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信長家臣団の城郭 part1✨

こんにちは!hm384352です。
今回は信長の家臣団の城郭についてお話していこうと思います。

まず信長の家臣で思いつく人物は誰でしょうか?

家臣として有名なのは本能寺の変の首謀者とされる明智光秀、信長にずっとついていた柴田勝家、草履エピソードで有名で信長亡き後に天下を握った羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)等の名前が出てくるでしょう。

しかし森可成の名前が出てくる人は少ないのではないのでしょうか。森可成は信長が家臣の中で最も信頼していた家臣の1人でした。
この森可成こそ今回お話する宇佐山城の城主です。

ちなみに森可成の息子、森蘭丸は信長の小姓として大変有名で、若干18歳にして本能寺で人生の最期を迎えています。
そんな息子の話は後として、、、
森可成が入城した城、宇佐山城について見ていくことにします。

宇佐山城は森可成が城主として入城したとされる元亀元年(1570年)に完成しました。現在の滋賀県大津市南滋賀町に城跡が残っていて、当時は湖西ルートから京に入る為には、避けて通ることが出来なかった交通の要衝でした。

現在、宇佐山城の主郭部であったところにはテレビ中継塔が建てられていますが、このテレビ中継塔が建つ以前の昭和に2回ほど発掘調査が行われています。

1回目がその主郭部の調査です。主郭部には礎石建物があった可能性が高いことが判明していますし、遺物も少量ながらその礎石建物に使用したであろう瓦が2片出土しています。

一方2回目の調査では、城に登る為の石段や石組溝、方形の基壇等が確認されました。
また宇佐山城の主要部は主に主郭を中心として南側と北側の曲輪、東斜面2箇所の出曲輪という区画で構成させていることが分かり、主郭南側では枡形虎口が確認出来たため、どうやら宇佐山城は南側の曲輪から主郭部へと入っていく構造だったことが分かりました。

なお、宇佐山城は完成した年に城主であった森可成が浅井・朝倉連合軍及び延暦寺僧侶らに敗れ討ち死してしまいます。
そして翌年の元亀2年(1571年)、同じ家臣の明智光秀が坂本城(現滋賀県大津市)を築城したと同時に廃城となったと言われています。

城としては凄く短命に終わりましたが、信長が信頼する家臣を城主として任せたのですから、どうしても押さえておきたかった城であったことは確かなようです。

最後に宇佐山城の前には近江神宮、宇佐山中腹には宇佐八幡宮などもあり、この2つをお参りする目的で宇佐山城を訪れる方が多く、山には中継塔が建つのみで城があった在りし日の姿を残しています。本丸下で野面積みの石垣も見ることが出来る貴重な城郭ですので機会があれば訪れて見てください!


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