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心理臨床事例としての天王寺璃奈

(※ 本稿は、2020年1月から2021年5月にかけて、筆者がTwitterに断続的に投稿した天王寺璃奈キズナエピソード考察スレッドをもとにして、大幅な加筆・修正を加えたものである。なお、専門的な情報については可能なかぎり正確性を期したが、筆者はこの分野における専門家でも当事者でもないため、情報の取り扱いには注意されたい)

スマートフォン向けゲーム『ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル ALL STARS』(スクスタ)が、先月末をもってサービスを終了した。それを受けて筆者は、そのスクスタのメインストーリーの総まとめ感想記事を、先月29日にnoteに投稿した。

先月の記事でも述べたように、スクスタのメインストーリーは、一人ひとりのスクールアイドルという「個」を包み込み育んでいく「場」を描くストーリーなのであって、ソロアイドルである虹ヶ咲にとっての本来の「メイン」ストーリーとは、一人ひとりのスクールアイドルという「個」を徹底して描いていくキズナエピソードに他ならない。そこで、リリースから3年9ヶ月にわたってスクスタを追い続けてきた虹ヶ咲ファンとしては、メインストーリーのみならず、キズナエピソードのまとまった感想をも書くべきではないかと自問自答し続けていた。とはいえ、キズナエピソードは全部で30人分のシナリオがあり、虹ヶ咲に限っても12人分もの分量を誇っている。それほどの分量のシナリオについて、すべて感想を綴っていくというのは筆者の時間的余裕と力量が追いつかない。

というわけで、数あるキズナエピソードのうち、筆者が個人的に最も面白いと感じたものを1人分だけ選んで、感想記事をしたためてみようと考えるようになった。そのような経緯で投稿されたのが本稿である。つまり、本稿のタイトルからお察しいただけるように、筆者が多くのキズナエピソードのなかで最も面白いと感じたのは、天王寺璃奈のキズナエピソードであった。いや、最も面白いと感じた、というだけではないのかもしれない。単純なストーリーの面白さだけでいえば、璃奈のエピソードに劣らないほどの良質なエピソードは他にもたくさんある。そんな中で今回、なぜ璃奈のエピソードをあえて選んでみようと思ったかといえば、璃奈のエピソードには面白さだけではなく興味深さも感じたから、という答えになる。そして、その興味深さとは、璃奈のキズナエピソードそれ自体がひとつの心理臨床事例として完成されているという点に尽きる、と筆者は思っているのである。ちなみに、筆者は璃奈推しではない。

心理臨床事例として璃奈のキズナエピソードが興味深い、とは一体どういうことなのか、ピンとこない読者は少なくないと思われるが、それは本稿を実際に読んでいくうちに自然と理解していただけるようになるであろう。


表情恐怖という疾患

天王寺璃奈というキャラクターは、感情を顔に出すことが苦手であり、自らの表情の代わりとして顔を描き込んだ「璃奈ちゃんボード」なる板を使っている。このことは、虹ヶ咲というコンテンツに少しでも触れたことがある人なら誰もが知っている事実である。だが、このシンプルなキャラ設定を、ひとつの精神疾患として捉えたことのある人は決して多いとは言えないだろう。それは、具体的にどう捉えればよいか分からないという単純な知識不足があるだけでなく、精神疾患の概念を使ってアイドルキャラクターを分析することに対するタブー感情も働いてるのかもしれない。しかし筆者は、むしろ精神疾患の枠組みで璃奈を捉え直してこそ、璃奈のキズナエピソードの真価が浮かび上がるものと確信している。

では、具体的には何という疾患名が当てはまるのか。それは、表情恐怖(症)と呼ばれる疾患である。表情恐怖とは、人前に出ると表情がこわばってしまい、不自然な表情をしていると他人に思われているのではないかという不安に襲われることで、日常生活や社会生活に困難をきたすという疾患である。表情恐怖は、他人と接する場面において不安や恐怖を感じるという社交不安障害(social anxiety disorder; 略称:SAD)と呼ばれる疾患のうちの一類型だ(社交不安障害は、以前は対人恐怖症という名称だった)。わざわざ説明するまでもなく、表情恐怖の典型的症状は璃奈の状況と合致していると言えそうである(厳密に言えば、うつ病や統合失調症、一部のパーソナリティ障害など、類似症状を呈する他の疾患との鑑別が問題となるが、璃奈の場合はそれらの疾患を発病しているとは言い難いと思われる)。

なお、社交不安障害には、あらゆる対人場面において不安を感じる全般性の社交不安障害と、一部の対人場面においてのみ不安を感じる非全般性の社交不安障害の2種類がある。璃奈の場合、ボードを装着している時や、同好会メンバーと会話する時には不安に襲われていないことから、社交不安障害の様態としては非全般性に該当し、しかも表情恐怖のみを発症しているケースだということができるだろう。ちなみに、表情恐怖と似た社交不安障害の類型としては、他に赤面症(人前で顔が赤くなっているのではないかと不安になる)や醜形恐怖(自分の顔や身体が醜いため他人から変だと思われていないかと不安になる)などが存在する。

発症の経緯

それでは、璃奈が人前で感情を顔に出すのを苦手とするようになった、すなわち表情恐怖を発症するようになった経緯はどのようなものだったのかを、キズナエピソードのあらすじの復習も兼ねて述べていくことにしよう。

