ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ 『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂病』(7)読書メモ

第三章 第二節 原始大地機械

原始社会的機械が領土的なものでないことは明らかである。ただ国家装置だけが領土的であろう。

エンゲルス の 定式 に よれ ば、〈 国家〉 装置 は、「 国民 を 細分 する のでは なく て、 領土 を 細分 し」、 部族 的 組織 を 地理的組織に変えるものであるからである。

それゆえ未開の原始社会体こそまさに、厳密な意味で唯一の大地機械で あっ た の だ。 そして、 原始 大地 機械 の 機能 は、 次 の よう な もの だ。

〈 国家〉 が 存在 する 前 に 大地 の 身体 の 上 で 縁組 と 出自 を 活用 変化 させること、家系を活用変化させることであった。

出自は行政的かつ階層的であるが、縁組は政治的かつ経済的なのである。縁組 は、 階層 秩序 と 異なり 階層 秩序 から 演繹 さ れ ない という 点 で 権力 を 表現 し、 行政 と 同一 の もの で ない という 点 で 経済 を 表現 し て いる。

出自と縁組とは、いわば原始的資本の二つの形態なのだ。
①固定資本あるいは出自のストック
②循環資本あるいは負債の可動的ブロック

この二つの形態に二つの記憶が対応する。
①生物的な出自の記憶
②縁組と言葉の記憶

登録の境域は、〈準原因〉として、労働の接続を自分に所属させるのである。しかしこのことは、登録の境域 の ほう が、 縁組 の 絆、 つまり 出自 の 離接 と 矛盾 し ない 人物 の 接合〔 婚姻〕 という 形式 において、 接続 の 体制 を 掌握 し て はじめて 可能になる。

まさにこのような意味で、経済は縁組を経由するのである。子供の生産において、子供は、父か母の離接的系譜にしたがって登記される。

ところが逆にこれらの系譜は、父と母との結婚によって表される接続の仲介によってのみ、子供を登記するのである。

だから、縁組が出自から派生することは、どんな場合でもありえないのであり、縁組と出自は、本質的に開かれたサイクルを形成している。このサイクルの中で、社会体は生産に対して作用し、また生産は社会体に反作用を及ぼす。

【縁組が出自から派生することは、どんな場合でもありえない、とどうして言い切れるか気になりますが、恐らく、実際に子供が生まれるかどうか、男か女か、他の兄弟との年齢差、その家系で男子あるいは女子は足りているか、その子が大人になった時に相手方となる家系には相手となる異性がちゃんといるか、といったことがあるので、生まれる前からきっちりと予約しておくことはできない、というようなことでしょう(仲正昌樹(著)アンチ・オイディプス入門講義)より。】

原始社会 において 親族関係が支配的であるとしても、それは経済的因子によって支配的であるべく規定されている。マルクス主義者たちがこうした点に注意をうながしているのは、正しい。

そして出自が、規定されていながら、支配的であるものを表しているならば、縁組は、規定するものを表している。あるいはむしろ、規定された支配システムの中に、規定するものが回帰してくることを表している。

したがって、本質的なことは、一定の領土の表面で、具体的に縁組はいかにして出自と組み合わされるのか考察することである。

精神 において 展開 する 構造と関係づけて、原始共同体における親族関係を解釈するとき、ひとはいつも、縁組を出自に従属させる大きな線分のイデオロギーに陥ってしまう。

しかし、このイデオロギーは実践によって否認される。「不均衡な縁組システムにおいては、交換の一般化への、つまり交換のサイクルの閉鎖への根本的傾向が存在するかどうかを問題にする必要がある。

親族のシステムが閉じられたもの として 現われる のは、 ひと が この システム を 経済的 政治的 な 座標 から 切断 する からでしか ない。経済的 政治的 な座標 は、このシステムを開かれたものとして維持し、縁組はこれによって、結婚の階層と出自の系譜を調整するのではなく別のものと考えられることになる。

問題は、流れをコード化するあらゆる試みなのである。シニフィアンの連鎖と生産の流れがたがいに適応し、それぞれ に 結合 する こと を、 いかに し て 保証 する のか。 大いなる 遊牧民 の 狩猟 者 は、 もろもろ の 流れ を たどり、 それぞれ の 場 で 流れ を汲みつくしては、また流れとともに移動する。

要するに、 遊牧 的 空間 において は、 社会 体 の 充実 身体 が あたかも生産に隣接しているようであり、それがまだ生産の上に折り重なってはいなかったということである。

野営の空間は、森林の空間に 隣接 し た まま で、 それ は たえず 生産 の プロセス の 中 で 再生産 さ れる が、 しかし まだ この 生産 の プロセス を 自分 の もの として は い なかった。

