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人を疑う手軽さと、無責任の殺人。人の心はいとも簡単に死ぬ。

皆さんは人を疑ったことはありますか?誰しも一度は他人を疑ったことぐらいはあるかと思います。今回お話しするのはその【疑う】という行為の残忍さと、疑われた側の心的負担について書いてみました。私には関係のないことだと遠慮せず是非最後までご覧ください。

疑うとは何なのか

まず初めに疑うとは何なのかについてです。
当たり前の事ではありますが疑うとは

【ある事柄においてそれが正解なのにも関わらず、勝手な憶測と判断で事実と違うのではないか、間違っているのではないかと思うこと】

これが疑うという行為そのものです。
このことを踏まえた上で次に進みます。

疑うことの大切さ

これの理由についてはとても簡単です。まず、生きていく上で疑うという行為は人間の本能といってもよいぐらい大切な事だからです。

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極端な話、周りから伝えられたり教えられたりすることがすべて本当だなんて、他人を疑うことに反対派の私もまったく思いません。

自分の身、ましてや家族の身を守るためにもこの疑うという行為は今の私達に根付いてしまっているのでしょう。

疑うことに反対の理由

いやいやwさっきまで人間の本能だとか、生きていく上でなくてはならないとか言ってたやつが今更反対ってどういうことだ?と思うかもしれませんが落ち着いて聞いてください。

私が他人を疑うことに反対の理由は

大人数で1人を疑っている場合、大人数側の人間は全く頭を働かせずになんとなくで疑っていることが多いのと【疑う側の人間の責任感はゼロに等しい】からです。

では疑うことの何が危険か

それは、ひとつ前の疑うのに反対の理由でも同じことを書いたのですが
【疑う側の人間の責任感はゼロに等しい】からです。

普通に考えて人を疑う時、ましてや大人数で一人の人間を疑う時なんて自分の放つ一言がどれほど、疑われた人間の心をズタボロにしていくかなんて皆さんは考えたことありますか?

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疑われることがあまりない人の方が多いと思いますが、私はこの人柄のせいでクラスメイトから疑いをかけられることが多々あります。その時のストレスといったらとてもじゃないですが口では言い表せられません。

当時中学三年生だった私は、ある時こういった疑いをかけられていました。

教室の机でご飯を食べてその机を汚したまま帰った人がいる。
その犯人が私ではないのかと。

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確かに私は数少ない親友と昼食を食べるためにほかの人の机を借りることはあったのですが、汚したまま放置するなんてしたことは一度もありませんでした。

ましてやその日、午前授業のみだったので学校に昼食を持ってくる必要があったのは運動部の人だけなので私は昼食の時間になる前に親友と下校していました。

靴箱の防犯カメラにも下校するところは間違いなく映っています。

それでも疑われ続け、この机をきれいにしておけよ?と先生から言われた時は泣きそうになりました。

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ここで怒りに身を任せて暴言を吐いては負けてしまう…。こう自分に言い聞かせ、あふれ出そうになっている涙と感情を抑え私はクラスの全員に向けてこう言いました。

もし、俺がほんまに汚して帰ってたとしたらクラス全員に5000円やるわ。
その代わり防犯カメラで確認して俺じゃなかったら一人3000円頂戴な?

クラス中がシーンとし、さっきまで野次を飛ばして私のことを疑っていたクラスメイトも黙り込んでしまいました。

その日以降疑われることは少なくなりました。

これからは

他人を疑う時、後から間違いだったと気づいても疑っていた人間は
「なーんや、あいつじゃなかったんか」で済みますが、疑われた側の心の傷は「なーんや」では済まされません。


皆さんもこれから他人を疑う時は


それにはちゃんとした根拠があるのか??
自分の勝手な憶測で判断していないか??

というように一旦よく考えてみてから他人を疑ってみてください。
以外な盲点に気付けるかもしれません。

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やってもない疑いをかけられた人にとってあなた一人の反対意見は、大人数で疑ってくる側の1票よりも何倍もの価値があります。

人の心は簡単に殺せます。
あなたの口から出ているのは言葉という皮を被った鋭利な刃物です。
扱いには十分に気を付けましょう。

長文失礼しました。

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