この経緯が明確に語られるのは、璃奈のキズナエピソード10話(以後、話数のみ記す)である。非常に大事な箇所なので、やや長くなるが全文を引用する。

璃奈「私も、昔は、ちゃんとみんなと楽しくお話できたんだよ? ほんとなの。でも、いつからかは忘れちゃったけど、なんだかだんだんどんな顔をしたらいいのかわかんなくなっちゃった」
あなた「それってなにか原因があったのかな? 話を聞いてもいい?」
璃奈「これが原因……っていうのは、ないと思う。たぶん、私の気持ちの問題なんだ」
あなた「気持ちの問題?」
璃奈「私の両親、ふたりともお仕事が忙しくて、私が大きくなるにつれてだんだん家を空けることが多くなっていったの」
璃奈「それでも、電話やメールやお手紙やいろんな方法でお話をしてくれたんだ。だから、ほんとは一緒にごはんを食べたりしたかったけど、我慢できた」
璃奈「お父さんとお母さんには大事なお仕事があって、そのお仕事でたくさんの人を助けてるから、私も頑張らなきゃ、って」
璃奈「心配させないためには、一人で大丈夫なところを見せなきゃって思って、なんでも一人でできるようになって、週末や夜のお留守番だって平気になって……」
璃奈「あのね、一人でいるのは平気になったのに、面白いテレビを見ても本を読んでも、だんだん笑えなくなっちゃったの。そのうち、学校でお友達と話して、楽しくても、笑えなくなっちゃった」
璃奈「それで、お友達とうまくお話ができなくなって、そしたらもっと表情の作り方がわからなくなっていったの」
璃奈「お友達とは仲良くしたかったけど、何を考えてるかわからないとか、怒ってるとか、全部真顔で言うからなんかウソっぽいとか言われて、むずかしいなって」
璃奈「でもね、愛さんに会って、璃奈ちゃんボードも出来て、それであなたに会って、スクールアイドルになって、応援してくれる人もできて……今はとても幸せなの」

改めて、璃奈自身の口から語られた発症経緯を、時系列順にして簡潔にまとめておこう。

  1. 璃奈の両親の仕事が忙しくなり、璃奈が家に独りでいることが多くなる。

  2. 璃奈が状況の変化に適応しようとし、次第に独りぼっちの家庭環境に慣れていく。

  3. 独りでいるのは平気になったが、笑顔がつくれなくなり、学校で友達と話していても笑えなくなっていく。

  4. 友達から、表情に関してネガティブな反応を受けるようになる。

  5. 愛に出会い、さらに同好会メンバーに出会ったことで、精神的には比較的安定するようになる。

このようにまとめてみると、璃奈の事例は、人が社交不安障害を発症する経緯としてはかなりありがちなパターンだという印象を抱く。実際、社交不安障害の発症プロセスとしては、ある日いきなり対人場面に不安を抱くようになるのではなく、対人場面におけるほんの些細な出来事がきっかけとなって、そこから徐々にネガティブ思考の悪循環に陥りながら不安が増幅していくというのが最も典型的な発症パターンと言われている。璃奈もまた、自分の表情がうまく作れないということに最初から悩んでいたというわけではなく、友達からややネガティブな反応を受けたのがきっかけで悩みを生じるようになっていった。

また、これは筆者の推測だが、璃奈が友達からネガティブな反応を受ける前の時点においては、笑顔を作れないという症状そのものは実はあまり重症ではなかったのではないかと思われる。社交不安障害の場合、対人場面での失敗体験を積み重ねていくうちに本当に症状が悪化していくというパターンが大半だからである。

遠因としてのネグレクト

ところで、上述したような璃奈の発症経緯について考えると、表情恐怖という生理学的現象とは別の社会環境的な問題が重要な論点として浮かび上がってくる。それは、璃奈の両親がネグレクトを行なっているという点である。

ネグレクトは、日本語ではしばしば育児放棄と訳され、児童虐待の一形態として分類されている。そのため、10話における璃奈の語り口調からすると、児童虐待にしては穏やかすぎるように感じる人も少なくないかもしれない。たしかに、児童虐待と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、身体的暴力や暴言が日常化し、虐待を受けていることが児童本人にとっても周囲の第三者にとっても分かりやすい状況だろう。しかし、とりわけネグレクトにおいては、自らが虐待に遭っているという意識が稀薄であるケースは少なくないし、第三者からもそうとは気づかれないまま成長していく場合も多い。

ネグレクトの典型例としてよく挙げられるのは、十分な食事を与えない、学校や病院に行かせない、自分の遊びに夢中で車内に子供を放置する、などだ。璃奈の家庭環境は一見するとそこまで酷くないようにも思えるが、(璃奈は電話やメールで両親と会話しているとは言うものの)実の娘と十分なコミュニケーションの場を持たず、それによって娘の精神的健康が著しく阻害されていることは疑う余地がない。そして何よりおぞましいのは、璃奈が学校で対人場面におけるハンディキャップを抱え続けているにもかかわらず娘を心療内科に連れて行ったような気配が一切なく、それどころかその問題について娘と話し合い状況の深刻さを認識しようとした気配すらないということだ。だから、同好会メンバーたち、とりわけ愛と「あなた」の二人が、璃奈にとって両親の代わりのような存在となっている。「でもね、愛さんに会って、璃奈ちゃんボードも出来て、それであなたに会って、スクールアイドルになって、応援してくれる人もできて……今はとても幸せなの」という璃奈のセリフが、そのことをありありと物語っている。

