあらかじめお知らせしておきたい。

1.~4.省略

5・
 身体を道具視した視座からのセックスワーク論は、上野に限らず、身体を政治的な権力の相克の場とみなすフーコー・クローンの知識人に共通のものだ。次の事例はその適例である。売春容認の立場を鮮明にしている宮台真司のインタビューに対して、東大生にして売春婦でもある女性は売春の「効用」を次のように熱く語っている。

 「いろいろ経験したけど、自分の選択が正しかったと今でも思います。ボロボロになっちゃったから始めたことだったけれど、いろんな男の人が見れたし、今まで信じてきたタテマエの世界とは違う、本音の現実も分かったし。あと、半年も医者とかカウンセラーとかに通って直らなかったのに、売春で直ったんですよ。(・・・)少なくとも私にとって、精神科は魂に悪かったけれど、売春は魂に良かった。(・・・)私は絶対後悔しない。誇りを売っているわけでもないし、自分を貶めているのでもない。むしろ私は誇りを回復したし、ときには優越感さえ持てるようになったんですから。」 (宮台真司編『〈性の自己決定〉原論』、紀伊国屋書店、1998年、279頁)

 彼女の言う「誇り」や「優越感」はやや特殊な含意を持っている。というのは、この大学生売春婦が「優越感を感じた」のは次のようなプロセスを経てのことだからだ。

 「オヤジがすごくほめてくれて。体のパーツとかですけど。それでなんか、いい感じになって。今までずっと『自分はダメじゃん』とか思っていたのが、いろいろほめられて。(・・・) 最近になればなるほど優越感を味わえるようになって、それが得たくて。オヤジが『キミのこと好きになっちゃったんだよ』とか、『キミは会ったことのない素晴らしい女性だ』とか・・・。まあ・・・いい気分になっちゃいました。(・・・) オヤジは内面とか関係なく、私の体しか見てないわけじゃないですか。『気持ち悪いんだよ、このハゲ』とか思っているのも知らずに、『キミは最高だよ』とか言ってる(笑)。」(同書、276-7頁)

 上野が挙げた援交少女とこの学生売春婦に共通するのは、いずれも自分を「買う男」を見下すことによって、「相対的な」誇りや優越感を得ているということである。彼女たちは彼女たちの身体を買うために金を払う男たちが、彼女たち自身よりも卑しく低劣な人間であるという事実から人格的な「浮力」を得ている。
 しかし、これは人格の基礎づけとしてはあまりに脆弱だし退廃的なものだ。私たちが知っている古典的な例はニーチェの「超人」である。ご存知のとおり、ニーチェの「超人」は実定的な概念ではない。それは自分のそばにいる人間が「猿にしか見えない」精神状態のことを指している。だから「超人」は「笑うべき猿」、「奴隷」であるところの「賤民」を手もとに置いて、絶えずそれを嘲罵することを日課としたのである。何かを激しく嫌うあまり、そこから離れたいと切望する情動をニーチェは「距離のパトス」と呼んだ。その嫌悪感だけが人間「自己超克の熱情」を供与する。だから、「超人」へ向かう志向を賦活するためには、醜悪な「サル」がつねに傍らに居合わせて、嫌悪感をかき立ててくれることが不可欠となる。
 上野の紹介する「みごとな」援交少女と宮台の紹介する「誇り高い」売春婦に共通するのは、買春する男たちが女性の身体を換金可能な「所有物」や観賞用「パーツ」としてのみ眺める「サル」であることから彼女たちが利益を得ているということである。ニーチェの「超人」と同じく、彼女たちもまた男たちが永遠に愚劣な存在のままであり続けることを切望している。それは言い換えれば、父権制社会とその支配的な性イデオロギーの永続を切望するということである。
 この学生売春婦は性を「権力関係」のタームで語り、上野の「援交少女」は「商取引」のタームで性を語る。「権力関係」も「商取引」も短期的には「ゼロサムゲーム」であり、ゲームの相手が自分より弱く愚かな人間であることはゲームの主体にとって好ましいことである。だから、彼女たちが相対的「弱者」をゲームのパートナーとして選び続けるのは合理的なことである。しかし、彼女たちは、長期的に帳面をつけると、「自分とかかわる人間がつねに自分より愚鈍で低劣であること」によって失われるものは、得られるものより多いということに気づいていない。
 宮台によれば、「昨今の日本では、買う男の世代が若くなればなるほど、金を出さない限りセックスの相手を見つけられない性的弱者の割合が増える傾向にある。」 女性が「ただではやらせない」ようになり、そのせいで男性が「金を出さない限りセックスの相手をみつけられない」という状況になれば、たしかに性的身体という「闘技場」における男の権力は相対的に「弱く」なり、性交場面において女性におのれのわびしい性幻想を投射する「オヤジ」の姿はいっそう醜悪なものとなるだろう。当然それによって「今まで信じてきたタテマエの世界」の欺瞞性が暴露される機会が増大することにもなるだろう。だから、性的身体を「権力」の相克の場とみなす知識人たちが、売春機会(に限らず、あらゆる形態での性交機会)の増大に対して好意的であることは論理のしからしむるところなのである。
 しかし、私は依然として、この戦略的見通しにあまり共感することができない。
「自分より卑しい人間」を軽蔑し憎むことで得られる相対的な「浮力」は期待されるほどには当てにできないものだからだ。仮にもし今週一回の売春によってこの学生売春婦の優越感が担保されているとしても、加齢とともに「体のパーツ」の審美的価値が減価し、「オヤジ」の賛辞を得る機会が少なくなると、遠からず彼女は「餌場」を移動しなければならなくなる。他人を軽蔑することで優越感を得ようと望むものは、つねに「自分より卑しい人間が安定的かつ大量に供給されるような場所」への移動を繰り返す他ない。
「東電OL殺人事件」の被害者女性がなぜ最後は円山町の路上で一回2000円に値段を切り下げてまで一日四人の売春ノルマに精勤したのか、その理由はおそらく本人にもうまく説明できなかっただろう。私たちが知っているのはこの女性が「学歴」と「金」に深い固着を有していたということ、つまりその性的身体のすみずみまでがドミナントなイデオロギーで満たされた「身体を持たない」人間だったらしいということだけである。
 
