かたちを探し求めて

さて、4月も3分の2が終わりました。みなさま、いかがお過ごしでしょうか? 春には春の試練がある。どうもこの時期の白い光は苦手で、独特の疲れを感じてしまう今日この頃です。生徒たちも、何となく、疲れ気味にみえますね。大学生なんかは、こじらせると、5月病に陥るんでしょうが。

少し時間が出来ましたので、この間に考えていたことを書き留めておきたいと思います。「かたち」ということを考えていました。壮大な問題です(苦笑)。

大江健三郎さんが亡くなった際に書いた詩(「われらの時代」)に、ふと「われらの時代/かたちなく」という文言を書き付けたんですね。このときに考えていたのは人間社会のことで、情報技術やコミュニケーション手段なども発達し、広い意味で多様性が可能になった現代ですが、どうも「かたち」というか、「型」みたいなものがなくなってしまったな、とふと感じたわけです。で、天に召される大江さんに、最期、愚痴ってみたのでした。大江さんの最後の作品は『晩年様式集 レイト・イン・スタイル』です。確かに、この「様式」(style)ということも念頭にあったのですが、まあそれはさておき、こうして「かたちを探し求めて」探求をスタートさせたことになります。

まず、「かたち」というときに、わたしが念頭に置いているのはform(英)ないしはforme(仏)という西欧語です。和製英語でも、スポーツなんかで「フォーム」と言いますね。派生語を意識すれば、「フォーマット」とかとも繋がってくるわけで、人間界にあるあらゆる「かたち」をあらわすのに使われる基本語なわけです。

これはギリシア語のmorpheなどからきているんですね。で、この語の記憶を残す現代語に、morphologyというものがあります。生物学などでは「形態学」、言語学では「形態論」と訳すのですが、いずれにせよ、「かたち」や「形式」、「構造」を問う学問なんですね。「かたち」は人間界のみならず、当然、自然界の主題でもあるわけです。

「形態学」っていうのは面白くって、例えば詩人のゲーテに由来する学問でもあるんです。そんなこともあり、まず、『自然と象徴』というアンソロジーを読んでみました。


科学論文のみならず、格言なんかも入っており、なかなか面白かったです。思想的にはカントの美学なんかの影響を受けてもいるようなのですが、やはりゲーテは詩人ですからね。哲学者にはみえない世界を垣間見ている気もいたします。「アナロジー」(類比)の問題など、示唆に富んでいます。

わたし自身は、もともと、サルトル研究から出発した人間で、フッサールやハイデガーといったドイツの哲学者が発展させた「現象学」というスタイルに馴染みがあり、いまでも(サルトルを批判的に乗り越えた)ジャック・デリダという哲学者には多少興味があるのですが、そのデリダに「テクストの外部はない」という名言があるんですね。すごく俗的に言えば、すべてはテクストだということです。で、これは、「意識」に現れるものを「記述」する学問たる現象学のひとつの帰結とみることもできるーーもっとも、『声と現象』などをみると、デリダはフッサールを批判もしているんですが。

つまり、ある種「閉塞感」のある思考法なんですね、現象学、ないしは(デリダの)「脱構築」は。ある意味では、それに少し疲れたのかもしれません(苦笑)。で、最近はむしろ自然科学の方に関心が向かっているわけです。

もともと、西洋哲学では「自然と技術」という二項対立があるんですね。ギリシア語で言えば、「ピュシスとテクネー」。後者は、いまでも、「テクノロジー」や「テクニック」といった現代語に語源が残っています。「テクネー」は「アルス」とも深く結びついていて、これは現代語だと「アート」、つまり「芸術」のことになります。

わたしの中では、この「テクネー」の問いを最も突き詰めた著作のひとつがジャック・デリダの『グラマトロジーについて』であり、弟子のひとりベルナール・スティグレールはこれを踏まえ、『技術と時間』という技術論を著していたりもします。『グラマトロジー』はいわゆる「記号論」や「言語論」の書物ですが、逆に言えば、「ことば」というのが最も基本的な「技術」ということになるのではないかと思います。ということもあって、わたしのなかで「技術=テクネー」の問いは「ことば」、ないしは「詩」の問題と結びついているわけです。

そういう意味では、「文学部」にいくのも「工学部」にいくのも同じことだと思いますけどね(笑)。まあ、それはいいでしょう。なんにせよ、一方で「技術=テクネー」の問いがあり、「ことば」の探求がある。これに対し、「自然=ピュシス」の問いとして「かたち」の探求が出てくるわけです。もちろん、「ことば」も「かたち」です。でも、「ことば」でない「かたち」もある。「生物の形態」などですね。で、今度は下記の本を手に取りました。

『唯脳論』や『バカの壁』で名高い養老孟司さんの最初の単著とのことです。これもですね、すごくおもしろかったです。「解剖学」の観点から「形態学」に迫るのですが、生物、化学、物理、地学はもちろん、幾何学や芸術論、哲学にも話が及び、一種の「文系・理系論」にもなっている。文理問わず、「灯台へ」目を向ける方には是非読んでおいてもらいたい一冊ですね。

で、ついでに書いておくと、「かたち」というのは表象文化論的には視覚芸術、例えば漫画の問題でもあります。唐突ですが、手塚治虫が好きなんですね、わたし。で、最近もせっせと読み直しています(笑)。今読んでいるのはゲーテの『ファウスト』を踏まえた下記。


そもそも、手塚は元・医学部生で、『ブラック・ジャック』なんかでは「解剖」シーンも沢山描いているんですよね。「かたち」の問いはどこかで「人体」の問題、「内臓」の問題につながっていくんではないかな、と思っているんです(三木成夫さんの『内臓とこころ』なんか読んでみようかな、と。あるいは、最終的にはダ・ヴィンチでしょうか…)。

「身体のかたち」というのも面白いですよね。「身体というかたち」もあれば、所作や姿勢、身振りといった「身体が生み出すかたち」もある。生徒たちから部活や課外活動の話を聞くのも面白いですねーー野球もテニスもバレーも陸上も水泳も体操もダンスも、身体の「フォーム」、「形/型」(かた)の「技術」ですからね…。

わたし自身も「定型」や「音型」、「5文型」など、日々「型」にとらわれて過ごす毎日であります。

Have a nice "formation" !

栗脇

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