また、10話における璃奈の語り口調について筆者がとても「リアル」だと感じるのは、璃奈がやたらと両親を庇うところである。先ほど、虐待に遭っているという自覚が児童にないケースも少なくないと述べたが、璃奈についても同様の指摘が当てはまると思われる。「大事な仕事で忙しいから」という、文字どおり子供だましの親の言い訳を鵜呑みにし、両親とろくに会話できないのは大事な仕事を頑張っているからなのだと自分に言い聞かせる。それにより、自分は虐待を受けているということに気づきかけたとしても、それに気づいてしまうのは璃奈にとって何より恐ろしいこととなる。自分が誰よりも信じていたはずの親が実は自分を虐待していたなど、到底信じたくはないからだ。そのため、表情恐怖の明らかな「原因」が璃奈自身の口から語られているにも関わらず、璃奈は「これが原因……っていうのは、ないと思う。たぶん、私の気持ちの問題なんだ」と説明しようとしたのだ。また、璃奈の両親が自らの行いを虐待だと自覚していない可能性も高い(一般論として、自らの虐待を虐待と思っていない親は少なくない)。親子ともに現状の本質を自覚できず、親子間で歪んだ「信頼」関係を築いてしまうことによりネグレクトが維持され続けていく、といった事例は現実にも存在しているのである。

25話より。「無神経なこと言っちゃった」と謝るかすみと、それに対し「なんで謝るの?」と反応する璃奈の対比が興味深い。璃奈の家庭の異質さを敏感に感じ取るかすみの第三者的視点と、親から受けたネグレクトに対する璃奈の無自覚がよく表れたシーンと言える。

さらに言えば、璃奈の場合、周囲の第三者からネグレクトの事実が気づかれにくくなっている重要なポイントとして、貧困家庭でないという点が挙げられる。通常、十分な食事が与えられていない、病院に行けていないなどといった貧困家庭にありがちなネグレクトは、児童の身体や挙動に比較的わかりやすく反映されるものである。一方、璃奈の例では、(心療内科に連れて行ってもらったような気配がないという点は措くとして、)食事に困って栄養失調になっているような描写はなく、それどころかPCをはじめ高価なIT機器を豊富に揃えていることからどちらかといえば富裕な家庭なのであろうと想像できる。ちなみにTVアニメ版(通称:アニガサキ)では有明の新築タワーマンションに住んでいる。

というわけで、ここまでいろいろ述べてきたが、璃奈の表情恐怖はネグレクトを遠因として生じた二次被害だという重要事項については、おおよそ十分に説明し終えたと言ってよいだろう。ただ、ネグレクトに起因する二次被害として、表情恐怖に加えてもう一つ指摘しておきたい点がある。璃奈の精神的および身体的な発育には、全体的に偏りが生じているように見受けられる点だ。まず精神的発育について述べるならば、璃奈は他の子に比べて感情表出が乏しく、性格もどこか大人びているということが挙げられる。もちろん、スクールアイドルになってからの璃奈は、同好会メンバーやファンとの交流を通して自身の感情をうまく表出できるようになっている。だが、表情を出せないという問題とは別に、そもそもの璃奈の話し方がやや平板な感じであり、どこか大人びた振る舞いが目立つという点は見逃せない。なぜなら、ネグレクトを受けた児童に残る悪影響としてはさまざまなものがあるが、感情表出が苦手になったり、言動が大人びたりする、というのもよくあるパターンだからだ。さらに、身体的発育について述べるならば、璃奈の身長が149cmと虹ヶ咲メンバーの中でもダントツに低いという点に注目すべきだ。実際に、ネグレクト被害を受けた児童は身体的発達が未成熟である(身長が低い、運動機能が低いなど)傾向が有意に見られることが知られている。当然、どこまでが社交不安障害の症状でどこからがネグレクトの影響なのかを正確に見分けるのは難しいのだが、社交不安とは別の次元で、ネグレクトそのものが直接的な璃奈の精神的・身体的成長に悪影響を与えた可能性は低くないと筆者は思うのである。

ちなみに、アニガサキでは尺の都合や話が重くなりすぎるなどの事情もあってか、これまで述べてきたような璃奈に関する詳しい背景事情は大部分がカットされている。だが、「璃奈回」であるアニガサキ1期6話では、自室にこもり塞ぎ込んでいた璃奈を同好会メンバーたちが励ましに訪れるシーンで、愛が「普段この時間はりなりー独りだって聞いてたから……」と発言している。両親が多忙であることをほのめかすような興味深いセリフと言える。なお、昔は皆と楽しく話せていたというスクスタの璃奈に対して、アニガサキでは小さい頃から表情を出すのが苦手だったとの設定になっているのも興味深いが、本稿ではこれ以上立ち入らないことにする。

SADの認知モデルから見た璃奈

さて、今までは表情恐怖や社交不安障害について基礎的な説明を述べてきたが、ではそういった病状はどのように治療されるのだろうか。精神疾患の治療法を大きく二つに分類すると薬物療法と精神療法とに分けられるが、特に社交不安障害の患者に対して多く用いられる精神療法として、認知行動療法が大変有名である。

認知行動療法(Cognitive Behavioural Therapy; 略称:CBT)とは、精神的な問題を抱える患者が目の前で起こっている現実をどのように認知し、またその認知と気分や行動などがどのように反応し合っているかを理論的にモデル化することにより、その認知モデルをもとに患者のゆがんだ認知を分析・修正して精神的問題の解消を図るという精神療法のことだ。現時点において、数ある精神療法の中でも最も有名かつ影響力の大きい治療法であり、特にうつ病や不安障害(今まで本稿で述べてきた社交不安障害は不安障害の一種)の治療に効果が高いと言われている。とはいえ、いま述べたような抽象的な説明だけでは具体的にどんな治療法なのかさっぱり分からないと思われるので、認知行動療法によって社交不安障害の治療を行う際に用いられる最も標準的な認知モデルをひとつご紹介しておこう。

