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『ありふれた幽霊』より「31番地の母娘」(全文掲載)


発売中の電子書籍『ありふれた幽霊』より、一編の作品を全文ご紹介しましょう。短い作品ですので、ぜひともご覧ください。

31番地の母娘(I`m Sure It Was No.31)1955年
A・M・バレイジ/仁賀克雄訳

 何年も前に起こったことだ。ぼくは18歳で、そのころ住んでいた場所から1マイル足らずのロンドン郊外で、母のために貸家を探していた。あの幸せだったエドワード七世時代には貸家がたくさんあり、ぼくは自転車に乗って母の希望に応えようとしていた。母の実りのない貸家探しを助けるため、母には思いもつかない方法を知っていた。ぼくは地元の不動産屋からもらった何枚かの家屋下見書をポケットに入れ、その貸家の一軒に向かう途中だった。そのとき、ぼくの人生でもっとも奇怪な事件が身に降りかかったのだ。それは晴れた十月の午後のことで、ぼくは無気力さや憂鬱さなどかけらもなく、いたって正常で健康だった。
 ぼくの行く道は路面電車の線路沿いだった。左側の脇道はすべて袋小路で、大きな公園の境壁で終わっていた。過ぎていく両側の脇道を見ながら走ってたが、突然ある町角で停まり、自転車から降りた。右側の路地の中ほどの家の手すりに「貸家」の札が斜めに下がっているのを見つけたのだ。
 その家は小さな郊外住宅の路地にあり、ぼくたちの目的にちょうど沿うものだった。それは、すでに相談している不動産屋の出した貸家札で、ぼくのリストにはない貸家だったが、行って調べてみることにした。縁石に自転車を立てかけ、その家のベルを鳴らした。
 そのとき、思いもかけないことに、玄関扉に歩いてくるのは貴婦人の姿だった。ぼくの眼には老けて見えたが、まだ40歳にはならなかっただろう。どのような服装だったかは憶えていないが、一見した感じでは古びた小さな家にはふさわしくない気がした。
 そこでぼくは帽子を脱いで挨拶すると、用件を説明し、家屋下見書を持ってこなかったことを詫びた。そして、同じ不動産屋からもらった他の家屋下見書を見せた。
「あら」彼女はいった。「不動産屋が貸家札を外すのを忘れたんですわ。わたしは住み続けることにしましたの」
 彼女がぼくの身分を見抜いたんだなと思った。ぼくもすでに彼女のことは認識していた――昔はよい暮らしをしていた女性だと。ぼくはみすぼらしく身なりのだらしない顔色の悪い少年で、心さみしい未亡人の興味をひくようなタイプではまったくなかった。それでも、疲れ切っているように見えたのだろう。理由はともあれ、彼女はこういった。「お入りになってお茶でも召し上がりませんか?」
 貧乏で境遇が変わる前の友人たちの母親みたいな感じで、ぼくはすぐさま遠慮深さをかなぐり捨てることにした。彼女について玄関の間に入ると、二つの驚きが待っていた。軽いほうの驚きは家具調度だった。重量感のあるもので、数世代にわたる陸海軍軍人の油絵もあった。大きなほうの驚きは、16歳ぐらいの少女が出迎えてくれたことだった。母親はいった。「娘のマンプスですわ。まだあなたのお名前をうかがっていませんでしたが――」
 ぼくは名前を名乗りながら、じっと見つめた。娘はぼくが出会ったこともないほど活き活きとした、人目をひく女性だった。長い黒髪を肩まで垂らし、すばらしく暖かみのある表情が部屋を明るくしている。きれいなチョコレート箱みたい? そう、たぶんそうだ。ぼくはたちまち恥ずかしさで赤くなった。
 それからぼくらはしばらく座って話した。母親はまず自分のことを話すことでぼくの遠慮をほぐしてくれた。彼女の名前はエリス、未亡人だった。いつも彼女は娘をマンプス(おたふく風邪)の愛称で呼んでいた。娘のクリスチャン・ネームはわからなかった。
 やがて、壁に掛けられた油絵の一つが一、二年前のマンプスを描いたものだと気づいた。他の絵と同じくいくぶん素人くさい描き方で、母親が描いたのだと聞いてもあまり驚かなかった。
「マンプスはわたしよりも絵は上手なんですよ」彼女は笑っていった。「あなたのスケッチをお見せしなさい、マンプス。そのあいだにお茶をいれてくるわ」
 マンプスは口数も少なく、新来の客に遠慮しているように見えた。しかし画集を見せてくれ、その人物画が驚くほど上手なのは衝撃だった。そして大聖堂の絵を見せてくれても、その驚きは変わらなかった。
 ぼくがもっと歳上で経験豊富だったとしたら、この母娘について飛躍した結論を出しただろうし、もっと悪いことを想像しただろう。でもこの母親なら何をしても許されると思ったし、悪いことといってもせいぜい借金の未払いくらいだろう。それに、ポケットにわずかな小銭しか持っていない貧乏少年では、たちの悪い女のカモになることもない。
 紅茶を飲みながら、ぼくは自分の身の上を話した。ぼくがその世界では――おそらくいまでもなお――最年少の職業作家だということを信じてもらえたかどうかは、疑問だった。まだ学校に通っていた一年前から小説を売っていたのだが。そしていまは仕事がないことも告白した。
 エリス夫人がぼくを若い嘘つきだと思っていたとしても、好意をよせてくれるのはよくわかった。さもなければ、帰り際に彼女の見せてくれたふしぎな親切さを説明できない。
 彼女は自分のことはあまり話さなかった。未亡人であること、ぼくが父の命にかかわる病気――このせいで貧しい母を支えるため17歳で学校を辞めたのだ――の話をしたときに親戚の医師のことに触れたくらいだった。
「まあ、お気の毒に」彼女はいった。「わたしの伯父に診てもらえばよかった」彼女はハーリー・ストリートの爵位をもった医師の名前をあげた。
 長居はできなかったので、辞去することにした。マンプスと母親は見送ってくれた。ぼくはまず娘にさよならをいった。エリス夫人が玄関扉を開けてくれ、ぼくは戸口で彼女に別れを告げた。
 当然、またいらっしゃいということばを期待していたが、彼女は何もいってくれなかった。その態度は、落ち着いてこそいたが、奇妙なものだった。涙ぐんでいる様子で、まるで古い親友と別れるかのようだ。ぼくは自分がマンプスに一目惚れし、彼女も好意をもってくれたのは、わかった。キスするのは無理としても軽く抱きしめるくらいなら許してくれるかも。しかしすぐに扉はそっと閉まり、ぼくはそれきり締め出されてしまった。
 どうしてだろう? ぼくにはわからなかった。かなり奇妙なできごとだった。しかしぼくは、あの午後のできごとがどれほど異常だったか、まだはっきりと理解していなかったのだ。

