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イギリス経験論について(ジョン・ロック)

今回も、前回(イギリス経験論について)と同様に、勢力尚雅共著『経験論から言語哲学』から、ジョン・ロックについて学びます。

ロックの考え方は、大陸合理論者が主張する「あることについて自分は何かを知っている」という「生得観念」の思想を否定し、「観念は実在する対象を感覚によってとらえる経験を積み重ねていくなかで、後天的につくりだされるものだ」という説を打ち出した。

これが、「心は白紙、観念はすべて経験から」という有名なタブラ・ラサ(ぬぐわれた書板、つまり白紙のこと)説のことです。

ロックは、観念を単純観念と複雑観念の二つに分けた。

単純観念とは、感覚によって得られる観念のことであり、それは、外部の存在を受け取るという意味で受動的なものであり、いっさいの知識の材料である。

つまり外的対象に「一次性質」(大きさと形)が、感覚を触発して、色・味・匂い・熱さ・冷たさなどの単純観念(二次性質)を生み出すとされる。

複雑観念とは、人間の心が単純観念にはたらきかけ、それを材料として能動的に組み合わせたものである。

さて, ロックの知性論の特徴は、 このように与えられた単純観念から 複合観念をつくっていく知性の能動的な働きを強調する点にある。 「精 神は、さまざまな集成をつくるにあたり、しばしば能動的なパワーを行 使する。 というのも、ひとたび精神に単純観念が備えつけられると、精 神はこれを集めてさまざまに構成することができ、こうして多様な複合 観念を,それが自然の中でもそのように一緒に存在するかどうか検討す ることなく、つくることができるからである」 (EII2-22 p.288) とさ れる。

また別の箇所では、「精神はその単純観念に関してはまったく受 動的であるが、複合観念に関してはそうではないと言ってよいであろう。 なぜなら、それらは、一緒にされ、一つの一般名辞のもとに統合された 単純諸観念の組み合わせなので、人間の精神がそれらの複合観念を形成 するうえである種の自由を行使することは明白だからである」 (EI 30-3 p.373) という。

つまり、ロックの場合、 単純観念を集めて複合観念を形成する際に、 どの単純観念を集めるのかについて精神が自由に選択する余地がありそこに知性が果たす大きな役割が認められている。こうして、 知識は、 精神すなわち知性に生まれながらに備わっている観念 (生得観念) を知 性が見ることによって得られるという説を前提しない知識観にたどりつ く。

つまり、 知識は、知性が経験を反省し、 経験を通じて与えられた単純観念という素材を複合観念へと組み立てなおす、いわば知性による労働によって初めて獲得されるという知識観である。 

『経験論から言語哲学へ』P33~P34

ロックの生きていた時代は、神によって人間の観念が刻み込まれていた。そんな時代にあって、「人は自分の力で白紙の心に自分なりの人生を描いて生き、自分の意見をもち、自立せよ!」とロックは主張していたのです。

「生得観念」は、ときの権力にとって都合のいい支配の道具になりかねないと警鐘を鳴らしていた。「都合のいいものを生得観念として他人に飲みこませることは、他人に対する権力をそうした人に与えるものである」というわけです。

生得観念を媒介としてではなく。自他の行為を反省する経験を媒介として認識や社会に秩序が生まれるという考える点は、シャフツベリとハチスンはロックとは同一線上にある。

ただし、彼らは「道徳的感覚学派」と呼ばれる立場を切り開いた論者であり、ロックは知性の働きを強調している点に相違がある。

この「道徳的感覚学派」の立場は、後にデヴィッド・ヒュームとアダム・スミスによって批判的に継承、発展されることになる。





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