これは、デヴィッド・クラークとエイドリアン・ウェルズというイギリスの心理学者らによって提唱された認知モデルである(Clark & Wells, 1995)。上の図において、矢印は、ある事象が起きたことによる悪影響が他の事象を誘発することを表している。また、安全確保行動というのは、「恐怖場面内で生じた不安を即座に軽減したり、破局的な結果(例えば、手の震えが相手に気づかれてしまう)をうまく避ける目的で患者が用いている行動」のことを指す(岡島, 2010)。さらに、恐怖を感じるような対人場面そのものを無くそうとする行動のことを回避行動というが、広い意味では回避行動も安全確保行動と同様の行動パターンと言えるだろう。

さて、この認知モデルに璃奈の症例を当てはめてみると、次の図のようになる。

この図で起こっている認知の構造を文章の形にすると、次のように述べることができる。

  • まず、社会的場面(学校でクラスメイトと接する状況)を経験すると、ネガティブな信念(無表情で変だと思われた、私ってやっぱり変なんだ、と思うようになる)が生じる。

  • 次に、ネガティブな信念が生じると、社会的危険を感知する(このままでは学生生活をやっていけなくなるという切迫感)。

  • 社会的危険を感知すると安全確保行動・回避行動(クラスメイトとの交流や友達づくりをやめようとしたり、笑顔が変だと思われるのを恐れて余計表情を硬くしようとする)が表れ、感知された社会的危険と安全確保行動・回避行動に影響されて精神症状や身体症状(対人場面における不安・恐怖)が発現する。

  • さらに、感知された社会的危険、安全確保行動・回避行動、および諸症状などから「社会的対象としての自己」(他人から見て無表情で感じ悪い存在としての「私」のイメージ)が形成され、それによって社会的危険がますます過敏に感知されるようになる。

  • そして、特に安全確保行動の結果が、次の新たな社会的場面に悪影響を及ぼす。

認知行動療法では、上記のような認知モデルを仮定したうえで、患者の認知と行動に介入し、認知、ネガティブな信念、不安・恐怖、対人場面での不適応などが相互に悪影響を与え合う悪循環の輪を断ち切ろうとする。実のところ、璃奈の「成長物語」もまた同様の側面があると筆者は考えている。次に、璃奈がどのように「成長」していったかを、引き続きキズナエピソードを追いながら見ていくことにしよう。

認知行動療法から見た璃奈の物語

表情恐怖の克服という観点から璃奈の物語を見たとき、最初の転機は、璃奈が愛や「あなた」と出会い、同好会に加入し、スクールアイドルとして活動を始めたことだったと言えるだろう。璃奈ちゃんボードを使いながらではあるが、スクールアイドルとしてファンの皆とつながれることの素晴らしさを実感していく、というのがキズナエピソードの序盤のストーリーだった(7話まで)。この序盤のストーリーは、自身の初めてのソロ曲『ドキピポ☆エモーション』を披露したことを通して、ファンと心を通わせることの尊さに目覚め、もっと心を通わせるためにボードなしで、目と目を合わせてライブをしたいと璃奈が思うようになるきっかけにもなっていた。

そして第二の転機は、璃奈が初めてボードを外してライブを行おうとしたことであり、ここがキズナエピソード全体を通して最も重要な大転換点だったと言っても過言ではないだろう。筆者を含め、アニガサキが始まるよりずっと前から虹ヶ咲を追いかけていた人にとって、璃奈の素顔が初めて公開されたときの衝撃と感動はとても大きいものだった。そんな衝撃と感動を多くのニジガクファンに巻き起こしたのが、13話までのキズナエピソードであった。

11話

璃奈ちゃんボード無しのライブに挑戦しようとするものの、笑顔がうまく作れずに悩む璃奈。そんな璃奈に、「あなた」は「表情のことは一旦忘れてみたらどうかな?」と提案。たとえ笑顔がなかったとしても、そこに気持ちがあるなら本物だと語りかける。「あなた」の説得もあり、璃奈はボード無しでライブに臨むことになった。

筆者が思うに、このシーンこそ、璃奈の「認知」と「行動」に対して「あなた」が介入し、ネガティブな信念や諸症状が強化し合う悪影響の連鎖を断ち切ろうとする、とても重要な場面であると言える。実際、「あなた」は、「笑顔がぎこちないとまともにライブをすることはできないんだ」という璃奈の「認知」にメスをいれ、「そこに気持ちがあれば本物」だと認知を修正していく。さらに、実際にボードを取ってライブをしてみようと「行動」に働きかけていく。これにより、認知モデルでいうところの認知・行動がもたらす悪影響の伝播をシャットアウトし、悪循環の輪を断ち切ろうと試みているのだ。