登記の外見上の客観的運動が、遊牧生活の現実的運動を抹殺してはいなかったのだ。しかし、純粋な遊牧民など存在しない。

ある 流れ が コード 化 さ れる ため には、 連鎖 からの 離脱 と 流れ の 採取 とが 対応して行われ、両方が結合し、一体とならなければならない。原始的領土性において結婚を操作している地縁集団のじつに倒錯的な活動は、そのようなものだった。

流れ からの 採取 は、 シニフィアン の 連鎖 の 中 で 出自 の ストック を 構成 する。 ところが 逆に、連鎖からの離脱は、縁組の可動的な負債を構成するが、この負債は、流れの方向づけ支配するのである。

親子 関係 は、 生産 の 流れであると同時に登記の連鎖であり、出自のストックであると同時に縁組の流出である。

モースによれば、それは贈与されるものにそなわる霊あるいは、もろもろの事物の力であり、これ によって 贈与 は、 高い 利子 が つく よう な 仕方 で 返さ れ なけれ ば なら ない。 贈与 は 欲望 と 力 能 の 記号 で あり、 財 の 豊富 さや 成果の原理であるからである。不均衡の状態は、病理学的な結果であるどころか、機能的であり、原理的である。

システムが開くということは。始めはは閉じていたシステムが拡張されるということではなく、根源的な事態であって、諸要素の異質性によって生じ、諸要素は、もろもろの補償給付を構成し、不均衡を置き換えることによって、この不均衡を償うのである。

【モース=ドゥルーズ+ガタリの見方によると、「贈与」の「原因」となる「不足」、あるいは「不均衡」というのは、現にどこかに実在する物理的な量の問題というより、お互いが「借り」を返さないといけない、「貸し」にしようという心理もしくは姿勢をもつことから派生してくるヴァーチャルな効果ということになりそうですね(仲正昌樹(著)アンチ・オイディプス入門講義)より】

原始社会は歴史をもたず、原型とその反復によって支配されているという観念は、とりわけ弱点をもつ不適切な 観念 で ある。 この 観念 を 生みだし た のは、 人類 学者 たち では なく て、 むしろ ユダヤ-キリスト教 的 な 悲劇的 意識 に 執着 し た イデオローグたちであって、彼らはこの意識こそが歴史を発明したと考えていた。

つまり、ひとつの社会的機械が、的確に機能してはならないのは、機能するためなのである。この こと は、 まさに 線分 的 システム に関して 説明 でき た こと で ある。

この システム は、 たえず 自分自身 の 廃墟 の 上に自分を再構築するべく要請されているのだ。これらのシステムにおける政治的機能の組織についても同じことがあてはまり、この組織は、ただ自分自身の無力さを示すことによって、現実に作動する。

いまだ かつて 誰 ひとり として、 矛盾 が 原因 で 死ん だ こと は ない。 調子 が 狂え ば 狂う ほど、 それ は ますます分裂化して、アメリカ式に、ますます機能するのだ。

線分 的 大地 機械 は、 分裂 によって 融合 を 斥ける。また、族長支配体制の諸機関を集団に対する関係においては無力なものにすることによって、権力の集中を妨げる。

【線分というのは、他の集団との間を区切る線分と、集団内の家系と分ける線分です。(仲正昌樹(著)アンチ・オイディプス入門講義)より】

あたかも、未開人自身が、帝国の〈野蛮人〉の登場を予感しているかのようであるが、〈野蛮人〉は外から到来し、未開人たちのあらゆるコードを超コード化するのである。

しかし、最大の危険は、やはり分散、分裂であり、それによって、コードのあらゆる可能性は消滅することになる。つまり 脱 コード 化 し た もろもろ の 流れ が、 脱 領土 化 し た 盲目 に し て 無言 の 社会 体 の 上 を 流れ て ゆく こと に なる が、 こうした事態は、原始機械が全力で、線分的分節のすべてをつくして追い払おうとする悪夢である。

資本主義は、確かにあるもの、名づけがたいもの、普遍的な脱コード化であり、あらゆる社会組織体の秘密を、反対推論によって理解さ せる。 秘密 とは 流れ を コード 化 する こと、 ある もの が コード を 逃れる こと に なる よりは むしろ、 流れ を 超 コード 化 し て しまう こと である。

原始社会は、歴史の外に存在するのではない。むしろ資本主義のほうが、歴史の終わりに存在し、偶発性や、偶然事の果てしない歴史から結集し、この歴史に終わりをもたらすのである。

まさしく 脱 コード 化 の 体制 は、 組織 の 不在 を 意味 し て いる のでは なく て、 最も 陰険 な 組織 を、 最も 苛酷 な 会計 計算 を 意味 し て いるからである。それは、もろもろのコードに代わる公理系であって、反対推論により、それ自身常にこれらのコードを含んでいる。

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