同窓会で
五十になった年、中学校の同窓会がありました。
私も幹事を頼まれました。
幹事の初顔合わせは、同級生の居酒屋で行われました。
発起人の女性陣は暇なのか、「ここは火曜が定休日だから、これからもここを借りて火曜の夜にやろう。」と言います。
私は「悪いけど出られない。何でもやるから適当に進めてくれ。」と言って、後は欠席させてもらいました。
それからしばらくして、当日の段取りの連絡が来ました。
「開会の言葉」「恩師の挨拶」「乾杯」と来て、次が幹事代表のスピーチになるのですが、それを私にやれと言うのです。
内心、「いくら打ち合わせに出なかったからといって、そんな大役を。欠席裁判もいいところだ。」と不服でしたが、何も手伝えないので、仕方なく了承しました。
ありきたりの事を喋ってお茶を濁そうかとも思いました。が、せっかく話すのだから何か印象に残る話を、などと考えてしまう変な所が、私にはあります。
「何を話すか考えなくては。」と思いながら、どんどん時間が過ぎていきました。
次第にスピーチのことが重くのしかかってくるようになりました。
同窓会の三日前くらいに、やっと話すことが決まりました。
私たちが中学に入学した頃は、高度経済成長期で、世の中が大きく変わっていきました。
中学校の周りも、山がどんどん切り崩され造成地ができ、合同庁舎が造られたりしていました。私たちの中学校も古い木造校舎から鉄筋コンクリートの校舎に建て替えられようとしていました。
私たちの入学直後から工事が始まったので、私たちは3年間で1回も体育祭ができなかったのです。
卒業してから約30年後、私の娘が中学生になり、私も体育祭を見に行きました。
私たちが3年生の時に完成した校舎は古ぼけて汚くなっていました。
体育祭のプログラムの中にフォークダンスがありました。
あどけなさの残る男の子と女の子が恥ずかしそうに手を繋ぐ様子は、何とも初々しく、可愛らしいものでした。
「自分も、一度はこういう事をしてみたかったなあ。」と思いました。
そんな話でもしてみようと思ったのです。
さて、同窓会の当日になりました。
正月三が日の二日だったか、三日だったか、よく覚えていませんが、しばらく前から心のどこかに、いつもスピーチのことが引っかかっていて、正月気分に浸りきれませんでした。
早めに会場に入り、準備を手伝いました。
出席者は、80人くらいだったと思います。400人くらいの生徒数だったので、5分の1くらいの出席でした。
くじ引きで決まった席に皆が着席しました。私の席は、なぜか恩師の隣と決められていました。
いよいよ開会です。
開会の言葉は、「番長」です。
ステージに立つと、いきなり「起立!」と号令をかけました。
あっけに取られながらも立ち上がると、「ただ今から、◯◯中学校、昭和◯◯年度卒業生、同窓会を始めます。礼、着席。」と大きな声を張り上げました。
いかにも「番長」らしいので大笑いです。
出席してくれた恩師二人の挨拶が終わり、乾杯も済んで、いよいよ私の番。
ところが、乾杯するとすぐに大盛り上がりで、私がステージに立って話し始めても、聞いている人は、ほとんどいません。
前の方の席の人は、さすがに聞かないと悪いと思ったのか、顔をこちらに向けてはいます。
こんな状態での長話は無意味で迷惑と思い、用意していた事を端折って、その場で思いついた事を少しだけ話しました。
「何年か前、娘の体育祭で久しぶりに中学校に行きました。
子どもたちがフォークダンスをしているのを見て、私たちは一度も体育祭ができず、フォークダンスもできなかったので、自分も一回くらいやってみたかったと思いました。
でも、35年ぶりにお会いして、やらなくてよかったと思いました。」と。
髪が薄くなったおっさんや、腹の出たおばさんが楽しそうに、夢中で喋っていました。
ほとんどの人は、私の話など聞いていませんでしたが、一部の人にはウケたみたいです。
幹事代表のスピーチにはふさわしくなかったですが、取りあえず責任を果たし、ほっとしました。
肩の荷が下り、気が楽になったせいか、少し飲み過ぎ、その後のことはよく覚えていません。
一年生の時、同じクラスになり、可愛かったので、ちょっかいを出して からかったりしていた子(オバさん)と、当時の話をして楽しかったことは覚えています。
《画像はネットからの借用です。》
#エッセイ #同窓会 #中学校
#スピーチ
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