11話

そして、とりわけ重要な「あなた」のセリフはこれである。璃奈がパフォーマンスをしている時の動画を見せながら、他人に見られていると意識せずに、歌うことに集中している時の璃奈の表情は決してぎこちなくなんかないと「あなた」が説得する。これは、「他人からはぎこちなく見えているに違いない」という凝り固まった璃奈の「認知」を解きほぐす作業に他ならないのだが、さらに特筆すべきは、これがビデオフィードバックと呼ばれる治療法そのものであるということだ。ビデオフィードバックとは、社交不安障害の患者に対して患者自身を撮影した映像を見せることで、思っていたほど自分は変ではないと気づかせ、ゆがんだ認知を修正していくという認知行動療法のうちの一技法である。「あなた」が璃奈に対して行なっているのはビデオフィードバックそのものなのだが、ここでは「あなた」自身の率直な感想も踏まえながら璃奈の表情についてコメントしているのも重要だ。「あなた」という第三者的視点から「ぎこちなくなどない」とはっきり言ってもらいながら自身の映像をチェックしていく、という作業は、ビデオフィードバックという治療法の進め方としては理想型と言うべきだろう。

13話

そして、璃奈は「あなた」の助言と応援を受けてボード無しのライブを成功させる。『テレテレパシー』初披露の瞬間である。この体験こそまさしく、素顔で他人と接するのを避けるという「行動」のクセを大きく修正する第一歩であり、さらに「うまく表情が作れなかったとしても大した問題にはならない」という新たな「認知」の獲得にもつながっている。13話以降、璃奈は素顔で会話する機会も多くなり、「認知」と「行動」の絶え間ない修正によってネガティブな信念も修正されていくという好循環に入っていくことになるのである。

璃奈ちゃんボードの使用は安全確保行動か?

璃奈の表情恐怖の治療プロセスにおいて、最も重要というべきアイテムが璃奈ちゃんボードである。璃奈ちゃんボードは天王寺璃奈というキャラクターの象徴的存在でもあり、璃奈にとってとても大切な存在でもある。しかし、あくまでも治療という観点から、璃奈ちゃんボードがどのような意味を持っているのかを改めて考慮したとき、璃奈ちゃんボードは必ずしも良いツールだとは言えなくなる可能性が出てくる。この問題点について少し触れておきたい。

先ほども述べたように、「恐怖場面内で生じた不安を即座に軽減したり、破局的な結果をうまく避ける目的で患者が用いている行動」のことを安全確保行動と呼ぶのであった。例えば、手の震えを隠すために手をポケットに入れる、コミュニケーションの緊張をやわらげるために酒を飲む、などだ。そして、安全確保行動は、社交不安障害の症状を悪化させる要因として知られており、治療においてはこの安全確保行動をやめさせていくのが重要なプロセスなのだ。というのも、患者が安全確保行動を行うと、「安全確保行動を行なったからこそ症状がやわらいだ」という経験をもとに、「自分は安全確保行動なしにはまともに人と会話できないのだ」というネガティブな信念が強化されてしまうからだ。既にお察しの読者もおられるだろうが、ここで筆者が言いたいのは、「璃奈がボードを使用するということは安全確保行動に該当するのだろうか?」という疑問は必然的に出てくることになる、ということだ。

筆者の考えを述べると次のようになる。璃奈ちゃんボードで顔を隠し、ボードを通して人と会話するということを常に続けていれば、それは当然「ボード無しではまともに会話できない」という信念の強化につながり、表情恐怖の快復にはつながり得ない。しかし、璃奈は11話で重大な決断をする。ファンからの声援もあり、ありのままの自分でもよいのではないかと気づくようになり、璃奈ちゃんボード無しでライブをしようと決意したのだ。そして13話で『テレテレパシー』の初披露ステージで成功体験を積んだことで、今までの人生で蓄積してきたネガティブな信念が、ボード無しでもうまくできるというポジティブな信念によって上書きされた。つまり、璃奈がボードを使ったのは一時的には安全確保行動だったかもしれないが、璃奈の物語全体を俯瞰してみたときには決して安全確保行動ではなく、むしろ治療を円滑に進める良薬として機能していたのではないか。より具体的に言えば、璃奈ちゃんボードとは、表情恐怖の進行によって強化されたコミュニケーションに関する璃奈の不安や劣等感を、一時的に拭い去るための対症療法に他ならない。これが筆者の基本的な見解である。

13話

『テレテレパシー』の初披露ステージを終えた璃奈に、「あなた」は璃奈ちゃんボードを渡し、ボードがある璃奈もボードがない璃奈も両方とも素敵な一人の璃奈だと語りかける。そして璃奈は、ボードは自分自身にとって「私の相棒」であり「大事な友達」なのだと断言する。ボードは「たかが対症療法」ではあったかもしれないが、それでもボードを作らず素顔のままでいたら、ボードが無くても平気になった今の璃奈はなかっただろう。今はもはやボードが無くても平気になったとはいえ、愛や「あなた」と共にボードをつくり、ボードと共に『ドキピポ☆エモーション』で人生初ステージを経験し、ボードと共に仲間たちと歩んだ日々もまた璃奈にとってかけがえのない想い出なのだ。ボードに対するそのような感謝の気持ちが、「相棒」や「友達」という言葉に込められていると感じられる。そして、ボードが無くてはまともに生きていけないという依存的な状況を脱したからこそ、璃奈は、(依存関係からは一歩遠ざかった)「相棒」「友達」という言葉をもってボードを表現したのだ。