 これらの事例から私たちが言えることは、売春を自己決定の、あるいは自己実現の、あるいは自己救済のための機会であるとみなす人々は、そこで売り買いされている当の身体には発言権を認めていないということである。身体には(その身体の「所有者」でさえ侵すことの許されない)固有の尊厳が備わっており、それは換金されたり、記号化されたり、道具化されたりすることによって繰り返し侵され、汚されるという考え方は、売る彼女たちにも買う男たちにも、そして彼女たちの功利的身体観を支持する知識人たちにもひとしく欠落している。性的身体はこの人々にとってほとんど無感覚的な、神経の通わない「パーツ」として観念されており、すべすべしたプラスチックのような性的身体という「テーブル」の上で、「権力闘争」のカードだけが忙しく飛び交っている。だが、この絵柄は私たちの社会の権力関係と商取引のつつましいミニチュア以外の何ものでもないように私には思われる。権力闘争の場で「権力とは何か?」が問われないように、経済活動の場で「貨幣とは何か?」が問われないように、性的身体が売り買いされる場では「身体とは何か?」という問いだけが誰によっても口にされないのである。

6.
  セックスワーカーたちが「安全に労働する権利」を求めることに私は同意する。
 ただし、それは左翼的セックスワーク論者が言うように、売春者が社会矛盾の集約点であり、売春婦の解放こそが全社会の解放の決定的条件であると考えるからではない。またフェミニストの売春容認論者が言うように、それが「みごとな自己決定」であると思うからでもない。社会学者が言うように、性的身体を闘技場とした「権力のゼロサムゲーム」での勝利が売春婦たちに魂の救済をもたらすと信じるからでもない。そうではなくて、現実に暴力と収奪に脅かされている身体は何をおいても保護されなければならないと思うからである。
 それと同時に、売春は「嫌なものだ」という考えを私は抱いている。
 ただし、それは保守派の売春規制派の人々が考えているように売春が「反社会的・反秩序的」であるからではない。そうではなくて、それが徹底的に「社会的・秩序的」なもの、現実の社会関係の「矮小な陰画」に他ならないと思うからである。
 身体は「脳の道具」として徹底的に政治的に利用されるべきであるとするのは、私たちの社会に伏流するイデオロギーであり、私はそのイデオロギーが「嫌い」である。
 身体には固有の尊厳があると私は考えている。そして、身体の発信する微弱なメッセージを聴き取ることは私たちの生存戦略上死活的に重要であるとも信じている。
売春は身体が発する信号の受信を停止し、おのれ自身の身体との対話の回路を遮断し、「脳」の分泌する幻想を全身に瀰漫させることで成り立っている仕事である。そのような仕事を長く続けることは「生き延びる」ために有利な選択ではない。
「売春婦は保護すべきだ」という主張と、「売春はよくない」という考えをどうやって整合させるのかといきり立つ人がいるかも知れない。だが、繰り返し言うように、現実が整合的でない以上、それについて語る理説が整合的である必要はない。「すでに」売春を業としている人々に対してはその人権の保護を、「これから」売春を業としようとしている人に対しては「やめときなさい」と忠告すること、それがこれまで市井の賢者たちがこの問題に対して取ってきた「どっちつかず」の態度であり、私は改めてこの「常識」に与するのである。


