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永井均著『これがニーチェだ』

これまでニーチェについての解説書は数多く刊行されているが、永井氏は、これらの書物には不満があるので、あえて自身も書くことにしたと述べている。

どうした点に不満かというと、ニーチェという人物とその思想を、何らかの意味で世の中にとって意味のあるものとして、世の中の役に立つものとして描き出していることでした。

そのことによってニーチェの真価を骨抜きにしているように見えると述べている。この点は共感しています。

ニーチェ の なか には、 およそ 人間 社会 の 構成 原理 そのもの と 両立 し がたい よう な 面 さえ ある。 彼 は、 文字通り の 意味 で 反 社会的な( = 世の中 を 悪く する) 思想家 なので ある。

それ にも かかわら ず、 いや それ だ から こそ、 ニーチェ は すばらしい。 他 の 誰 からも 決して聞け ない 真実 の 声 が そこ には 確実 に ある。

もし ニーチェ という 人 が い なかっ た なら、 人類 史 において 誰 も 気づか なかっ た ─ ─ いや誰 もが うすうす 気づい ては い ても 誰 も はっきり と 語る こと が でき なかっ た ─ ─ 特別 な 種類 の 真理 が、 そこ には はっきり と 語ら れ て いる。

だが、 その 真理 は 恐ろしい。 多く の 解釈 者 は、 その 恐ろし さを 体 よく ごまかし て、 ニーチェ を 骨抜き に し て いる。 私 には そう 思われるのだ。

永井均. これがニーチェだ (講談社現代新書) (Kindle の位置No.47). . Kindle 版.

永井氏が感じる不満は、これだけではなく、多くの書物がニーチェから、問いではなく、答えを受け取ってしまっている点にあると付け加えている。

以下に主なものを箇条書きします。

二種類の道徳批判

ニーチェ は、 道徳 批判 には 二 種類 の もの が ある と 言う。 第一 は「 人々 が 自認 する 道徳的 動機 が 実際 に その 人々 を その 行為に 駆り立て た こと を 否定 する」 という 場合 で あり、 第二 は「 道徳的 判断 が 真理 に 基づい て いる こと を 否定 する」 という 場合 で ある。

ニーチェ の 道徳 批判 は、 単に 冷静 に 客観的 真理 を 探求 する 科学者 の それ に とどまっ ては い ない。噓 は 単なる 虚偽 では ない からで ある。 道徳 や 宗教 や 哲学 に対する 彼 の 批判 には、 真実 を 直視 せ ず に 虚偽 を 語る 者 に対する 憤怒 が ある。

誠実という道徳

ニーチェ の 第一 空間 とは、 だから、 真理 と 虚偽がでは なく、 誠実 さと 噓 が 対立 する 空間 で ある。 どんな 恐ろしい 真実 からも 目 を 背け ない 強靱 な 意志 と 認識 の 勇気。 そして、 その よう な 態度 に対する卑小 な 者 たち の 陰口 を もの とも し ない 強 さ。 哲学 に 必要 なのは、 知性 では なく、 勇気 と 強 さ だ。

強さとしての誠実

誠実 さと 噓 という 対立 には、 対立 の 意味 そのもの に 二 義 性 が ある。 それ は、 一方 で 真 と偽 の 対立 で あり、 他方 で いわば 善 と 悪 の 対立 で ある。 ニーチェ において この 二 義 性 を 統一 する のは、 もちろん「 力」 で ある。

道徳 家 や 僧侶 の 噓 を 告発 する、 彼 の その 誠実 さのパトス は、 ほんとう に「 力」 に 由来 する もの なのか。 私 は また それ をも 疑う こと に なる だろ う。

そもそも、 相手 の 価値 基準 を 自分 の 価値 基準─ ─ つまり「 強 ─ 弱」 空間 ─ ─ の 中 に 包み込ん で、 その 内部 で 下位 に ─ ─ つまり「 弱 さ」 として ─ ─ 位置づけ て 断罪 しよ う と する その 態度 それ自体 に、 その「 弱 さ」 そのもの が 示さ れ て いる のでは ない だろ う か。 彼 自身 が 批判 しよ う と する キリスト教 と 同型 の、 弱者 に 特有 の 価値 転倒 による復讐 意志 が、 そこ に 読み取れ ない だろ う か。