13話

そのようなわけで、璃奈と璃奈ちゃんボードをめぐる物語は美しいものだと筆者は感じているのだが、とはいえボードについての言及の仕方に関しては臨床心理的に一つだけ注意すべき点がある。それは、上記の璃奈のセリフである。璃奈は表情恐怖患者一般に対してボードの使用を勧めているが、筆者としては、これをまともに受け取るのはやや危険と言わざるを得ないと感じる。既に述べたように、璃奈ちゃんボードの使用は、一歩間違えれば(つまり11話の璃奈のようにボードを外しても会話できるようになろうという意志が無かったり、周囲に理解のある親身な介助者がいたりしなければ)表情恐怖の症状をより悪化させる要因となってしまうのだ。そのため、璃奈が他人に対してボードの使用を勧めること自体はある程度自然ではあるのだが、注意すべき点ではあると考えられる。もし、璃奈の物語を読んだ社交不安障害患者がいれば、ボードを使うべきか否かは専門の医師やカウンセラーとよく相談すべきである。

ちなみに、のちに『アナログハート』初披露オンラインライブを終えた際、璃奈のファンたちの間で璃奈ちゃんボードで会話するのが流行ったことがあった。これに対して璃奈は嫌がるどころか、きわめて肯定的な反応を見せる。

22話
『魔女の宅急便』(1989年、宮崎駿監督)より

璃奈は、皆がボードを使うことで自分を受け入れてくれていると語る。この段階において、もはやボードは「自らのハンディキャップを補う器具」としての役割を終え、スクールアイドルという表現者としての「相棒」と呼ぶに相応しい存在になっていることが分かる。まさしく能楽師が能面をつけて能を演じるように、璃奈にとってはボードそのものが立派なひとつの表現手法として昇華されているというわけである。

進んでいく「治療」

13話までで、璃奈の物語の基本的な方向性はおおよそ示されたと言ってよい。ボードのある自分と、ボードの無い自分という二つの自分のあり方についてしっかり定義づけたことで、スクールアイドルとしての璃奈の方向性はほとんど確定したからである。だが、表情恐怖の治療という視点からすれば、13話より先のキズナエピソードにおいても重要な進展がいくつか見られた。そのうち、まずは『First Love Again』の制作をめぐる物語を検討してみることにしよう。

校内フィルムフェスティバルで、璃奈はゲーム部が制作した映画の主題歌を担当することになった。その映画は次のようなあらすじだった。

ある日、主人公のところにかっこいい紙飛行機が飛んできた。紙飛行機の羽には番号がついており、紙飛行機を開くと、そこには「このメッセージを読んだ人、はじめまして! 私の冒険のパートナーになってくれますか?」というメッセージが書いてあった。主人公はその後も何度か紙飛行機を見つけ、小さな冒険をするようになる。しかし、主人公が拾う紙飛行機に書いてある番号はいつも5番までで、書いてある内容はいつも一緒。不思議に思った主人公は、誰がこの紙飛行機を飛ばしているのか探すようになる。

その結果、紙飛行機を飛ばしていたのは昔近所に住んでいた幼馴染であることが分かったが、その幼馴染はいつのまにか、記憶が1日しか持たないという重い病気を患っていたことが分かる。ところが、戸惑う主人公に反して、幼馴染の子は自分の病気に対してとても前向きのようだった。「これから私、あなたが会いにきてくれるたびに、『久しぶりー』って懐かしい気持ちになれるんだ!」と幼馴染の子は言い、楽しかったことを忘れてしまうのは残念だが、失敗も忘れるのでどんなことも何度でもチャレンジできるのだと言う。

校内フィルムフェスティバルのプロモーションは、当時同好会メンバーだった10人がそれぞれ取り組んでおり、それぞれが自分の担当する映画のシナリオを読み込んで楽曲を作っていく様子が描かれていた。その中でも、個人的に最もきっちりとした「映画のシナリオ」という印象を抱いたのが璃奈の担当したこのシナリオだった。だが、やはりここで面白いと思うのは、この映画シナリオには璃奈自身の成長物語と重なるものがあるということだ。

この映画のシナリオに登場した主人公の幼馴染が抱える疾患は、前向性健忘という記憶障害の一つであると考えられる。璃奈の抱える表情恐怖と同じく、精神疾患の一類型である。だが、この幼馴染は、その病気について非常に楽観的に捉えている。いや、それどころか病気を病気として捉えていないとさえ言えるかもしれない。さしあたり、幼馴染も、その近くにいる人たちも、幼馴染が病気であることによって特に何か困っているというような様子はないためであろう。重要になってくるのは、まさしくこの点である。

近現代の医学は自然科学を基礎として成り立っていることもあり、病気は、自然科学的な客観的尺度によって測定され診断されるものだという認識が現代社会には蔓延している。しかし、病気とは、ただ単に人体という生物学的な機構において生じる概念というだけではない。人間をとりまく社会にとって「不適応」とみなされた特定の生物学的様態に対して病気というラベルを貼ったとき、初めて病気は病気となるのである。たとえば近視は、医学的あるいは法的には視覚障害として見なされる場合もあるが、多くの社会的状況においては通常は視覚障害として見なされない。ほとんどの近視の人は眼鏡やコンタクトレンズで視力矯正が可能であり、しかも視力を矯正していることが本人にとっても社会にとっても何ら問題となっていないからだ。一方、矯正手段が存在しなかった時代においては事情は全く異なるだろう。したがって、先述の幼馴染が健忘という病気を病気として捉えていなかったとしても、さほど不思議ではない。

