何も出来なかった
少し前のはなし。
大学時代の友人の夫から、急に不在着信があった。
居候されても苦にならないほど仲が良かった友人である彼女は、一緒にいるだけでゲラゲラ笑えて、今でも時間を見つけては会ったりテレビ電話したりするほど大切な人。
彼女の夫とは3人で仲良くする程度で、個人的に連絡がくることは明らかな緊急事態の時だけだった。
そういう時に限って、私のiPhoneは充電が持たず息が絶えていた。
帰宅して充電器に繋ぎ、相棒が息を吹き返すと何やらただ事ではないメッセージが送られてきていて、急いで返事をする。
以前も彼から電話がかかってきたことがあった。
その時は、友人が仕事で落ち込み彼の手に負えなくなってしまい、話を聞いてやって欲しいとのことだった。
でも今回は、何か違う感じがする。
『彼女のことで話したいこと』だなんて言われたら、落ち着かなくなる。
最悪の場合を想像して「まさか、浮気でもしたか?」だなんて考えていた。
それでも相当な緊急事態だ。
程なくして電話が鳴った。
事態は私の想像より、かなり深刻だった。
「急にごめんね、実は彼女が急遽入院することになって…。」
と海のように広い心を持つ優しい彼は、申し訳なさそうに教えてくれた。
予想を超える事態に、思わず問いただしてしまう。
「命に別条はない?」「どんな経緯で?」
事故?過労?怪我?病気?
様々な考えが頭を猛スピードで過ぎる。
すると彼はもっと申し訳なさそうに、そして言わせるべきではなかったと後悔するほど辛そうにぽつりぽつりと話し始めた。
「実は昨日の夜、鎮痛剤を一箱一気に飲んじゃったみたいで…。帰った時にはもうぐったりしてて…。命に別状はないんだけど…。」
あまりの衝撃に、何を言えばいいのかわからなかった。
どこか現実ではないことのように思えた。
睡眠薬や病院から処方されている風邪薬ならまだしも、市販の鎮痛剤を一気に飲むのは凡人の私から見てもあまりにも危険だ。
想像するだけで、吐き気に襲われる。
彼女は、薬に依存があったわけでも、やけ酒でアルコール中毒になる程飲酒したこともなかった。
せいぜい泣きじゃくって手に負えなくなる程度だったのが、可愛いものだと思えた。
どんな思いで、あんな危険なものを飲んでしまったのだろうか。
そこに手が伸びてしまうだなんて、どれだけ辛かったのだろうか。
本当のことは彼女にしかわからないけれど、とてつもなく苦しくなる。
でも一つだけわかったのは、私が今感じた気持ちと彼の気持ちはほぼ同じだろうということだった。
毎日一緒に生活していれば尚更思うことはあるだろう。
それでも、彼に対して
「大変だったね、びっくりしたよね。とにかく早く良くなって欲しいけど…。」
くらいしか言えなかった。
これからのことは、どう転んでもきっと地獄だ。
私は、とにかく彼女の支援はいくらでもする旨と、心配なのは私も同じだからと、彼にも辛くなったら連絡するように伝えた。
彼は進捗を知らせてくれるとのことだったが、どうか無理せず私の手を借りたい時に教えて欲しいと言う事しかできなかった。
あの時気づいていたら
私たちは2日後に会う約束をしていた。
この状況を顧みて、何度も何度も延期を繰り返してようやく会えることになった。
それはそれは楽しみで、「サイゼで食べ放題企画しよう」やら「新大久保で韓国のもの死ぬほど買っていくからパーティしよう」「お決まりのラーメン屋さんはマストだよね?」だなんて1泊2日では回収できないほどの企画を企てていた。
そして数日前には、「何時頃くる?」だなんて連絡をくれてやりとりもしてた。
引っ越しで余裕がなかったため、タイムリーに返信ができずにいたし、彼女もその後返事がなかった。
私たちはお互いに、連絡が速攻で返ってくるほどマメではないので、「忙しいのかな」程度に考え、気には留めなかった。
彼女の入院先では、起きたことがことなので面会は愚か、スマートフォンすら使用できないそうだ。
私が最後に送ったメッセージには、既読がつかないままになっている。
夜、1人になると夕方にかかってきた電話の内容がより一層恐ろしいもののように思えた。
鎮痛剤を1人で飲む友人の姿を想像すると、涙が溢れる。
そして、ぐるぐると考えてしまう。
「私との週末が楽しみだから仕事頑張れるって言ってたのに…」
「なんで薬を飲む前に、連絡してくれなかったの?」
「あの時、何かに少しでも気づけなかったのだろうか。」
自分に何かできなかったのか、と後悔の渦に呑まれる。
きっと私だけでなく、近しい人は皆そうだろう。
「あの時気づいていたら、救えたのかもしれない。」
しても仕方ない後悔を、せずにいられないのは何故なのだろうか。
忘れられない彼の存在
一昨年の初夏、衝撃的なニュースが走った。
仕事中にも関わらず呼吸を忘れ、時間が止まったように何も手につかず同期に連絡をして息を整えたのを覚えている。
彼の訃報に対して、さまざまな言葉があったように思う。
どれをとっても感じたのは、本当にいい人だったということだった。
きっと、友人も多く誰にとっても大切な人だったのだろう。
きっと関わった誰もが、そして近ければ近かった人ほど後悔の念に駆られる。
少し時間が経って、不意に悟ったのは、
きっと、あれは誰にも止められなかったんじゃないだろうか。
ということだった。
誰かを大切にすること、気にかけることはもちろん大切だ。
そして、誰かの優しさに触れると救われるのも事実だ。
私にはどうしても、彼が誰にも大切にされていないようには感じられなかった。
人望が厚く、誰が見ても「いいやつ」と語られる人が。
ただ、テレビ越しに見ていた私でさえ、「素敵だなぁ、いいなぁ」と思い、訃報にこんなにも動揺しているのだ。
本当のことは、彼にしかわからない。
決して、自らを痛めつけることを認めるわけではないし、私は周りの人を全力で大切にしたいし、救えるもんなら救うために全力を注ぐだろう。
それでも、驕り高ぶってはいけないと、そう思った。
「自分が救えるかも」とか、「救うべきだった」とかそういった思いは、自己満足でしかなく、きっとそんなに自分を過信してはいけない。
何事も起こるべくして起こってしまうはずだから。
悲しいけれど、それを心得ておくことは生きていく上で重要かもしれないと感じた。
大切なことほど、人に言えないものだ。
だからこそ、自分を救えるのは自分しかいないとも、真剣に思う。
まずは自分を大切に。
そして、周りの人を大切にしよう、ね。
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