こう 問う とき、 私 は けっして ニーチェ という 一個人 を 批判 し て いる のでも なけれ ば、 彼 の 心理 の 襞 に 分け入っ て いる のでも なく、 誰 にも 免れる こと の でき ない ある 本質的 な 構造 について 語っ て いる つもり なので ある。

宗教批判

彼 は「 プラトン 以来、 ヨーロッパ の 哲学的建築家 が そろっ て 無駄 な 建築物 を 建て て き た のは 何故 だろ う か」 と 問う て「 すべて の 哲学者 が 道徳 の 誘惑 に 負け た から だ」 と 答え て いる。
彼らの 意図 は、 一見、 確実性 や 真理 の 探求 に ある よう に 見える が、 じつは「 荘厳 な 道徳的 建築物」 を 建てる こと にしか なかっ た の だ(『 曙光』 序言 三) と。

この 批判 は、 相手 の 噓 を 暴く という 水準 に ある 点 で、 本質的 に 健全 な 批判 で ある と 思う。だが、 宗教 批判 を これ と 同じ 水準 で おこなう こと は でき ない。哲学 には、 いわば 建前 と 本音 の 違い が あっ て、 そこ を 突く こと が 批判 に なる の だ が、 宗教 には それ が ない から だ。

恥ど同情

苦悩 する 者 と 知ら れ た とき には、 苦悩 は 必ず 浅薄 な 解釈 を こうむる。 他人 の 苦悩 から、 その 人 に 固有 の 独自 な もの を 奪い 去っ て しまう という こと こそ、 同情 という 感情 の 本質 に 属する こと だ。

最悪のニーチェ=最高のニーチェ

大江健三郎 は 立派 な 人物 で あり、 良識 ある 知識人 の 代表 で ある。 まさにそれ だ から こそ、 つまり 彼 が 今日 の 聖人 で ある から こそ、 彼 は 必然的 に 噓 を つく。 噓 を つか ざる を え ない の だ。 この 種 の「 聖なる 噓」 に ふれ た とき、 背筋 が 寒く なる よう な ある 種 の 感触 を 感じ取ら ざる を え ない 人 なら、 ニーチェ の 格闘 ─ ─ 彼 が 何 を 問わ ざる を え なかっ た か、 何と 闘わ ざる を えなかったのかーーのすべては、するすると理解されていくであろう。

彼は人間社会の構成原理と両立しがたいまでに人間を愛した。それがニーチェの種類の人間愛なのである。にもかかわらず、そのニーチェをその種の聖人の仲間に組み入れ、健全な精神文化の中での古典に仕立て上げようとする傾向は根強い。

道徳外の意味における本当と嘘

ここには言語は根源的な生をーー隠喩的にしかーー表現することができず、社会的に公認された真理とはすなわち虚偽のことだ、という見地がある。だが、個人は自己を保存しようとする限り、その知性をそういう偽装のために使わざるをえないのだ。ニーチェの根底には、そのような事実に対する耐え難さの感覚があることは確実である。

だが、もしすべてがそこからーー言語による嘘からーー始まるのだとすれば、その「嘘」について言語で語ることがどうしてできるのか。哲学的な問いはそこから始まるのだが、ニーチェに欠けているのはその種の哲学的センスである。

彼は、この種の問題を考えるとき、あたかも最初から現在のわれわれのような人間がいて、それが次に社会や言語や真理を作りだしたかのように考えてしまう。その結果、せっかくの哲学的発想を凡俗な説教にしてしまうことになる。

話は逆だ。現在のわれわれにはもう理解できなようなある「高貴な」者たちが何らかの必要から社会や言語や真理を作り出し、その結果、現在のわれわれのような「卑俗な」者たちが誕生した、と考えるべきなのだ。

