見出し画像

ジル・ドゥルーズ著『ザッヘル=マゾッホ紹介』(6)読書メモ

サドとマゾッホの相補性はどこまでおよぶか②

一体 性 への 信仰 の基礎はまず、嘆かわしいあいまいさと安易さがあるのではないか。

なぜなら、サディストとマゾヒストが遭遇しなければならないということが、まるで自明のことのように考えられているからだ。

一方が被虐を、他方が加虐を好むという事実が、この相補性を定義するように見えるがゆえに、遭遇が起こらないとなれば、心外だということになるだろう。

そんなわけで笑い話としてサディストとマゾヒストの遭遇が語られるわけだ。

マゾヒストのほうが、「痛めつけてくれ」という。するとサディストが、「断る」というわけだ。

笑い話のなかでも、これは殊に愚かなものである。こんなお話は決して起こりえないというだけでなく、倒錯世界の価値評価をめぐる間抜けな謬見に道ちあふれているからだ。
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.44).

拷問 者 の 女性 は マゾヒズム に 属する。それはかのじょが犠牲者と同じ嗜好をもつという意味ではなく、サディストには決して見られない「サディズム」を有しているからであって、それはマゾヒズムの分身や反射としてのサディズムなのだ。

同じことがサディズムについてもいえるだろう。

犠牲者がマゾヒストではありえないのは、犠牲者が快を感じてしまうなら、リベルタンは悔悟するというばかりではなく、サディストの犠牲者が全面的にサディズムに帰属しており、状況の不可欠な部分であり、奇妙なことにサディズムの拷問者の分身としてあらわれるからなのだ(・・・・)。

サディズムとマゾヒズムを混同してしまうのは、ふたつの実体の抽象化のよってことをはじめ、サディストをその世界から独立させ、マゾヒストをその世界から独立させてしまうときである。

ひとたびサディストとマゾヒストからその環世界を、その肉と血を奪いとってしまうなら、このふたつの抽象物が一緒になって調和することが、至極当然であるかの如く考えられてしまうのだ。
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.46).

我々 が 主張 し て き た のは、 拷問 者 の 女性 が 全面的 に マゾヒズム に 帰属 する という こと で あり、その人物像はたしかにマゾヒストではないが、しかしマゾヒズムの純粋な一要素であるということである。

倒錯における主体(人物)と要素(本質)とを区別することによって、ある人物がおのれの主体的な運命から逃れながら、しかし、じぶんの置かれた嗜好の状況のなかで要素としての役割を担うとき、どうしてこの運命から部分的にしか逃れられないのかを理解しうるようになるだろう。

拷問者の女性がおのれ自身のマゾヒズムから逃れるのは、この状況のなかでみずから「マゾヒスト化」することによってなのだ。

かのじょがサディストであると信じたり、サディストを演じていると信じることさえ誤りである。

マゾヒストの人物が、幸運にも、サディストの人物に遭遇すると信じるのは誤りである。あるひとつの倒錯に属するそれぞれの人物が必要としているのは、同じ倒錯の「要素」のみであって、別の倒錯に属する人物ではない。
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.47).

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?