ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ 『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂病』(10)読書メモ

第三章 第五節 大地的表象

表象 が 常に、欲望的生産の抑制ー抑圧であるとしても、しかしその仕方は、それぞれの社会組織体によってきわめて異なる。表象のシシテムは、その深層に抑圧される表象者、抑圧する表象、置き換えられた表象内容という三つの要素をもっている。

ところがこれらの三者を現実化することになる審級そのものは可変的であり、システムの中にはもろもろの移動が起きる。私たちは、社会的ー文化的な抑圧の唯一の同じ装置が普遍的に存在すると考える根拠をなんらもっていない。

社会 は 交換 主義 的ではない。社会体は登記するものである。つまり、身体を交換することでなくて、大地に属する身体にしるしをつけることである。すでに見たように、負債の体制は、直接にこの未開的登記の要求に由来する。というのも、負債は縁組の単位であり、縁組は表象そのものだからである。

縁組はまさに、欲望のもろもろの流れをコード化し、負債を通じて、人間にことばの記憶をつくる。縁組は、無言の強度的出自の大いなる記憶を抑圧する。

つまり、すべてを呑み込むコード化されない流れを表象するものとしての胚珠的流体を抑圧するのだ。負債は、拡がりをもつに至った出自とともに縁組を構成し、暗黒の夜の強度〔内包〕を抑圧し、その上に外延をもったシステム(つまり表象)を形成し鍛えあげていく。

この負債ー縁組は、ニーチェが有史以前の人類の作業として叙述していたものに呼応している。つまあり、生身の身体に刻まれる最も残酷な記憶術によって、生物的ー宇宙的な古い記憶を抑圧し、その基礎の上にことばの記憶を強制するということである。

だから、負債(および、もろもろの登記)を普遍的な交換の間接的方法とするのではなく、負債の中に原始的な登記の直接の結果を見ることが、きわめて重要なのである。

モースは、少なくとも次のことを問題として残しておいた。

負債は、交換よりも起源的であるのか、それとも、交換のひとつの様式、交換のためのひとつの手段でしかないのか。

これに対して、レヴィ・ストロースは、次のように断定的に答えて、この問いに結着をつけたかに見えた。

すなわち、負債はひとつの上部構造でしかない。つまり、交換という無意識的な社会的現実が貨幣の形をとって意識に現れた形態でしかない、というのだ。

ここでは根拠に関する理論的な議論が問題なのではない。社会的実践のあらゆる発想、またこの実践によって伝播される公準が問題となっている。これは、無意識全体にかかわる問題なのである。

じじつ、もし交換が物事の根底をなすものであるとすれば、なぜ、負債はとりわけ交換の様相をとってはならないのか。なぜ、負債は贈与あるいはそのお返し〔逆贈与〕であって、交換であってはならないのか。

そして、贈与するひとも、自分が交換を期待していないこと、いやそれどころか、あとからお返しがきて、結局は交換になることを期待していないことをはっきりと示すために、自分の物を盗まれた人間の立場におかなければならないとすれば、それはなぜなのか。

盗みはまさに、贈与とそのお返しが交換関係のカテゴリーに入ることを妨げるのである。欲望は交換を知らない。欲望は、ただ盗みと贈与だけを知っている。

この両者は、ときには原初的な同性愛の影響をうけて、相互にからみあっていることもある。ここから反交換的な愛の機械というものが出現する。

にも かかわら ず 原始社会 においても、交換は知られている。まったく周知のことである。ーーーしかしそれは、追放すべきもの封じ込めるべきもの、そして厳密に格子状区劃の中に管理すべきものとして知られているのだ。どのような流通価値も、決して交換価値として発展しないように。交換価値は、市場経済という悪夢を導入するkとになるからである。

原始的な売買は、等価値のものを決めることよりも、むしろ値切ることによって始まるのだ。等価値のものを決めることは、もろもろの流れを脱コード化し、社会体に対する登記様式の崩壊をもたらすことになるからである。

私たちは出発点に連れ戻される。交換が抑止され追放あれるということは、それが第一の現実であることを何ら証ししてはいない。そうではなく、逆に本質的なことは、交換することではなくて、登記すること、刻印することであるということを証ししているのだ。

無意識 を 明白 にひつつの空虚な形式に還元すること以外のことをしているとは思われない。そこに欲望そのものは不在であり追放されているのだ。こうした空虚な形式は、前意識を規定しえないことは確かである。

なぜなら、無意識が内実や内容をもたないということが真実であるとしても、それは無意識が空虚な形式であるからではなく、いつもすでにそれが作動する機械であり、つまり欲望機械であって、拒食症的構造ではないからである。

