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【福岡歴史白書】加藤司書という男

こんばんは。博多佐之助です。

今回の福岡歴史白書は加藤司書という人物についてです。

筑前勤皇党の領袖だった志士

加藤司書は幕末の福岡で活躍した志士。当時の福岡の尊王攘夷派のグループである筑前勤皇党の領袖(リーダー)であった。

かつて、ロシアのプチャーチン率いる軍艦四隻が長崎に来航した折、中老であった加藤は水だけ与えてロシア軍を帰したという。当時の福岡藩は長崎の警備を任せれていたこともあり、加藤も外国と接する機会が多かったのだろう。

だからこそ、外国の脅威も人一倍感じ取っていたのかもしれない。


薩長の和解=内戦の回避を目的に動く

幕府が長州征討に動く中、加藤司書をはじめとする筑前勤皇党の面々は、外国の脅威に晒されている時に日本人同士が争うことの不毛さを説き、長州征討軍の解散に奔走した。

「今、国内で争うべきではない。兵を動かせば多くの人命と国弊を費やすことになる」という加藤の意見に、かの西郷隆盛も強く同意した。

加藤が西郷が幹部を務める長州征討軍への解散を進める中、同志である月形洗蔵、早川勇らは高杉晋作の説得にあたっていた。

この筑前勤皇党の一連の動きこそが、後に薩長同盟と呼ばれる歴史上に残る出来事に繋がっていったと言っても過言ではないだろう。

家老に昇進。しかし…

勤皇の象徴であった五卿の福岡への移転にあたり福岡藩は尊王攘夷派の中でも存在感を増していった。しかし、当時の福岡藩の風潮は過激な尊王攘夷思想は敬遠しており、保守的な佐幕派が多かったこともあり五卿の移転は歓迎されるものではなかった。

加藤司書は先の活躍から家老に昇進するが、実は藩主父子からは反対されいた。あまりにアウェイな中での昇進。佐幕派は加藤を疎んじていた。

加藤の家老昇進から始まる藩内での骨肉の権力争い。過激派と言われた加藤は実際に危険な思想を持っていたかもしれない。そんなイメージと加藤のほんの少しの間が悪いだけで流布された噂が佐幕派に攻撃材料を与えてしまった。結局、藩主・黒田長溥の心変わりにより、福岡の尊王攘夷派は一掃された。加藤も切腹となった。これが乙丑の獄と呼ばれる。この内紛により、福岡藩は数年後に訪れる明治維新に於いて、活躍の場を失ったのだ。

日本の内戦を回避するために奮闘した加藤司書や月形洗蔵たちが自分たちのふるさとの内紛によって死を迎えるとは何とも非業な運命だろう。

加藤司書並びに筑前勤皇党の追悼会

福岡県福岡市博多区にある節信院というお寺では毎年10月25日に、「加藤司書並びに筑前勤皇党諸烈士追悼会」が催されているらしい。

今年の10月までに気軽に帰省できるようになっていたら、是非とも参加したいものである。


【参考文献】

『維新の魁 筑前勤王党』 示車右甫著、海鳥社刊、2020年

『維新秘話・福岡 志士たちが駆けた道』 浦辺登著、花乱社、2020年

『アクロス福岡文化誌9 福岡県の幕末維新』 アクロス福岡文化誌編纂委員会、2015年


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