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日和とフィーカ~6杯目~

1ヶ月が経過したものの、気分とnoteの所在地はまだ東京のまま。まだ少しの間、東京という町にお世話になろうかと思います。


人や物や音楽やお店、これらと僕たちとの出会い方というのはありきたりなきっかけによるものもあれば、はたまた想像出来ないほどのシチュエーションに潜んでいることも少なくはない。
好きな芸能人がCMをしているアイテムなんか最速で手にしたくなるものだと思うし、友人に勧められたアーティストをYouTubeで何気なく再生してみたらむしろ自分の方がハマってしまうことだってあるだろう。また最近ではネットから、と言うよりもSNSから情報を得るのが主流となっており、特に流行りはSNSが最速で作り出していると言っても良いくらいだ。かくいう日和もInstagramやX(Twitter)などからの様々な発信を受け取っている。
もう何年前のことになるだろうか、当時のTwitterで一際目を引くアカウントを発見した。まんまとフォローした僕は、時折タイムラインに現れるそれを見ては口元を綻ばせ、そのアカウントの中身にも興味を持つようになった。

そんな出会いをしたお店の話。

眞踏珈琲店 (御茶ノ水から歩く)

今、何年かぶりの東京にいる。足の向かう先は、僕としては定番の楽器店ひしめく御茶ノ水である。東京への認識が古く、他に大型の店舗が立地していたとしても全く分からないので、記憶のままに動く他ないと言うのが実の所だ。
目につく店舗全てでギターを眺め、何も購入することなく退店した。断っておくが決して冷やかしをしていたわけではない。財布を忘れたのである。広島に。僕は今泣いている。
気になるギターを一つ、また一つと見送る度に涙をぬぐながら御茶ノ水を抜け、友人と共に神保町までの道を下っていく。徒歩で10分あまりの距離なのだが、大きな通りを1つ越えた後は街の雰囲気がガラッと変わるのが面白い。歩く人の系統はもちろん、街の纏う空気が目に見えるように変化をする様子さえ感じることが出来る。そんな瞬間を発見できるということが徒歩で移動をする際の醍醐味の1つと言っても良いだろう。

そしてとある街角を曲がると本日の目的地がすぐ目に入ってくる。

眞踏珈琲店前 豪雨の後


レンガ造りの外観と隠れ家感のある玄関

この佇まいだけで圧倒されてしまいそうだ。扉の向こう側にお洒落で落ち着いた大人の空間を想像してしまう。初めての来訪時から何度でも味わえるこの感覚があらゆる期待値を高めていく。特に初回においては、Twitterの活字から得られる情報だけにそそられてここを訪れたので、視覚的な情報はまるで持ち合わせていなかったのため尚更感動を覚えた。
ちなみに当時の僕が目にしていたツイートはと言えばこんな次第である。

毎日こんな破壊力のあるジャブを浴びせられながらお店のイメージをしていた僕からしたら、実際の眞踏珈琲店を見た時のギャップと衝撃はそんじょそこらのストレートには収まらなかった。その一撃でK.O.である。

1階はカウンター席が並んでいるが、未だに座ったことがない。(初回はチキった、あとは埋まってたり)というわけで1階を横目にいつもの2階に行く。
階段を上る前から壁一面はあらゆるジャンルの書籍で埋め尽くされている。階段を上る最中にも代わる代わるタイトルが目に飛び込んできて、目が回りそうなほどの物量感がある。
2階に上がると、さらにほとんどの壁一面が本棚となっており、どこの席にいても手を伸ばせば本に手が届くようになっている。自分の持っているタイトルを見つけてなんとなく嬉しくなったり、読もうか迷っていた物を見つけて手に取る事もできる。(自由に読んでよいらしい)
僕も人並みに読書はするのでワクワクする。友人と来た際にはそれぞれの読んだ本を薦め合う事もできるし、今回はパンチ力のあるタイトルをひたすら探してみたりしていた。国語的な意味や表現、語感もそうだが視覚的な字面も審査のポイントとなる。いい歳した大人が何をやっているんだと思われるかもしれないが、知らない本を手にとってみる時はいつもこうやっていて、それがなかなか面白かったりもするんです。その代わり強いタイトルしか手にとれないという弊害がある。それが悲しい。

こんな現世と隔離されたかの店が自然とマッチするのが神保町という町。昔は全然知らなかったが「本の街」であるらしい。知らないながらにも古書店が並んでるなぁと気付いたくらいには数々の本屋が通りに並んでいて、時間の流れ方が他とは違って感じられる。
店内もそのようで、さらに外とは違う時間が流れている。2階の1席に座ると手に取った本をゆっくりと読み進める方もいる。東京に住んでいればある程度まで進んだらまた次回に、と持ち越すことも出来る。これはズルい。ズルすぎる。あの本が待っているからと再び店を訪れるなんでそんなかっこいいことが出来るとは、なんというズルさだ。
そんな気持ちを横に置いておいて、忙しなく動き続けている都市の中でも、このゆっくりと流れる自分の時間を珈琲と共に過ごすことができるという素晴らしさは言葉にするのが無粋なほどである。この店に入ることは、とある本の1ページに足を踏み入れるかのような感じに近い感覚がある。今いい感じの台詞を言えた気がする。

果てしない充足感を土産に店から出るとまた外界の生暖かさに包まれる。その感覚を抱えたまま神保町の散策をする。次の時間までは何も詰まっていないので、友人と共に書店から書店へとハシゴしながら歩き続けた。

SNSより繋がったこの店への縁は、ひと目で喰らいつかれるかのような圧倒的なパンチ力であり情報発信力によるものである。毎日毎日と叫び続けることが無ければ引っかかることも無かっただろうし、そもそもSNSで見かけることが無ければ存在を知ることすら出来なかっただろう。

当たり前のように受け取っているその情報は、実の所大きな海の中に漂っている物の中のたった一欠片程のものだ。
僕もこうやって新しく、「日和しんや」や「眞踏珈琲店」のような情報の欠片を撒いていく。その欠片を受け取った人が今度は僕や眞踏珈琲店にたどり着くこともあればとても嬉しくてとても素敵だな。


〆。

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