【拒食症的構造:ここでは通常の意味で比喩的な言い方で、拒食症の人のように欲望を持たないないわけではないということです。無論、厳密に言えば、拒食症も、何らかの無意識の欲望の現れでしょう。(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義より)】

「構造」と「機械」の違い 構造と機械の違いは、 社会体に関する交換主義的な構造論的な発想を内々に促進する公準のうちに現 われ、構造が適切に作動するように、これにもろもろの矯正措置が導入される。 まず第一に、親族の 構造を考察する場合、縁組が出自の血統や、血統の間の関係から由来するかのようにみなすことを、 容易に避けることができない。

ところが、外延をもったシステムの中に拡がる出自を形成するのは側 方的な縁組と負債のブロックであって、この逆ではない。

第二に、このシステムは、あるがままに自 然システムとみなされる代りに、ひとつの論理的な組み合せ装置とされてしまう傾向がある。自然シ ステムにおいては、諸強度〔内包〕が分配されて、そのあるものは相殺し合い、 流れるものをブロッ クし、他のものは、その流れるものを通過させるのである。 システムの中で展開される性質は、単に 自然的対象だけではなく「尊厳や責任や特権」でもある、といった反論は、このシステムを支える条 件として、 共約不可能なものや不等価なものが果している役割に対する誤解を示しているように思わ れる。

第三に、まさしく交換主義的構造論的な発想は、 基本原理として、根本的な一種の価格均衡、 等価あるいは相等を要請する傾向をもっている。 もっとも、結果の中に必ず不等性が入りこんでくる を説明することは、避けられないことであるとしても 。

【「構造」の方は、モノとヒトの関係性をめぐるシステムに対応し、静的で、かつ、自然 とは関係ないという意味で論理的で、等価交換の原理に支配されているのに対し、 「機械」は血統と関係 しているし、自然システムにおける内包(強度)的な外延化していない性格を残しているし、必 ず不等性を含んでいる。 (仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義より)】

すなわち、レヴィ=ストロースが信ずるように、不均衡は病理的なもの、結果に属するものなのかど うか、それとも、リーチが考えるように、それは機能的なもの、原理に属するものなのかどうか。こ れを知ることが問題なのである。 不安定性は、交換の理想と対比するとき派生してくるものなのか、 それとも、すでに前提として与えられているものなのか。 すなわち、給付と反対給付を構成する関係 頃の異質性の中に含まれているのか。縁組によってもたらされる経済的政治的取引、女性の給付にお ける不均衡を埋め合わせる働きをする反対給付の本質、一般的にいっ 給付の全体が個々の社会で評価される独自な仕方、こういったも のに対して注意を払えば払うほど、外延をもったシステムの必然的に 開放的な性格がますます露わになってくる。

【 交換の過程で生じてくる不均衡、 それに伴う不安定は、 交換システムに内在しているのか、それともシステ ム自体はちゃんと安定するようにできているのだけれど、それからの逸脱 がある、ということなのか、ということです。(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義より)】

「外延をもったシステムの必然的に開 「放的な性格」というのは、内包 (強度)だけの状態から、外延、すなわち 相対的に独立した個物が存在する状態になると、どうしても個物の〝交 換に際して不均衡が生じる。 その埋め合わせのために、システムの外部 とのやりとりが必要になる。 それが 「開かれている」ということでしょう。

未開の組織体は、口にかかわり、声にかかわるが、それは、この組織体が書記システムを欠いてい るからではない。 大地の上の舞踏、仕切り壁に書かれた素描、身体の上への刻印といったものは、書 記のシステムであり、 〈地理 筆法〉であり、 〈地理書法〉 〔地理学〕である。 未開の組織体が口頭 的であるのは、まさしくそれが声から独立した書記システムをもっているからである。

このシステム は、声に同調してもいなければ従属してもいない。 そうではなくて、 多次元的な 「いわば放射状組織 において」、声に接続され、組み合わされるのである。(そして、この文字のシステムは、単系的線型 エクリチュールとは逆のものであるといわなければならない。もろもろの文明が口頭的であることを やめるのは、書記システムの独立性やその固有の次元を喪失することによってのみである。 書記が声 にとって代り虚構の声を引きだしてくることになるのは、書記が声に忠実に追随することによってな のである)。

コードの二要素の間にあって、苦痛は、眼によって引き出される剰余価値のようなものであり、この 眼は、身体に働きかける能動的なことばの効果のみならず、働きかけられる限りでの身体の反応も把 握する。 負債のシステムつまり大地表象と呼ばれるべきものが認められるのは、まさにここにおいて である。