璃奈の抱える表情恐怖についても同様のことが言える。無表情、あるいはぎこちない表情であったとしても、本人や、本人を取り巻く人々がそれを問題としなければ、表情恐怖は病気としては成立しない。なぜなら、そもそも表情恐怖とは、他人からの視線に対する不安・恐怖によって表情の緊張が惹起されるというような性質の疾患であって、本人を含めて誰も無表情のことを問題としないのであれば、もはやそれは疾患ですらないからだ。そして、前にも述べたように、『First Love Again』を制作していた段階で璃奈は既にそのような認知を獲得しつつあった。この段階の璃奈にとって、この映画シナリオを熟読して主題歌を制作するという体験は、自身と似た境遇のキャラクターを第三者的視点から眺めることにより、自身が抱える問題が相対化され、ネガティブな信念が湧きにくくなるという効果をもたらすものであったに違いない。実際、自分の状況を如何に客観的・相対的に認識していくかは、認知行動療法を用いて精神疾患の治療を行ううえでとても重要な意義を持ってくるのである。ちなみに、メインストーリー22章以降、璃奈がミアの悩みに向き合い姉のように接していくというのもまた、第三者的視点をもって友人の悩みに関わることで自己の悩みをも相対化していくという、重要な治療プロセスの一環として捉えることも可能なのだ(キズナエピソードでは、愛が自分にしてくれたことを真似してミアに施そうとする璃奈の心情が36〜39話にて描かれている)。

璃奈は映画シナリオを読んだうえで、新曲『First Love Again』を完成させた(27話)。その歌詞の中にある次の一節は、幼馴染の心情のみならず、璃奈の成長をも反映しているように思われるのだ。

「別にそれでいいじゃん」ってキミは軽く笑った
変わらない いつもの帰り道 少し違ってみえた

「治療」の終結

これまで、璃奈の表情恐怖が如何に「治療」されてきたかをつぶさに検討してきた。それでは、その「治療」はどのような実体的効果を璃奈にもたらしたのであろうか。最後に、璃奈の表情恐怖が徐々に寛解していく様子を追って、本稿を締めくくるとしよう。

璃奈は13話でボードなしのライブを初披露したが、この当時、まだ璃奈の素顔の表情は依然として硬いままだった。ところがそれ以降、璃奈の表情は多少柔らかくなっていくことが、エピソードのスチルイラストから明らかに見て取れる。まずは2020年8月に開催されたイベント『勝ち抜け!スポーツバトル』で公開された璃奈のイラストを確認しよう。

このイベントが開催された当時、想定していたよりも早く璃奈の表情が緩んでいるのを見て、筆者は衝撃を受けたのを覚えている。とはいえ、このイラストをよく見てみると、ここで璃奈が話しかけている相手(鞠莉)はまっすぐ璃奈のほうを向いていない。つまり、少なくともこの時点の璃奈は、友達と遊んでいる場面であっても、その友達からまっすぐ視線を向けられていなければ笑顔を見せることができていたと考えられる(あるいは、13話以前からもともとできていた可能性すらある)。まっすぐ視線を向けられている状況でも璃奈は笑顔を見せることができるのか、さらに様子を見続けていたところ、2021年に入って次のイラストが公開された。

イベント『あつまれ!幼稚園ライブ!』(2021年5月)より
イベント『ホワイト・シティ・ライツ』(2021年12月)より

2021年に入ると、視線を向けられている状況であってもはっきりとした笑顔を見せることができるようになっていった、ということができそうだ。一方で、肝心のキズナエピソードにおいては、璃奈の表情にどのような変化が現れているのかについて明確な言及がないまま物語が進行していった。

ところが、2022年になって、璃奈の表情問題に関して再び重大な転機が訪れるようになる。

31話

ある日、オートエモーションコンバート璃奈ちゃんボードに原因不明の不具合が生じる。そこで璃奈は、ともにボードを製作したクラスメイトの浅希に相談を持ちかけ、ボードを一旦浅希に預けることにするのだった。ところが、しばらく経って浅希が璃奈のもとに来て、詳しくボードを調べてみたもののやはり原因が何か分からないままだと告げる。そこで浅希は、一度実際にボードを装着してパフォーマンスをしてほしいと璃奈に頼む。

33話

璃奈がパフォーマンスをしてみた結果、

  • 筋肉に流れる微弱な電流を感知して表情に反映させる仕組みに問題が生じていること

  • 表情変化のタイミングが少し早いこと

という2つの問題がボードに生じていることが明らかになった。ここから、浅希はひとつの結論を導き出す。

33話

璃奈の表情が豊かになってきているため、ボードが必要なくなりつつあるのではないか。浅希はそう告げて帰っていった。しかし、少し悩んだものの、璃奈はボードを完全に外すという選択肢を取らなかった。

34話

実のところ、この問題に関する璃奈の「答え」は既に出ていたようなものだった。13話で璃奈はボードのことを「相棒」と定義し直し、その後もボードは「表情を補う道具」ではなく「自己を表現する手段のひとつ」であるとの立場を堅持し続けていた。だから、表情が豊かになってきたからといって、璃奈がボードを完全に外すということは考えられない選択肢になっていたのだ。先ほども述べたように、もはや璃奈にとっての璃奈ちゃんボードは、能楽師にとっての能面と同じようなものなのである。

35話

結局、オートエモーションコンバート璃奈ちゃんボードの「タイプ2」としてボードの改良を実施することになり、ボードは以前よりもパワーアップして璃奈の元に戻ってきた。そして璃奈は、さっそく「タイプ2」を使ってファンと交流を深めるのであった(36話)。