【私見】

「はじめに」で明記しているように、セックスワーカーについての諸説を考察した結果、結論は、「どっちつかず」態度をとるということになった。そのことについては、まったく問題ないと思います。ただし、デカルト以来、解明されていない、心身の分離問題があるにも関わらず、身体から発信する信号を強調することに違和感がある。仏教では、脳から発する欲望を消滅することで、涅槃に入ることができるという教えであり、つまり、脳と身体の回路を断ち切ることに意味があると解釈できる。

一方ニーチェ及びハイデガーについては、苫野一徳が竹田青嗣著『欲望論』で解説している部分を引用する。

ニーチェについて
「世界それ自体」といった「本体」などどこにも存在しない。それは徹頭徹尾「遠近法」的なものである。

 これがニーチェの「遠近法主義」である。

 ポストモダン思想家らによって、これは従来、相対主義の根拠として受け取られてきた。

 しかし竹田は次のように言う。

 ニーチェの「遠近法主義」は認識相対主義をまったく意味しない。〔中略〕ニーチェがおいた「原理」はむしろ、一切の認識は欲望相関的−目的相関的である、と総括されねばならない。認識が欲望相関的であること、このことは認識の相対性ということ以上に、認識の普遍性の可能性の条件を示すのである。
 ここには完全に新しい一つの存在論が、全哲学史のうちではじめてその姿を見せている。すなわち「存在」とはわれわれの(生き物の)生それ自身が構成するものにほかならないという存在論、力の相関者としての「世界」こそが存在の第一審級である、という新しい存在論が現われている。
 一切は「相対的」なのではなく「欲望相関的」なのだ!

 ここにこそ、単なる相対主義から、普遍洞察性を問う哲学原理への転換の可能性がある。

 「本体」などどこにもないし、普遍認識(人びとの間の普遍的な共通了解)のために必要でもない。

 私たちは、世界が欲望相関的に現象すること、そしてその現象の仕方の普遍性を洞察することで、独断論にも相対主義にも陥ることのない道を切り開くことができるのだ。

 それに対して、ニーチェから相対主義的観点のみを受け取った現代の相対主義は、未だに存在・認識・言語の不可能性ばかりを鬼の首を取ったかのように主張し続けている。

 ハイデガーについて
しかしその前に、このフッサールの功績を、さらに一歩進めた弟子のハイデガーについて論じておかなければならない。

 まずその功績について、竹田は次のように言う。

 ハイデガーの「存在配慮相関性」は、人間の身の回り(周囲世界)の諸対象の存在意味(ノエマ)を欲望相関的存在者として把握した点で、フッサール現象学に対する一つの決定的な優位をもつ。〔中略〕さらに彼は、世界の「客観認識」一般が人間の実存的世界了解を基底とし、その一般化として成立することを明瞭に理解していた。ハイデガーの功績は決定的であり動かしえないものである。
 世界は欲望・関心相関的存在者として現れる。

 フッサールにはほとんどなかったこの「欲望論」的観点を、ハイデガーは現象学にもたらしたのだ。

 これはニーチェが先駆け、フッサールを経てハイデガーによって再定式化された原理であると言っていい。

 この点を、竹田は高く評価する。
(以上で引用終わり)

いずれにしても、欲望が人を駆動しているという認識である。メルロ・ポンティは、習慣的に身体を動かしていると、身体を使っていることに気がつかないことがある、と述べていて、身体に注目している。また、物が落ちそうな時に、脊髄反射的に、手が出る場合も、脳からの信号で動いている感じはしないので、確かに、これは、脳と身体の信号は遮断されているのかも知れない。とはいえ、売春行為については、欲望つまり脳が発動するのであるから、身体からの信号との関連性は薄いように思う。

学生売春婦の場合、結果として、オヤジを見下げることで、優越感にひたれたとなっているが、彼女は、最初から、それを求めていたわけではなく、精神的な病は精神科でカウンセラー受けても解消されないので、自虐的に売春したら、たまたま解消されたということだろうと思われる。それは、優越感を得られたからだとは言えるが、それだけではないだろう。

宮台氏は、ADHDであることを告知しているので、精神的なストレスに悩んでいるいる人々の気持ちは分かっており、内田氏は、極めて健康な常識人であるがゆえの結論だろうと思う。













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