シン・エヴァンゲリオン鑑賞(ネタバレ注意)
今朝は出勤時間を少し遅らせて、朝イチ、7時過ぎのシン・エヴァンゲリオンを見に行ってきました。
エヴァンゲリオンというアニメは、実は初見の年齢でけっこう印象が違ってくる作品です。
自分の場合は、水曜日の夕方だった初回放送の時が大学生。ガイナックスの新作ということで興味を持って見て、そのまま見続けました。なのであの第25話と第26話の脱力感をリアタイで経験した世代です。録画したビデオテープはいまでも残ってます。見られませんが(笑)。
評価としては、「面白いので見るけれど好きか嫌いかというと好きじゃない」という作品でした。その理由は旧劇場版の最後の台詞、「気持ち悪い」に集約されます。
あの劇場版、ストーリーも暗いし、大人のイヤらしいところがけっこう遠慮なく描写されるし、グロテスクな描写も多いし、その上で最後が「気持ち悪い」ですからね。
このあたりの感覚、初見の年齢がもっと低い人だと共有できないことが多い気がしています。同世代だとワタシのような感覚の人は少なからずいるのですが、中学生や高校生で最初に見た人は、もっと素直に「面白い」と感じている人が多いように思えます。
オリジナルの製作から時を経て製作された新劇場版は、「好きではない」といっていながら見に行っていて、完結となる「シン・エヴァンゲリオン」は封切り日の今日、朝イチの時間で見に行って来ました。ネタバレの危険を回避するには自分で見るのが一番いい、ということですね。
サブタイトルをなにかつけようと思いましたが、どんなサブタイトルでもネタバレになると思うのでやめました。一つネタバレ未満のことを書いておくと、リアタイ世代で子持ちの男性は見るべき、ということです。
以下ネタバレ含むので閲覧注意です。
以下ネタバレ含むので閲覧注意です。
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以下ネタバレ含むので閲覧注意です。
以下ネタバレ含むので閲覧注意です。
父と息子
一言でいうと、とても良かったです。これもまた、初見の年齢とかいまの年齢とかで大きく感じ方が違うだろうな、とも思いました。私は、初見のときにもう思春期を過ぎていて、いままさに思春期の14歳の息子がいます。そういう自分にとって、この作品の響きかた、刺さりかたは凄かったです。
物語の終盤でゲンドウとシンジがエヴァにのって対決し、「力で勝負するんじゃない。話をするんだ」といって会話が始まります。「お父さんとちゃんと話がしたいんだ」と。
そして、ゲンドウが自分の話を始めます。これまでの作品で、ゲンドウは父親でありながら父親として描かれていません。ところがこの作品では、父親になりきれなかった理由はどこにあるのか、ということが告白されていきます。
周りと接したくなくてイヤホンから聴こえる音楽へと逃避したこと(シンジではありません。ゲンドウです)。あるいは読書への逃避。その逃避を終わらせたユイとの出会い。
つまりユイは、ゲンドウと世界とを繋ぐ存在だったのです。その事が、ゲンドウをユイに執着させ、人類補完計画へと向かわせます。
こういう逃避や出会いは、アニメでもスポーツでもオタク化する傾向のある人にはどこかで経験があるのではないでしょうか。私にはあります。
そして我が子、シンジの中にユイを見いだすゲンドウ。
このあたりで私は、涙が止まらなくなりました。周りの客で泣いていた客は皆無だと思いますが。
けれど、ここで描かれている父親と息子の関係を見て、自分の過去を思い起こし、現在と近い未来を想像すると、涙が溢れてきたのです。鬼滅より泣きました。
母と息子
シンジは最後にユイと出会います。「ずっと待っててくれたんだ」と。
そしてユイは母としてシンジを見送ります。
この作品、スズハラとケンスケが生き残っていた、という驚きもありますが、洞木ヒカリも生き残っていて、スズハラと結婚して母になっています。綾波レイ(のそっくりさん)に対しても、あたかも母のように振る舞います。
また、ミサトと加地の息子も出てきます。そしてミサトは、「親の資格はない」といいながら、大人として「我が子にできるたった一つのこと」をし遂げます。
旧劇場版では、シンジに対して「大人のキス」をして「帰ってきたら、続きをしましょう」と言い残してから、「加地くん、これで良かったよね」と、14歳の子供を手玉に取ったことを白状します。劇中でも、「大人になりきれていない」ことが繰り返し描写され、自分でもそれを認めています。
シン・エヴァンゲリオンでは、そういうミサトとは全く違う、息子をもった「母」としてのミサトが描かれているのです。
父と母と息子の物語としてのシン・エヴァンゲリオン
そう、シン・エヴァンゲリオンは父と息子と母の物語なのです。日本の多くのロボットアニメがそうであるように、そのなかで息子が大人になっていく物語なのです。
旧版は、母親が消え、父親が責任を放棄し、息子は大人になることを拒絶する物語でした。この、普通のストーリーの常道と外れたところが人気の一つの源だったのだと思いますが(私が好きではない理由ですが)、シン・エヴァンゲリオンでは息子が親を乗り越えて大人になっていくのです。
父親と別れ、母親とも別れたあと、旧劇場版の「気持ち悪い」という言葉が出てきたのと全く同じ浜辺でアスカとシンジが語る場面があります。
今度の台詞は「好きって言ってくれて嬉しかった」。
この言葉、決戦前のアスカの言葉を受けたものですが、そのときにアスカがシンジに言ったのは、「あの頃私、あなたのことが好きだった。けど、私が先に大人になっちゃった」。
とても素敵なやり取りだな、って思いました。けれど、この会話はコドモには出来ません。シンジが、そしてアスカも大人になったことが、このやり取りでよく分かります。
「後味」の素晴らしさ
物語が一区切りついてからおもむろに流れてくるのはユーミンのVoyager。「さよならジュピター」のエンディングですね。そこから宇多田ヒカルへ。そしてスタッフロールが終わる。
そのときの読後感というか見終わったあとの後味は本当に素晴らしかったです。
私は、実はオリジナルの第25話、第26話の終わりかたがけっこう好きな変わり者です。旧劇場版の「気持ち悪い」に比べて、「ありがとう」で終わる後味がいいからです。
シン・エヴァンゲリオンは、その意味では、未完だった第25、第26話をきちんと終わらせたということができるのかもしれません。
ただこれは受け手によって印象が大きく変わる作品でしょうね。ただ私には響きました。たぶんまた見に行くと思います。