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ただいま、おかえり

すっかり春めいた日々となって、学生や社会人、どこもかしこも慌ただしい様子が垣間見られる。大学への進学や就職なんかで住み慣れた街を離れ、自身にとって未開の地に身を移す人なんかも多いことだろう。そういう僕も何ヶ所か街を渡り歩いてきた。その都度その都度、その土地なりの生活というものを作り上げて来れたと思う。
基本どんなところでも1人で楽しめてしまうような僕なので、どこにいても困ったことは特にはない。ただ、引越したばかりとなると、少しの間は何も知らない土地に1人取り残されてしまうような感覚を持ちながら、空っぽの部屋でダンボールを机にコンビニ飯をつつくことになる。そんな何とも言えない寂しさは何度経験しても慣れないものだ。しかし、そんな寂しさがこれからの日々へのちょっとした期待という良いスパイスとなっているのも実感としてある。そのスパイスが辛ければ辛いほど、眼前に広がるものは刺激的な未来となる(そうなるように動けると言う方が正しいかもしれない)。

音楽活動なんてものをしていると、その土地から離れても再び足を運ぶ機会を多くあったりする。それは友人であったりファンの方々に出会う機会でもある。
するとその場で自然と言ってしまう言葉がある。

「ただいま!」

お決まりの文句かもしれない、しかし言いたくなるのだ。というか込み上げてくるのだ。あぁ、自分のホームに帰ってきたんだなと情緒が抑えられない、止まらないのである。
初対面の人からしたら、何言ってんだこいつ、と思われてもしょうがない。あまんじてその言葉を受け入れよう。至極当然のことである。その人にとってのホームには僕が存在していなかったのだから。
その人のマンションに僕がただいまーって侵入するのはおかしい事だ。それと同義のことをその人に押し付けていると言っても言い過ぎではないだろう。
しかし有難いことに、「おかえり」と部屋に迎え入れてくれる人がいるのも事実である。やはりそこは僕にとってのホームなのだと感じることができる。帰る頻度なんかは関係なく、僕の帰るべき場所の1つだ。

たしかに時間やお金の関係で頻繁に行き来することは難しいかもしれない。しかしわざわざあの街、この街と区別をする必要は無いのではなかろうか。距離はあっても世界は連続している。時間も連続してきた。そう考えると一つ一つの場所で積み上げてきたモノをただの思い出として拝むというのはなんと勿体ないであろうか。

そのうちどこかの土地へ居を構えることになるかもしれない。あるいは相も変わらず定住なんかせずに色々な街を点々としているかもしれない。
どんな生活をするにせよ、閉鎖的にならずに暮らしていきたいものだ。せっかく新幹線1本で大抵の場所に行くことが出来るというのに、無理に過去を過去として扱わなくて良いではないか。

どこに行ったとしても、ただいま。おかえり。で繋がり続けているのだから。


〆。

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