反時代的考察

動物の幸福は、忘却にあり、人間の不幸の根源は過度の記憶にあるのだ。

生にとっての歴史の害悪は、単に記憶することに、単なる真理に仕える歴史記述にある。これに対してニーチェは「生に仕える真理」を対置する。この「生」の本質が後に「力」として捉え返されることになるだろう。

三種類のニヒリズム

すると、三つのニヒリズムは、こう特徴づけられるだろう。まず第一は、「神」が死んだという普通の意味でのニヒリズムである。そして、第二は、「神」が生きている(だが〈神〉は死んでいる)という根源的なニヒリズムである。第三は、徹底的に「神」が死ぬ(だから〈神〉は生き返る)というニヒリズムである。

系譜学とは何か

系譜的な観点に立つとは、現在の意識にとっての自明性を出発点とすることの拒否を意味する。

記憶や歴史に関して、系譜額的考察の任務はそれを明らかにすることにある。

自分をそのような特権的立場に置かずにいられないこの精神のあり方、自分の方が一方的に相手の秘密を握っていると信じられないではいられないこの精神おあり方こそが、じつは系譜学的にふさわしい対象なのである。

貴族的価値評価と僧侶的価値評価

彼は評価の基準を提唱したのではなく、評価の方法に関して、新しい視点を打ち出したのである。それは、直接的な自己評価こそを究極的なものと考えるという視点である。

自分で自分をよいと感じる感じる、力ある者のこの自己肯定の感覚、それをニーチェは「貴族的価値評価」と呼んで、「僧侶的価値評価」と対比したのである。僧侶的価値評価の源泉は、直接定に自己肯定している強者に対する、それができない弱者の羨みと妬みと僻みにある。だから、その本質は他者を否定することによる間接的な自己肯定である。

僧侶は、僧侶で、おのれの生存のためにルサンチマン的弱者の群れを必要としているが、ルサンチマン的弱者は、僧侶の示す見たこともないような価値空間とそれに基づく世界解釈に、大きな救いを見出し、それにすがりつくのだ。

僧侶のこの行為なかにこそ「能動的ニヒリズムの原型がある(そして、このとき弱者が意気消沈しえ何らの反動的価値も創り出せなかったなら、そこに「受動的ニヒリズム」の原型がある。

道徳と責任ーー道徳の内面化

われわれは現在、記憶が肯定的価値(善)で、忘却は否定的価値(悪)である、という強固な先入観をもっている。ニーチェの根底には、おそらく、この前提に対する否定的直感があるだろう。

負い目と良心のやましさ

キリスト教の本質は、個々の人間が唯一の神に対して負債を、しかも自力ではけっして償うことができないほどの負債を負っている、という解釈の創造にある。

良心のやましさの成立は、自分で自分の生の現実を知り、自分で自分を統御する、新しい人間の可能性を意味した。だが、キリスト教の僧侶の介入によって、事態は意外な方向に展開したのである。転倒した形であっても、敵に向けられていたあの攻撃的本能が、自分に向けかえられ、自分の存在それ自体をやましいものに考える、神の前にひれ伏すしかすべがない、精神の奴隷が誕生したのである。

禁欲主義的僧侶と禁欲主義的理想

肉体の病理を知りそれを統御できるがゆえに、医師たちが病人たちを支配する権力を持つのと同様、精神の病理を知りそれを統御できるがゆえに、僧侶たちは「罪人」たちを支配する権力ーーこの世を超えた絶対的権力ーーを持つのとになる。M・フーコーのいう牧人型権力の出現である。

真理への意志は何を意味するか

もともとほんとうは死んでいたからである。もともと〈神〉が死んでいたからこそ、いま「神」が死ぬのだ。まずは、それが無であることによって〈神〉が死ぬ。ニーチェのニヒリズム概念の外見上の多義性は、この構造に由来するのであろう。