すなわち、語りあるいは詠唱する声、生身に刻印される記号、苦痛から享受を引き出す眼 ――この三者は、共鳴と保持の領域を形成する未開の三角形の三辺をなすものである。 その領域は、 〈分節された声〉 〈書記を刻む手〉 〈評価する眼〉 という、それぞれに独立した三者を含む残酷演劇に ほかならない。

まさにこのようにして、大地的表象は表層に組織されるが、これはまだ欲望機械〈眼 手声にきわめて近いところにある。 魔術的三角形。 このシステムにおいては、あらゆるものが 能動的であり、作用し作用される。 縁組の声の能動、出自の身体の受動、両者の活用変化を評定する眼の反作用。

この問いに対する答えは簡単である。それは負債によってである。つまり、開かれた可動的で有限な 負債ブロックであり、 語る声、刻印される身体、享受する眼の、あの驚異的な組み合わせなのである。

法の馬鹿らしさと恣意性、 通過儀礼の苦痛のすべて、抑圧や教育のまったく倒錯的な装置、赤熱の格 印、残虐な仕打ち、こうしたものは、人間を調教し、生身の肉の中に刻印し、人間に縁組を可能なら しめ、債権者 債務者の関係の中で人間を形成するという意味しかもってはいない。

債権者 債務者 の関係は、債権債務のいずれの側においても、記憶に属する事柄である (未来にまで引きのばされる 記憶である)。負債は、交換が装う見かけであるどころではなく、大地的そして身体的登記からじか に生ずる効果であり、この登記が用いる直接の手段である。負債は、まったく直接的に登記から生ず るのである。もう一度繰り返すが、私たちはここで復讐や怨恨を引き合いにだしたりはしないだろう (...)°

ニーチェはこう問うている。罪人の苦痛が、彼の引き起こした損害の「等価物」として役立ちうるということは、いかに説明すべきなのか、自分のうけた損害が苦しみによって、「支払われる」などということが、いかにして可能であるのか。

ここで、苦しみから快楽を引きだす眼をもちださなければなら ない(これは復讐とは何の関係もないことである)。これはすなわち、ニーチェ自身が評定する眼と 呼んでいるもの、残酷な光景を好む神々の眼のことである。

「罰が大きければ、それだけ祭の気分は 高まる。」 それほどにも苦痛は、活動的な生とみちたりる眼差しと切り離せない。 損害=苦痛という 方程式は、なんら交換主義的なものをもたない。

むしろ、それは、この極限のケースにおいて、負債 そのものが交換とは無関係であることを示している。 ただ単に、眼は、自分が注視する苦痛から、 コードの剰余価値を引きだすのであり、この剰余価値は、罪人が背いた縁組の声と、罪人の身体に十 分に喰い込まなかった刻印との間の破綻した関係を償うのである。 罪とは音文字の接続を破ること であり、この接続は罰の光景を通じて修復される。これはまさに原始的正義であり、大地的表象はす べてを予見していたのである。

アフリカの最も古い神話でさえ、これらのブロンドの髪の毛をもった男たちのことを語っている。 そ れは〈国家〉の創設者なのである。 ニーチェは、ほかのもろもろの切断を明らかにすることになるで あろう。

すなわち、ギリシアの都市国家、キリスト教、民主主義的ブルジョワ的ヒューマニズム、産 業社会資本主義、社会主義による切断である。ところが、こうした切断はいずれも、あの最初の偉 大なる切断を斥けてそれを埋め合わせることを意図しているのであるが、これらはすべて、それぞれ が異なる名目において、あの最初の偉大なる切断を前提としているといってもいい。

宗教的であれ、 現世的であれ、圧制的であれ、民主的であれ、資本主義的であれ、社会主義的であれ、国家はただひ とつしか存在しなかった。 つまり、 「炎を噴いて吠えながら語る」 国家犬だけだ。

そして、ニーチ ェは、この新しい社会体がどのような経過をたどるかを暗示している。 それは先例のない恐怖であり、 この恐怖に比べれば、残酷の古いシステムも、原始的な調教や刑罰の諸形式などは何ものでもない。 それは、あらゆる原始的コード化の集中的破壊であり、もっと悪いことには、これらのコード化のと るに足りない保存であり、これらのコード化を新しい機械の、さらには抑圧の新しい装置の副次的部品におとしめるのである。

原始登記機械の本質をなしていたものは、可動的な開かれた有限の負債ブロック、つまり「運命の小片」であったが、いまではこれがすべて膨大な歯車装置の中に組み入れられ、この歯車装置は負債を無限にし、もはや唯一の同じ強圧的な宿命しか形成しない。

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