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「超自我」について

「超自我」は、去勢勢力としての父親によって子どもの頃からの命令やしつけを受け続けてきたことによって形成されるものである、というフロイトの仮説である。

超自我は自我に対してサディズム(攻撃性)の力を振るう。この攻撃性は、超自我に潜む死の欲動が生の欲動から解離して独立的に振る舞うことに由来する。

この超自我仮説は検証されえないが、われわれは、フロイトが超自我と呼ぶものについては思い当たる。

われ欲すを超えて私に力をおよぼす「ねばならぬ」の強制力をもたらすものを、日常的な心的生活において誰もが経験しているからである。

こうした日常的な経験をいったん遮断し、現前意識に定位する内的洞察によって検証する、と竹田青嗣氏は述べる。

人は手が汚れていると感じたとき手を洗うが、汚れているという感覚は人によって異なる。つまり人は手が汚れているという理由で手を洗うのではなく、汚れているという感じによって、あるいはこの感じがもたらす情動(ノイズ)に押されて手を洗う。

何らかの欲望(エロス的予期)、そして不安(恐れ、焦燥、落ち着かなさ、疚しさ、責務等)は、われわれの行為の源泉である。

日常生活において、手が汚れているという感覚‐情動に促されて手を洗うとき、われわれはその情動の意味を理解している。すなわち、手の汚れが不安な情動をもたらし、手を洗うことでこの情動は消失する。

不安の情動と欲望の衝迫は何らかの企投的行為をうながし、それによって欲望は充足され不安は除去される。この関係が情動ー衝迫と企投ー行為の基本型である。

竹田青嗣. 欲望論 第2巻「価値」の原理論 (p.126). 講談社. Kindle 版.

心的不安に対する対処法は、外的な危険や不都合への対処の場合と同じである。原因を特定しその原因を除去するための方法を探しだして、それに基づいて実行するのである。

日常的な対応の手段が失われるならば、能力がないものと見なされ、さらに大きな不安と無力感に苛まれる。

到来する情動と欲望がその原因性および対応的企投との適切な相関性を失うとき、この情動や欲望は不合理なものとなるのだ。これがわれわれが心的な病と呼ぶものの「現前意識」において確認される基礎構造である。

竹田青嗣. 欲望論 第2巻「価値」の原理論 (p.127). 講談社. Kindle 版.

深層心理学はこうした心性の定常性からの逸脱を、強迫神経症、不安神経症、メランコリーなどの言葉で呼ぶ。

しかしこういった事態は、病と呼ばれる以前に、理由の明確でない不安、恐れ、自責感、罪障感などとして、また何らかの行為をうながす強い責務、当為の感覚として日常的にも現象する。

これら、その由来が明瞭ではなく、それゆえ除去の適切な方法が見出せず、何か自立的な力としてわれわれを規定し、拘束する力として現われるとき、フロイトはその根本的原因としてそれを「超自我」の名で呼ぶのである。



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