形而上学の超克ーーおよび芸術について

第一空間におけるニーチェの武器は、系譜学という歴史記述であった。第二空間におけるニーチェの武器は、力への意志という独自の哲学説である。第一空間におけるニーチェの主要な敵は、キリスト教とその道徳であった。第二空間におけるニーチェの主要な敵は、形而上学あるいはイデアリズムである。

現に生きている自然的世界の彼方に、そうあって欲しい欲求を投影した別の世界を、それこそが真の世界だとして捏造すること、それがニーチェ的な意味での形而上学である。またニーチェの言うイデアリズムとは、いわゆる主観的な観念論のことでなければ、現実主義に対比される意味でのいわゆる理想主義のことでもない。

つまり、物質や外界がわれわれの観念から構成されるという主張でなければ、ときには現実の諸条件を無視しても理想の実現のために邁進するような精神的態度でもない。それはむしろ、単に理想や理念すぎないものこそを真に実在するとみなす倒錯的な精神のあり方のことである。

世界を別様に、解釈し無を欲するという、力への意志の逸脱事例の研究から、すべては力への意志であるという真理を、彼は学んだのである。力への意志説が、そのニヒリズム的逸脱から学ばれたという事実は、注目に値する。

真理への意志としての力への意志

自分が真の嘘つきであることをどこまでも誠実に認めつづける徹底的な嘘つき。徹底的に誠実な欺瞞者。これが第一空間の到達点であり、第二空間の出発点である。

真理と有用性ーー二つの空間の相互包含

それならば、「真理」とはそもそも何か。第二空間は「真理をどう捉えるのか。「真理とは、それなしには特定の種類の生き物が生存できなくなるような、ある種の誤謬のことである。結局は生にとって価値が問題なのだ。」これは典型的に第二空間的な主張である。

だが、このような主張にもなお二様の解釈の可能性がある。一つは、ニーチェの道徳的系譜学上の主張はこの「誤謬」には含まれないとして、第一空間の優位性を保持する解釈である。真理を僭称してはいるがじつは単に有効な虚構にすぎないものとされているのは、キリスト教や形而上学やそれに類するものだけであって、少なくともニーチェの系譜学的知見はそこに含まれない、とする解釈である。

もう一つの解釈は、キリスト教や形而上学の「真理」のみならず、ニーチェ自身の誠実な文献学に基づく系譜学的知見もまた、同じく「ある種の誤謬」であるとする解釈である。この解釈は魅力的ではあるが、系譜学知見を超えて、力への意志説そのものに適用されたときには、パラドクス的状況を変化させることになるだろう。

欲動としての力への意志

ニーチェは、あらゆる道徳的評価の背後に生理学的原因をさぐり、そこに隠された力への意志を発見した。だから、力への意志は生理学的現象である。ニーチェにおいて、力への意志はしばしば生物としての人間が持つ欲求、欲望、衝動、欲動といったものと同一視されることになる。

ニーチェのプラグマティズムーー有用性の形而上学

ニーチェはまた、世界を生成流転するものと捉え、真理とは人間という種の生存のために生成流転する現実を固定する原理的な偽造のことであるという。

われわれが現にもっているような算術体系、色彩体系、等々を持っているのは、それが実在そのもののあり方を写し取っているからでも、それが人間という生き物にとって役立つからでもない。ただそうあるだけなのだ。

どんなことでもその背後にまわって、その成り立ちについてさらに探究することが可能だと思い込むこの鈍感さに、私はある種の哲学的センスの決定的な欠如を感じる。そして、それこそが形而上学の真の源泉なのである。まさにそのことをウィトゲンシュタインに先んじて指摘した人物こそがカントだったのだから、ニーチェがカントの超越論哲学の意義を少しも理解できなかったとしても、むしろ当然のことなのである。

力への意志?

