話すだけで満足している。

昔、友達が泣きながら電話をしてきたことがあった。

いつぞや、別の友達が、「不安なことがあるから聞いて欲しくて」と携帯電話を不意に鳴らした。

また、少し前に旧友が、「急なんだけど今日会える?」と通話をつなげた。


思い起こせば、学生時代や社会に出てから、そういう趣旨の電話をこちらから掛けた覚えがない。

人と会って話せば、「最近どう?」と訊かれることもあるので、「最近寒くて起きにくい」だとか、「春に向けて花粉が飛んでいるので気怠い」だとか。ざっくりと自分の体調などを伝える。

けれど、日々の具体的なこと、例えば何曜日の午後は何の用事をしているだとか、どこに行って、何をしていて忙しいだとか、暇だとか、或いは、気持ち的にどうしんどいのかとか、何が不安だとかいう言葉を相手に正確に渡すことは、あまりなかった。

今持っている小さな不安を、聞いて欲しい人に今話して少し和らぐのなら、時間を貰って聞いて貰えばいいのかもしれない。相手の都合がわからない時は、まずは予定を伺って、大事な時間を確保して貰って電話で話す。

困っているときにそうしない私と、そうする友達との違いはなんだろう。単に私は水くさいのだろうか。


そこの所は実際どうなのかと自らに問うていくとき、『話し出しても面白いところは特にないので、実のない話を聞かせるだけになってしまうな』と、淡々と返ってきた。

掴み所がなくてもかまわない。ただ聞いて欲しいからという理由で勿論いい。けれど、私はまだそのどれでもなくて、気持ちが文字にも声にも言葉にもならない。そういう事が多かったのだと思う。

伝える力が足りていないのか、或いは気持ちごと全て吐き出せるほど、器用ではないのかもしれない。友達はどうしてあのとき、私に電話を掛けてきたのだろう。どうして誰かに今持っている不安を話そうと思えたのだろう。

話し出せる準備が私の中になくて、言葉を随分と飲み込んできたようにも思う。
だから、吐き出す練習をするように、まとまらない気持ちを下書きに幾つも書き留めた。支離滅裂な文章を並べ直しては、少しずつまとめて、それでも、うまく文章に成らない。なのにまた書こうとする。そういうのは、どこかに届けることを諦め切れないからなのだろう。


そうやって、終わらない文章を何度も何度も書いていくうちに、少しずつ声に出せるようになっていく。


体の調子がとても落ち込んでいた昔のことを話した。
「基本的にいつも元気ではない」という微妙なニュアンスの言葉をお互いに同じ温度感で受け止める。落ち込んでいるという意味ではない。日々、私たちは動けるけれど、明日の体調が概ね未定だった。先輩はそれでも舵を取り、今日も体をケアしながら、自分で生活を支えて暮らしている。昔から華奢で勇敢な人だった。


或る人には、たまに会う毎に「最近どう?」と訊かれて、小出しに近況を渡し合った。
数年に渡って少しずつ聞いてきた全ての話をつなげて、ようやく起承転結が見える、そういう長い話だった。お互いに他の場所でする機会がない話をするけれど、かといって特別仲が良い訳でもなく、けれどありがたい限りの旧い縁。


そうして。話している時間に満足してしまって、時々黙り込んでしまう、そういう私の話を聞いてくれる人がいる。
私は話を聞いているのが好きだ。あなたのことを知りたいと、ただ思う。私のこの心と体と生き方では出会わなかった世界を、あなたの視点で見せてくれるから、話を聞いているだけで満足して話そびれてしまうところもある。

それでも、少しずつ自分の話を声にしているし、こうして書いている。それは、おしまいまで文章を結べない下手くそな下書きを、何度も何度も書いてきた時間があるからなのだと思う。経験値を積む、というやつだ。


最近、学生の頃からの友人に、

「私、自分の話をするようになったよね」

と訊いたら、

「前よりは話してくれるようになったけど」

と、微妙な顔で返された。

このくらいではまだまだ足りていないのか、とは思ったものの、どうやら微々たる進歩はしているらしいので、それはそれでまぁいいかと思うなどする。

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