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拝啓この手紙

遠くに住む友人から、手紙が届いた。

金曜の夜の新宿。
喧騒の人混みをほろ酔いでかき分けて、やっとの思いで最寄りに向かう電車に乗り、この季節にしては少し暖かい夜に、駅からの道を歩いて帰った。
何の気なしにポストを覗くと、たくさんのチラシの下に、可愛らしいディズニーの封筒が「それらのチラシとは違いますわよ」と言った顔つきで座っていた。

贈り主は前職の同期だ。
私がボロボロになった時、段ボールいっぱいに美味しい食べ物を詰めて送ってくれた人。

嬉しくて嬉しくて、本当はハサミで綺麗に開けたいところを待ちきれず、エレベーターの中で、のりで綴じられた封をビリビリ破った。
そこには読み慣れた彼女の文字で、「こちらは特に変わったことはないが、あなたが元気でいてくれることだけを祈っているよ」と書かれていた。
たった一枚の便箋に書かれた文章を何度も読み返したくて、エレベーターを降りた家の前の踊り場で、しばらく佇んでしまった。

正直に言うと、最近の私は調子が悪くて仕方なかった。
なんだかシャキッとしなくて、頑張れなくて、元気が出なくて、仕事が手につかなくて。
体の調子が悪いわけじゃないのに、いつもは平気なことが全然平気じゃない毎日だった。
毎朝なかなか布団から起き上がれず、ただぼーっとする時間が必要だった。

そんな私を見透かすかのように、「あなたのことを思っているよ」と書かれた手紙が届いて、平静に喜ぶことはできず、ぎゅっと手紙を握りしめた。

人が書く文字

私は文通が好きだ。

遠く離れたところに住む友人に、お気に入りのポストカードにメッセージを書いて送るのが好き。
お気に入りのポストカードを大切な誰かに渡すのは、自分の大切な思い出を共有できている気分になるし、何よりもLINEで済ませられるようなことをわざわざお金と労力をかけるのが、無駄なようで尊く感じる。

マンションの踊り場で手紙を握りしめながら、遠くを眺めた。
日付が間も無く変わると言うのにも関わらず、ネオンが眩しい街中で人が忙しなく動くのを眺めていると、ふと、私はなぜ文通が好きなのかを思い出した。
それは、幼い頃から文通する必要があったからだった。

幼少期、四つの幼稚園に通った。
父親の仕事の都合で転勤族だったので、私にとって引っ越しは、よく起こるけど嫌いなイベントだった。
荷物をまとめるのも嫌い。友達に別れを告げるのも嫌い。新しい環境はどんなところなのかを不安になるのも、全部嫌いだった。
あと、新しい家で兄たちと誰がどの部屋を使うのか揉めるのも、荷解きをするのもめちゃくちゃ嫌いだった。

あの頃は携帯電話を子供が持つ時代じゃなかったので、離れた友人との連絡手段は手紙を書くことだけだった。
今でも実家の私の部屋のベットの下には、小学生の頃に受け取った友人からの手紙がぎっしり詰まった箱がある、はず。
読み返すことは昔に比べてなくなったけど、もう会うことがないだろう幼馴染たちとどこか繋がっていたくて、どうしても手放せないでいる。

先ほど友人から届いた手紙の文字を読み返して、改めて、この世に手紙というツールがあってよかったなぁと思った。
その人にしか書けない文字があって、その人にしか綴れない言葉があって、その人にしか伝えられない思いがあって。
それを、実体を持って感じられるのが、この上なく嬉しいと思った。

昔は手紙を書いて送ることすら贅沢だったろうし、でもそれ以外に術はなく、やりとりではない一方通行で思いの丈をぶつけていたわけで。
それって、現代に欠けている部分だと改めて思った。わざわざお金と時間と労力をかけて、誰かに言葉を運ぶ。
返事が来るかもわからないから、相手の反応はお構いなしに、想いを伝える。

私のとって手紙を書くという行為は、自分のためにやることで。
自分の考えを整理し、相手への気持ちを整理できる時間。でも、せっかく書き上げたものは手元には残らない。私の場合、写真を撮って残すこともしない。

文通が好きなのは、皮肉にもそれしかできなかった子供だった頃の自分が今の私に遺してくれた文化なんだと思う。
離れたところにいる大切な友人に想いを伝えたり、相手の近況を知る術がそれ以外になかった私にとっての、救いだったようにも思える。

過去に私を救ったものが、今の私を作り、時を超えてまた、私を癒し救ってくれることに、不思議な気持ちになった。

この前台湾で買ったポストカード、クリスマスが来る前に彼女に送りたいな。
どれにしようかな。

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