するとやはり、およそニーチェ哲学の全体を統括するはずの「力への意志」という概念が、じつは弱さの指標であるという奇妙な逆説が、払拭しきれない疑念となって迫ってくるだろう。力への意志が本質的に弱さの現象であるとしたら、力への意志によって世界全体を説明しようとする思想は、弱者の思想だということになる・・・・・・。

力への意志と胡乱な出自

今日、なぜニーチェ思想やそれに類するものに救いを求めるニーチェ的弱者が生まれつつあるのかという問いは、もしそれが社会現象に関する問いなら、むしろ社会学者に解明してもらいたい問いだ。だが、もしそれがニーチェ哲学に関する問いなら、答えはもう出ているであろう。すなわち、力への意志に基づく世界解釈が僧侶の力をモデルにした本質的にニヒリスティッシュな世界解釈だからなのである。

誠実という徳にはどこか力への意志の臭いがする。その出自から見ても、それは恐らくルサンチマン的な価値なのである。力ある者は、誠実なのではなく、むしろただ率直であるはずだ。おそらく、誠実さは下品な徳なのだが、率直さはそうではなく、自己に対する自信から生まれる高貴な徳なのである。

価値基準の独占

キリスト教が「罪」という超越的な解釈空間を捏造することによって、その内部で救われたい)と思わされてしまった)牧畜のうえに君臨したのと同様に、ニーチェ主義は「力」という超越的な解釈空間を捏造することによって、その内部で強者でありたい(と思わせれてしまった)牧畜のうえに君臨することになった。

『反キリスト』におけるイエス像

それではイエスはどうか。現実には、彼はユダヤ教支配階級に叛逆した政治犯だったのだが、彼自身はそのことを自覚していなかった、とニーチェはみなしている。ルナンがイエスを「英雄」という類型で捉えたのに対し、ニーチェはそれを批判して、イエスを「白痴」(Idiot=語源的には「自分だけの世界に生きる者)という類型で捉えた。(ニーチェ「反キリスト」二九)妹エリザベトが出版の実権を握っていた古い版では、1954年になるまで削除されていた、いわくつきの言葉である。

「白痴」とは、文字どうり神とともにあって、意図なしに生きるがゆえに、その存在自体が祝福されているような生のあり方を象徴する表現だったのであろう。だが、その根源にあるのは「どんな接触をも痛ましいほど深刻に感受するがゆえに、およそもう「触れて」ほしくない」(ニーチェ「反キリスト」)と感じるような、極度に敏感な感受性の型なのである。

ニーチェ空間の外へ

第三空間は、第二空間から切り離されたとき、翻って第一空間に接続されることになるのだ。そしてそのとき、第一空間を駆動した力であるとされた「真理への意志」の意味そのものが根本的に変わるのである。そうなれば、第四章で論じた第一空間と第二空間との関係の問題についても、当然、別の見方が可能になるはずである。出発点を変えることによって、空間連接の意味そのものが、つまりニーチェ空間全体の意味そのものが、一変するのである。

つまり、ニーチェのあらゆる主張は、どの空間を起点とするかによって、少なくとも三様の相貌を持つことになる。だから、おめでたさから悲壮さが除去された視点に立つことは、いつもすでに可能なのである。ニーチェ空間の、つまりニーチェの、類例のない魅力は、おそらくは、そこにあるだろう。

以上本書をピックアップしてきました。最後に永井氏による哲学者像を下記に示します。

哲学 を よく 知ら ない 人 は、 しばしば 哲学者 の 仕事 を、 時代 の 病 の 的確 な 診断 と その すぐれ た 治療 プラン の 作成 の よう に 理解 し、 哲学者を それ を 編み出し た 医師 の よう に 捉える。

そう では ない。 逆 なの だ。 彼ら は みな、 他 に 例 の ない ほどの 重病 人 で あり、 それ ゆえ に 自分の 病 と 格闘 せ ざる を え なかっ た に すぎ ない。

歴史 に 残る よう な 思想 は、 多分 どれ も、 他 に なす すべ が なかっ た 人 によって、 苦しまぎれに、 どう しよう も なく 作ら れ て しまっ た もの なので ある。 その 病が、 誰 もが 感じる 時代 の 病 と 重なる か どう かは、 ただ 偶然 のみ が 決めることなのである。

永井均. これがニーチェだ (講談社現代新書) (Kindle の位置No.2448-2449). . Kindle 版.




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