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はじまりのキス、終わりのキス(5)

恋の話です。六回に分けて投稿します。一つの記事につき1500〜1800文字です。
読めるところまででも読んで頂けたら嬉しいです。

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 部屋の中は夜が明け方とともに音を吸い取っていったみたいに静かだった。
 しんと冴えた朝の空気が薫る煙のように緩やかに漂って、一夜の終わりを仄めかす。私はそろりと起き出して身支度を整えた。玄関ドアの前に立つと背中越しに彼の気配がした。もう一度抱き寄せてキスをするような甘い兆しは微塵もない。
「僕の連絡先は消してしまって下さい。電話番号もメールも仕事の関係で近々変えます」
「‥教えてくれないんですよね」
「ええ。あなたの連絡先はもう消しました」
 彼は業務をこなすみたいに淡々と幕を引いた。私ばかりが心をかき乱されているのがどうにも悔しくて、幕の裾を苦し紛れに掴んだ。
「これで子供が出来てたらドラマチックだと思いませんか?」
 身震いするほど頭の悪い台詞が口を吐いた。最低最悪の悪足掻きだった。彼は虚を衝かれたように押し黙っていた。内心呆れているのかも知れない。それでもなかった事にされる何万倍もましだった。
「一度だけ報せを送ります。連絡先が分からなくたって今の住所に手紙を出せば転送されます。転送期限が切れるまでの間、私からの手紙がいつ来るかと、吉か凶かと、日々戦々恐々として下さい」
 短慮で稚拙でみっともなくて、駆け引きですらない。この部屋にあるのは最低限必要なものか不要なものばかりだ。データのように容易く消されてしまうのは、歯軋りするほど腹立たしい。

 公孫樹並木が再び色づき始める頃、差出人のない葉書を投函した。裏書きにはアットマークで区切られた英数字の羅列だけ。宛名の主と仮初めに繋がるためにだけ作ったメールアドレスには私だと分かる目印をつけた。──boozer。酒飲みという意味だ。
 数日経ったある晩。真っ暗な部屋の片隅でスマートフォンが震えていた。boozer宛に届いた見知らぬアドレスからのメール。思い当たる相手は只一人。息を詰めてメールを開いた。
『どうなりましたか』
 デリカシーのなさに懐かしさすら覚えた。空々しい挨拶も機嫌伺いもすっ飛ばした無駄のない会話。私は捨鉢に文字を打ち込むと、スマートフォンを床に投げ出して膝に顔を埋めた。
『どうもしませんよ。ほっとしたでしょう?』
 これきりかと思うと涙が零れた。一泡吹かせてやりたくて葉書を送り付けたけれど、今頃、連絡先を消す位の容易さで私を頭の中から消し去ったに違いない。あの日、一日でも長く覚えていて欲しくて食い下がった。重荷に思われたって忘れずにいて欲しかった。だけどもう全部なかった事だ。
 彼からのメールも彼の古い連絡先も、boozerのメールアドレス共々削除した。想いを消すボタンがスマートフォンのどこにも見当たらないのがそこはかとなく悔しい。

 平日は仕事に没頭した。週末は部屋で酒をかっくらった。
 外で飲んでいたら寂しくて誰かれ構わず抱きついて持って帰って欲しくなる。

 床に転がしたスマートフォンの液晶画面が青白く灯った。無視して缶ビールを煽る間にも着信ランプが責付くように点滅している。冷蔵庫から追加のビールを出すついでに着信履歴を確認したら、050から始まる見知らぬ電話番号からだった。
 狙い澄ましたように手の中でスマートフォンが震えた。搾取を働く悪徳業者め、人様の電話を延々鳴らして週末の余暇までむしり取ろうとはけしからん。私は酔いに任せて電話を受けると怪しい呂律で捲し立てた。
「何度もお掛け頂いて恐縮ですが、お話する事はありません。そちらにはそちらの都合があるんでしょうけど、不躾に電話を鳴らされるのもそちらの都合を押し付けられるのも迷惑千万です」
「‥酔ってるんですか?」
「だからなんです」
「誰かと飲んでるんですか」
 詮索するような物言いが胸の裏側を不愉快に逆撫でた。私は背中の毛を立てる代わりに髪を掻き毟った。
「そんなのあなたに関係ありますか?全く。少しは人の迷惑ってものを考えたらどうです。鬱陶しいのでもう掛けて来ないで下さい」
 一息に言って通話を切った。直ぐさまスマートフォンが震えたけれど、クッションをありったけ重ねて下敷きにした。幾許か抵抗していたが、そのうち息の根が止まったみたいに振動が止んだ。音が消えた部屋の中は痛いくらい静かだった。虚しさが胸の中で荒波のように押し寄せて、ぱたぱたと涙が零れた。
 ああ、寂しい。
 一夜限りの夢を忘れる事が出来ない。只想いが深くなるばかりで忌々しい。心が会いたいと暴れるのに任せて酒を飲み、泣くだけ泣いてふて寝した。

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