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ポール・リクール著『記憶・歴史・忘却』について(2)

今回も、放送大学の教材の『現代フランス哲学に学ぶ』内で杉村靖彦氏が解説するポール・リクールについて学びます。

第三者と公共空間

『時間と物語』以来のリクールの解釈学的自己論は、練り直されるたびにますます複雑になっていった。

だが、事をさらに複雑にする要件がある。 それは、当然ながら, 他者も死者も一人ではなく無数にいるということである。 ここで浮上す るのが 「第三者 」 の問題です。

自他の関係が二者関係に尽きるのならば,まだ話は単純である。

「私 はこのような者であった」と告げる過去の死者に触発されて、私たちは 自分が誰なのかを問うていく。

この問いはおのずから語りとなり、 別の 他者へと差し向けられていく。

「記憶の作業」による自己の問いは、そ のような単線的な行程となるだろう。

だが、そもそも二者関係は,そこ に居合わせない 「第三者」の排除によって成り立っている。

そのことに 思い至る時、自己の問いは単に他者を媒介にするというだけでなく、他 者と他者の突きあわせを経由せざるをえないことが分かる。

解釈学的自 己はこの三者関係を最小単位とするのである。

『現代フランス哲学に学ぶ』P207

ここにリクールは、単なる個と個の関係には収まらない 「制度」や 「公共性」 の原型を見る。

解釈学的自己が三者関係を単位とするというのは、それを 形づくる記憶の作業がこのような営みを内に組みこんでいかねばならな いということです。

この意味で、解釈学的自己は, その内奥の作業においてすでに「人々の間にある 」 のであり、本質 的に多元的な「公共空間」へと出ている。

こうしてリクールの 解釈学は、私たちの自己の 「歴史的条件」を、その根底的な「政治的条 件」 との絡み合いの中で描き出している。

諸判断の葛藤と「特異なものの範例性」

本書で陰に陽に特別な参照軸となっているのは「ショアー」の出来事です。

ショアーは20世紀のヨーロッパの歴史に刻まれた断絶であり、一切の理解の試みをはねつける 「特異 (singulier)」 な出来事として位置づけられてきた。

1980年代から記憶と歴史の問題が浮上してきた背景には、この出来事が歴史に刻んだ傷とどう向きあうべきかがあらためて争点化 したという事情もある。

その時に盛んに用いられたのが 「記憶の義務 (devoir de mémoire)」 という術語であった。

この尋常ならざる経験の 証人たちは、死者も生還者も含めて、ショアーの出来事 ほど, 比較できないものの比較、尺度なき判断を切実に求めるものはな い。それぞれが「記憶せよ」 と呼びか けてくる。

生半可な理解の前に,この不気味な呼びかけに身を曝すとこ ろから始めなければならない, というわけである。

『現代フランス哲学に学ぶ』P207

ショアーの出来事 ほど、比較できないものの比較、尺度なき判断を切実に求めるものはない。

『霧と夜』の著者で精神科医だったヴィクトール・フランクルのように強制収用所から帰還した「歴史的証人」がおり、収容所で抹殺された死者、そしてユダヤ人を収容所に送りこんだアイヒマンのような加害者たちがいる。

それらの共約不可能な他者たちを前にして、私たちはそのつど不完全な判断を繰り返し、さらにはそれらの判断どうしをさまざま な文脈で突きあわせていくしかない。

諸判断の葛藤のただ中に立ち続 け、この状況を乗り越え不可能な条件とせざるをえないのである。

ここからリクールの重要な主張が出てくる。

それは、ショアーの 「特 異性」は一つの語り方しか許容しないのではなく、さまざまな文脈で語 られねばならないという主張である。

たとえば,これを「断罪」 するこ とが問題になる道徳的司法的な文脈では、この出来事の他との比較を絶した「受入不能性」 が際立たせられる。 それをリクールは 「道徳的特異性」と呼ぶ。

それに対して、この出来事を歴史の中に位置づけようとする歴史叙述の文脈では、「比較という手法の誠実な活用」 なしには何も語れない。

第一の文脈からは、第二の文脈は出来事の特異性を相対化する不適切なアプローチだという非難もありえよう。

だが、リクールは 第二の文脈もまた出来事の 「歴史的特異性」 を志向するのだという。

そ して,道徳的特異性と歴史的特異性を交差させ、両者の葛藤から新たな 判断を引き出すべきだと訴えるのである。

『現代フランス哲学に学ぶ』P208

文脈の違いを止揚して、全ての特異性を包摂するような範型が得られるという話ではない。

それは、異質な文脈の交差点に立ち、この止揚不能な葛藤空間に自らの判断と行為によって加わっていく「行為し受苦する自己」の「作業」のための範型にほかならない。

そこでこ そ、解釈学的自己探求の一つ一つが、過去を断罪したり叙述したりする だけではなく、 未来に向けて 「歴史を作る」 ためのささやかな場所となりうるのである。

【私見:現代起こっている、イスラエルによるガザ地区への異常なまでの虐殺行為を、リクールならば、どのように見えるのだろう。

ショアーの被害者だった、イスラエル人が、今度は加害者となって同じ行為を行なっている。

ところが、今回は、かってナチスを有無をいわせず断罪したように、イスラエルを批判するようにはなっていない。

それどころか、ユダヤ人に対して負い目がある欧米の人々は、イスラエルの攻撃の正当性を認めてさえいる。

もはや、特異点を超えてしまっていて、人間として壊れているとしか思えない。こうなると、リクールの主張は、宙に浮いていて、虚しさが残るだけとなる。】











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