この「タイプ2」にまつわるエピソードをもって、璃奈の表情恐怖が認知行動療法的に治療されていくプロセスは一旦の「終結」に至ったものと筆者は解釈している。この段階の璃奈にとって、たとえ無表情やぎこちない表情がまだ少し残っていたとしても、それはもはや問題にはならない。先ほども述べたように、表情恐怖の本質は無表情やぎこちない表情という身体的症状にあるのではなく、そうした特徴に向けられる「視線」への不安・恐怖、すなわち社会的な「場」における病理にこそあるからだ。璃奈は認知行動療法的な成長過程を歩んでいき、ついに不安・恐怖をほぼ克服するに至った。したがって、璃奈の表情が豊かになったというのは、不安・恐怖が克服されたことの結果であり、また傍証に他ならない。

ところで、表情恐怖をはじめ、璃奈の精神的・身体的発達に悪影響を与えたきっかけと思われる両親との関係については、最後の最後まで進展が語られることはなかった。だが、筆者はそれでよいと考えている。両親との関係に焦点を当てるとストーリーが過度に重たくなり、ラブライブ!シリーズの作風にマッチしなくなるという問題があるからである。また、複雑怪奇な家庭環境を無理やり改善しようとしなくても、周囲の仲間がしっかり支えてくれる(まさに同好会のような)「場」があれば、むしろそのほうが良好な予後が期待できる場合もある、という見方もできるのではないだろうか。もちろん小中学生以下の子供であれば家庭の影響力が大きく、仲間による援助にも限界があるだろうが、成人に近い高校生ほどの年齢にもなればやや話が違ってくるかもしれないと思うのである。

さて、以上をもって、表情恐怖を発病し、「治療」を始め、その「治療」が終結するまでの璃奈の成長の記録はおしまいである。こうして書き終えてみると、璃奈のキズナエピソードは、心理臨床的な背景がきわめて色濃いユニークな物語であり、また心理臨床的な「治療」事例としての完成度の高さを改めて実感する。なお、本稿ではSADの認知モデルやそれに基づく認知行動療法の枠組みで物語を捉え直していったが、もともと不安障害は、フロイトが創始した精神分析によって本格的な研究が開始された疾患である。そのため、同じ不安障害であっても、物語の性質によっては精神分析的なストーリー考察のほうが適している場合もある。実際に、他作品ではあるが、不安障害の傾向にあるキャラクターを視聴者が精神分析的に考察しているケースも見られる。璃奈のキズナエピソードについては、認知心理学的モデルによる考察のほうがフィットしているように筆者は感じたので本稿を書き上げたわけであるが、精神分析的な考察も可能ではあるだろうとも思うので、やってくれる人が出てくることを期待していきたい。

また、最後に付言しておくと、本稿で述べてきたことは実のところ、ラブライブ!シリーズを貫くテーマとも密接に関連しているのである。璃奈が表情恐怖を克服していくプロセスの本質は、他者の視線を顧みず、相手との会話やライブパフォーマンスをただひたすら「楽しむ」ということに尽きる。これは、過去を振り返るなどの余計な雑念を排して、一瞬一瞬を全力で生きていくというラブライブ!シリーズの根本テーマに他ならない。さらに、愛や「あなた」をはじめとした同好会メンバー、はんぺんや浅希をはじめとした親しい友達、無数の璃奈のファン、という多くの仲間たちが全力で璃奈を支えるシステムがあったことも、臨床心理の専門家抜きで「治療」を進めることができた秘訣と思われる。このことは言うまでもなく、璃奈のキズナエピソードが、ラブライブ!シリーズのもう一つの根本テーマである「みんなで叶える物語」そのものであったことを示しているのである。

おわりに

2017年、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会というプロジェクトが発表された時、素顔を見せない2次元アイドルというきわめて斬新な発想を出してきたラブライブ!運営に大変驚いた覚えがある。他の多くのラブライブ!ファンも皆が驚いていた。そして、このスクールアイドルはどんな物語を見せてくれるのか楽しみだった。

あれから6年の歳月が経ち、天王寺璃奈にまつわる成長物語、特に璃奈の表情と璃奈ちゃんボードにまつわる物語は一区切りを迎えた。そして、その内容は6年前の筆者が期待していた以上に引き込まれるものだった。いま、物語が一区切りとなったことへの一抹の寂しさを抱くとともに、璃奈のキズナエピソードに対して今まで感じてきた想いをすべて披瀝することができて安堵している。

素顔を見せない2次元アイドルの物語。そんな前代未聞のストーリーの背景には、心理臨床的な次元での一種のリアリズムが秘められていた。そのことを改めて確認したうえで、本稿を終えることとしよう。

41話より。他者の「視線」を克服した璃奈が、「あなた」とふたりで「視線」を交わす場面。これが璃奈のキズナエピソードのラストシーン、最後のセリフとなった。

参考文献

  • Clark, D. M. & Wells, A. 1995 “A cognitive model of social phobia” In R.G. Heimberg, M. R. Liebowitz, D. A. Hope, & F. R. Schneier (Eds,) “Social Phobia: Diagnosis, assessment, and treatment” New York: Guilford Press. Pp.69-93.

  • 『不安障害の臨床心理学』、坂野雄二・丹野義彦・杉浦義典(編)、東京大学出版会、2006年。

  • 『社会不安障害患者の安全確保行動に関する研究:回避行動に関する新たな視点』、岡島義(著)、風間書房、2010年。

  • 『社交不安障害(社交不安症)の認知行動療法マニュアル(治療者用)』(第3版)、吉永尚紀(執筆・編集)、清水栄司(監修)、平成27年度厚生労働省障害者対策総合研究事業「認知行動療法等の精神療法の科学的エビデンスに基づいた標準治療の開発と普及に関する研究」、2016年。

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