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喪失だって楽しいよ これからがエモの本番


「エモい」という言葉に対する解釈は色々あるんだけど、そこに最も不可欠の要素は寂寥感であると思う。学生が友達同士で暮れ方の海に行って、手持ち花火で遊ぶこと。田舎のさびれた商店街。午後の教室で揺れる白いカーテン。
「エモはその渦中にあることではなく、失われたものへの感傷」という言葉を聞いてなるほどなあと思った。学生ではなくなるということ。人から見たらくだらない、けれど本当に切実な哲学的苦悩を抱え続けて電車に揺られていた部活の後の家路。

若いときはいくらでも時間があって、それは受験勉強みたいなものに必死になっていたわけではなく、熱中して打ち込める目標もなかった私にとっては人並み以上にそうだった。社会に出るとそうはいかなくなる。働く、ということは時間に追われること。いつまでも忘れないでいたいと思っていた生やこの社会に対する葛藤だって抱き続けていることはできなくなって、誰もが次第にその思いを薄れさせてゆく。社会に出てもそれを生々しいものとして思い続けることができるのは、実は、ほんの一握りの稀有な人たちだけなのだ。

忘れる、ということは決して良いことではなくて、私たちの多くは学生の頃に抱いていた疑問や葛藤に対する答えを出せないまま、社会生活の代償としてそれに折り合いをつけることを要求される。どうして生きているのか。どうして世界はこんな風なのか。精神病院にいたとき、私はそうした疑問に対して明確な答えを持ってはいないのに、こんな大きな問題をとりあえずでも抑え込んで生きてゆけている大人が不思議でならなかった。純粋な疑問。答えが知りたいと思うことは、彼らにはもうないのだろうか。それはどうして。「忙しさ」というのは、この葛藤を平気で圧殺してしまえるほど強大なんだろうか、と。恐怖に近い感覚で思っていたのを覚えている。
いずれ自分もそうなるのだと薄々は感じながら。


失われたものへの感傷。「エモい」と呼ばれる風景や状況の多くは、実際、その渦中にいる人から生まれた描写ではなくて、とっくにそこを通り過ぎてしまった大人たちの視点で描かれていたのだと今はわかる。学生時代。「実家」や「故郷」のイデア。生きていくことは、多くのものを失い続けることで、愛したものや苦しかった出来事を通り過ぎてゆくということだけが、私たちが生者である証拠なのだ。失った数だけ出会えるのならいいけれど、現実はいつもそううまくいくわけではないし。一度経験したきりもう二度と出会えないものだって数えきれないほどあって。
青春の当事者たちが現在進行形の経験を「エモい」と表現するのは、それがいずれ喪失されるものであることを予期しているからだと思う。ネットでいくらでも絶望を見られる昨今、大人たちの言葉や表象に触れて、彼/彼女たちは自分のいる環境が一時的な奇跡にすぎないことを知っている。大事にしなきゃけないのは分かるけど、どう大事にすればいいのかは不明瞭で戸惑っている。

これから「学生時代」を致命的に喪失する人にかけられる「おまえはこれからなんだよ」という言葉は、けれど救いのようにも思えるのだった。多くのものを忘れて、通り過ぎてしまった人には、そのときになって初めて手に入るものがある。それは「回顧する」という力。渦中にある当事者だった頃は決して持ちえなかったその権利は、すべて失いきってからようやく与えられる。
失ったものを回顧すること。楽しかった出来事も、愛しかった場所も、もうかすかな痛みなしには思い返すことができないだろう。かつては辛かっただけの記憶も、いつかその痛みが今の自分には心地よくなっていることに気付くだろう。同じ場所からは見られない。変わり続ける。失い続ける。そのたびに人は、自分が愛していたものに気付くのだ。「かつて得ていて、今はもう持っていない」という事実を、苦痛だけではない甘やかな感傷と共に思い出すのだ。

それこそがエモの本質でしょ、とその人は言って、私は場違いにも泣きそうになった。喪失だって楽しいよ。絶対に忘れたくないって思いながら忘れていくことも、人間らしくて最高じゃん。
私も自分のことを中学生だと思いながら生きててもいいのかもしれない。たまには年相応の大人であることを全力でやめてしまいたい時もある。「子供っぽい」は誉め言葉でもあるから、そういう人を見るとすこし羨ましい。あなたがずっとそういう風にあれたら素敵だなって、世界があなたを受け入れてくれるように期待しているから。



https://www.youtube.com/watch?v=rN-zl2gzb64&list=LL&index=1&t=1492s

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