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100分de名著 ボーヴォワール「老い」を受けて──私たちのかかえる致命的な断絶


非常に面白い回でした。今まで老化ということも高齢者という存在もとにかく縁遠いものと思っていましたが、それゆえに新しく気付かされることばかり。これらの内容を受けて、また自分の考えを多分に織り交ぜて、いまこの国とSNSが抱えている問題を検討してみましょう。


高齢者は不当に優遇されている、というのは現代日本の若者にとって馴染みやすい考え方であるようだ。特にインターネットではその傾向が強く、今の政治は老人たちのためのもので、自分たち若者は国家の政策に見捨てられている! という言説をよく見かける。感染症への対応を通してその風潮はなおさら強化されたようである。

しかし本当に「高齢者が優遇されている」のかは疑わしいところがある。彼らの貧困率は高く、生活保護を受けなければ生きてゆけないほどに追い込まれている老人も珍しくない。老人ホームに入れば窮屈な集団を強いられるが、自宅に居ようとしても同居家族に嫌厭される。独居を選べば社会からの隔絶・孤立に陥ってしまう。認知症の恐怖は当事者にとってだけではなく、「これからそうなるかもしれない」早期高齢者にとっても大きいものである。孤独死、貧困、孤立、これらの問題に国が本気で対策を講じたことがあっただろうか?

つまるところ、この国はどの世代も平等に困窮しているのだ。若年層が貧困にあえいでいるとき、高齢者もまた同じ問題に直面している。しかしながら私たちは彼らの悲鳴を聞くことはない。インターネットが普及し、誰でも「発信者」になれる現代に育った私たちとは違い、彼らはその長い人生をずっと受信者として過ごしてきた。一般大衆は声をあげる権利も手段も持ちえない、これが前時代においては当然の価値観であった。彼らの多くが仮にインターネットを手にしても「発信者」になろうとしないのは、物理的な使い慣れなさのほかに、何かを世に問う気概や意義を見出せないせいもあるだろう。

ゆえに、高齢者の声は常に表社会に出てくることはない。生活苦、孤独、家族との軋轢、これらがどれほど耐えがたく彼らにのしかかっていたとしても、彼らは声をあげる手段を持たないのだ。そこに更に「理想的な高齢者」の社会規範が加わる。年老いた人間はその内面を成熟させていつも平穏でゆったりと構えているべきで、いい歳をして不満や怒りに支配されているのはみっともない。不幸で恥ずべきことだ。この社会からの圧力は家父長制社会において女性が向けられているものと構造的に同類である。すなわち、「女性はこうあるべきだ」と「老人はこうあるべきだ」。高齢女性は特に、この二重の圧力を常に社会から受け続けている。

若年層は自らの境遇を世に訴え出ることができるが、高齢者にはそれができない。似たような境遇にあっても両者の間に圧倒的な断絶が存在するように思われる原因は、この非対称性にある。若年層はこう思う。「自分たちが苦しいと言っているときに彼らは何も言っていない。彼らは何も困っていないからだ」。そしてその格差の理由を政治システムに求める。「私たちが不当に苦しい境遇に置かれているのは、国が私たちを軽視しているからだ。高齢者だけがその恩恵を受けているからだ」。選挙のたびに「若者が投票に行くべきなのは高齢者だけが権益を受ける社会を変えるためだ」という言説がSNSに出回るのは、むしろ団結すべき国民の分断を煽っている。



「私が虚しさを感じることがあるとすれば、あなたと同じように(若さに価値を)感じている女性がこの国にはたくさんいるということ。今あなたが価値が無いと切り捨てたものは、この先あなたが向かっていく未来でもあるのよ。自分がバカにしていたものに自分がなる。それって辛いんじゃないかな」──ドラマ 逃げるは恥だが役に立つ・最終話


「優遇されている」──と言いながら本心では薄々、高齢者がきわめて不自由な境遇に立たされていることを私たちは理解している。好きな服を着て、美好きなものを食べて、好きなところへ出掛ける。美は若さに帰属するものであり、自由も若いうち限定のことなのだと。そして老いた人を軽蔑し、あるいは邪魔だと唾を吐くとき、その言葉の矛先は他でもない自分の将来にまで貫通して突き刺さる

いま若年層がこれだけ高齢者に嫉妬と憎悪を向けて/面倒なお荷物だと感じているのなら、世代がすり替わっても同じことが起こり続けるだろう、という事実を私たちはもう分かっている。自分が何十年か先に老いたとき若年層から向けられるのは、いま自分がしているのと同じ視線なのだ。ゆえに、このような考えが若年層を支配する。「排泄もできなくなって介護で人様に迷惑をかけるくらいなら、その前に死んでしまいたい」「もし自分が認知症になるのなら安楽死したい」。「いずれきたる未来」と「現在の自分」をこのような理屈で切り離すことによって、私たちは高齢者を決定的に断絶した他者であり続けさせているのだ。


しかし実際のところ安楽死はまだ合法化されていないし、死んだほうがマシとは言っても本当に自殺する勇気までは持てない。若年層が将来に対して抱いているのは、底の見えない深淵を覗きこむときのような恐怖と不安である。「自分がバカにしていたものに自分がなる」。その事実から目を逸らし続けた先にある絶望はどういうモノなのか、本当はそれに勘づいているのに、高齢者を憎み見下すことをやめられない。いまある苦しみの原因を彼らに押し付けることでしか正気を保てないからだ。「高齢者は不当に優遇されていて、そのくせ不幸そうな顔をしていて、私たちは彼らに税金を吸われ続けている犠牲者だ」──そうでなければこの苦しみには説明がつかないからだ。

しかしこの理屈を持ち続けている以上、自らの将来に深く垂れこめる暗雲が晴れることは決してない。老いてゆくことは、ほかでもない自分が「若者の犠牲によって生きながらえる卑怯な搾取者」に──彼らの主観からすれば──成り下がることだからだ。これでどうして未来への展望を、それに裏付けられるこの社会や自分の人生への信頼感を抱くことができるだろうか。

私たちは誰も、自分の未来に安心感を抱けない。自分の未来を自分で憎悪し、価値がないものだと切り捨てた先には、絶望的な不安が大海のように広がっているのみである。高齢者と若年層の断絶はいずれより致命的なものとしてこの社会に楔を打ち込むことになるだろう。それを阻止しようとするには、私にはこの現状はいささか手遅れのように思えてならないのだ。



 


とても頑張って生きているので、誰か愛してくれませんか?