 もちろんエリス夫人の住所は憶えていた。その路地は角の商店が目印だった――31番地、不吉な13の裏返しだとすぐに記憶した。翌日も、いや数日間は、あの娘のことが頭を離れず、安っぽい三文小説を書こうとするぼくの努力をくじいていた。もういちど彼女に会わないと気が狂いそうだった。
 会うのはそれほどむずかしくなさそうだった。自転車で一回りすれば、あの路地の角に行きつける。たとえ彼女が学校に行っていたとしても――ぼくの印象ではそうではなさそうだったが――母親の買い物に出会って、あの時のようにお茶に誘われる機会があるだろう。
 午前と午後のときどき、次の2週間も郊外の主要な通りをうろついたが、なかなかよい貸家は見つからなかった。あの路地の入口を行ったりきたりしても、夫人には期待通りには出会えなかった。でも、あの貸家札は剥がされていた。
 2週間目の最後の日、ぼくはすてばちな気持で招かれもしない訪問をする決心をし、お茶の時間に着くようにタイミングを計った。言いわけ? そう、まだ適当な貸家が見つからないので、どこか知りませんかとエリス夫人に尋ねてみるつもりだった。彼女なら、もちろんぼくの本心を見破るだろうが、ぼくは我慢できなかった。やめたほうがいいとわかってはいたが、寂しさで頭が混乱し、あえて出かけていった。
 まず戸口に出てきたのは、家政婦らしかった。あの玄関の間の家具調度が変わっていたのが見てとれる――良いほうにではなく。
「エリス夫人ですか?」その女性は首をふった。「存じません。このあたりにそういう名前の方はおりません。もう2年近く住んでいますが」
 ぼくは詫びを言って扉を閉めた。番地をまちがえたのだろう。しかし確かにこの路地だった。目印の角の商店があり、店の人も同じだ。ぼくは店に行ってタバコを買った。売ってくれたのは前と同じ人だった。彼はぼくを奇異な眼で見た。
「エリス夫人? 昔は31番地に住んでいたけど、2年ぐらい前に引っ越したよ」
 そのときたぶん、ぼくの表情を誤解したのだろう。こうつけくわえた。「彼女がどうなったのか、みんなが知りたがってるようだね」
 それはあからさまな当てつけだった。夜逃げをしたのか借金で首が回らなくなったのか。しかし2週間前、ぼくはあの家で彼女とお茶を飲んだのだ。どこかにおかしなまちがいがある。
 しかし店の男は彼女とマンプスの話をし、そのおかしな愛称を話題にした。さらにハーリー・ストリートの医師についても知っていた。
「ああ、有力な姻戚に恵まれたレディだったね。どこに行ったのかねえ。もうずいぶん前になったね。あんた、上の人にでも探すようにいわれたのかい?」

 ぼくは激しいショックを受けた。負債取り立て人の手先として雇われたのだと思われて、憤慨した。ぼくにわかっていることといえば、2年前に失踪した母娘とあの家でお茶を飲んだのが2週間前だったということだけだ――そこに、同時に他人が住んでいた! おまけにぼくは、幽霊か、夢かも知れない娘に強く惹かれていたのだ。
 彼女は存在しないのだ! しかし一方で、彼女と母親はどうなったんだ? 聞いたこともないが実在した母娘の夢を見た可能性はない。
 彼女たちと知り合いになるまで、ぼくは二人のことを聞いたことも会ったこともなかったのだ。もちろんハーリー・ストリートの医師に手紙を書くことはできる。しかしそんな手紙を書くのは、今でもたぶん無理だ。嘘つきといわれることを心配するか、筋違いのトラブルの海に身を投じるのを恐れる18歳の悩める少年には、いっそう埒外のことだった。
 ぼくにはこの謎が、ついに解けなかった。そしていまも――なにか途方もない偶然でもなければ――けっして解決しないだろう。〔了〕

「31番地の母娘」の主人公の「ぼく」は、父を失い、学業をリタイアして小説家を目指しています。これはたぶん作者であるバレイジの人生経験を活かした設定でしょう。あるいは、これは彼自身が実際に体験した事件なのかもしれませんね。

ありふれた幽霊

『ありふれた幽霊』

A・M・バレイジ

仁賀克雄・編訳

フロントデザイン・石川絢士(the GARDEN)

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