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繊細さん

noteを始めて一週間が経った。
文章力向上を期待して、毎日投稿しようとチャレンジ中。
これで7個目の記事になる。

拙い文章にお時間をいただき、感謝いたします。
またスキを押してくださっている方、励みになっています。
ありがとうございます。

さて、そのチャレンジしている中で、ふと思い出した出来事がある。
あの時は自分の欠点を痛感して落ち込んだ。でも今振り返り、その短所も意外と役に立つんだなと思い直すことに成功した。
今日はそのことについて書きたい。



私は、とあるボランティア団体に登録している。
そこで講習を受けた際、その時に行われたロールプレイングで印象に残った場面がある。

まず二人一組になり、一人は子ども役、もう一人は親役となる。
子ども役は「今日こんなことがあったんだ」と親に話しかけ、親役は「うんうん」「へー」と片手間に相槌を打ち、絶対に目を合わせない。これを5分間続ける。
交互に役を演じ、お互い意見交換し、どう感じたかを発表する、というものだった。

その時、私は30代半ば、相手は40代前半くらいの女性で、同じ時期にボランティア団体に所属した方だった。

最初に私が子ども役を担当したのだが、すぐに心が折れた。
どれだけ話しかけても相手は目を合わせない。
適当な相槌だけで、まるで話を聞いてもらえていない感覚に陥った。存在を否定されたように感じた。

私はもともと「無視されること」がとても苦手だ。
誰でもそうかもしれないが、私はスルーすることも、スルーされることも得意ではない。
だから、演技だと分かっていても、苦手なあまり心が疲弊した。


そんな中で、ふと自問した。
私自身、同じことを子どもにやっていなかったか…?
夕飯を作っている時、洗濯を畳んでいる時、何かを記入している時…
果たしてしっかりちゃんと目を見て話していただろうか?
そう思って、さらに落ち込んだ。


その後、お互いの意見を交換をする時間がきた。
私は、「目を見て話してもらえないのは辛い」と感じたこと、「自分も子どもに無意識に同じことをしていたかもしれないなと思った」と反省したことを伝えた。
すると、相手の女性はこう言った。

「いろんなことを考えて、大変ですね。」

この一言で、私は自分が「考えすぎるタイプ」だと改めて気づかされた。
もちろん、普段から心配性で、考えすぎてしまう自覚はあった。
何かを決めるときには、最悪の事態を想定してしまうし、妄想で物事を膨らませてしまうこともある。
しかし、この時は全く意識していなかったので、言われた時には驚いた。

講義の目的を踏まえ、回答の手本としては「目を見て話してもらえないことは辛いことだ」だったのだろう。
それを、自分ごとに置き換え、自分もしていたかも、子どもを傷つけていたかも、と思考をぐるぐる巡らせ反省し始めるということは、確かに考え過ぎだ。
普通の人はそこまで考えないのかもしれない。
考えたとしても、この場で他人に伝える話ではないのだろう。

ものの数分の出来事なのに、私の気質を丸出しにしてしまった恥ずかしさと、自分が自覚している以上に「考えすぎ」だと知ってへこんだ。だから私はメンタルが弱いのだな、と。

これが3年前の出来事である。
noteの毎日投稿をしている今、この考えすぎる気質が意外な形で役に立っている。
何か出来事があると、解釈や妄想を膨らませるため、結果、書くネタに困らない。

そして書いているうちに、最初に感じたほど落ち込むようなことでもなかったと思い直す。昨日、自宅の鍵が見つからなかった時も「今日はこれをネタにしよう」と思ったほどだ。

結局、考えすぎたところで、現実の事実は変わらない。考えていることよりも、事実はもっとシンプルなものだ。
良いか悪いかも、ただの主観であり、時に妄想に過ぎない。
歳とともに、少しずつそう思える幅が広がってきた。頭の中の独り言や一人反省会は相変わらずだけれど…

あの講習でペアを組んだ女性は、私のことも、自身の発言も覚えていないだろう。
それくらい「何気ないこと」。
しかし私は3年経った今でもその言葉を覚えているのだから、やはり言葉には気をつけなければ、と改めて思うのだ。

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