浅草に今も残る爪痕
おのぼりさんが必ずといっていいほど訪れるのが浅草である。
地方から修学旅行できたのか、同じ制服を着た中学生の一団や、ツアーガイドさんの持つ小さな旗にいそいそとついていくご年配の方々。
コロナ禍の今では、誰がどうみても観光客のオーラを出している人は以前より少なくなったが、東京で最も有名な観光名所の一つとしての立ち位置に揺らぎはないように思われる。
なぜ、これほどまでに観光客を惹きつけるのか。その理由は人それぞれであろうが、浅草にいかなければ東京を観光したことにはならない、という一種の執着心が観光客たちを突き動かしているのではないだろうか。
東京に旅行に行ったら浅草に寄る。都内周辺に住んでいる人から見たら、なんともベタな旅行プランに思えるかもしれない。
かくいう私も何を隠そうド田舎出身のおのぼりさんである。
初めて東京に旅行したのは8歳の時であった。
東京といえば、浅草。それはテレビ番組などによって子供ながらに刷り込まれていたのかもしれない。「浅草に行きたい!」と駄々をこねて親を説得することに成功し、親もまた二つ返事で承諾したので、家族で初めて浅草を観光することになった。
その日は、あいにくの曇り空だった。だが、テレビの画面越しに見ていた赤い大きな提灯の前に自分が立っているという高揚感は8歳には十分すぎるほどだった。仲見世通りを歩き、やれ揚げまんじゅうを食わせろだの、やれ着物を買ってくれだの、目に入るものを次々におねだりしたのを覚えている。
花やしきのぐるんぐるん回るアトラクションに乗り、昼に食べたラーメンが口から飛び出そうになったこと以外は、とても良い思い出であった。
大学生となり
時は流れ、晴れて東京の大学に進学した。せっかく東京に来たのだから、と東京メトロ24時間券を買い、あちこちをぶらぶら散策するのであるが、おのぼりさんの性(さが)なのか、やはり事あるごとに浅草に来てしまうのだった。
所詮、私の出自は田舎なのであるが、東京にきていくばくかするとちょっとは浅草を知った気になるもので、とあるカップルが浅草寺の境内で二礼二拍手一礼しているのを見て、「ここは寺だというに、このバカップルが」などと知った風な言葉を吐きながら、ご縁がありますように、と神社さながらに五円玉を投げ入れる始末であった。
そのうち、江戸東京博物館などに出かけ、東京大空襲の時に浅草も大きな被害を受けたことなどを知るのだが、空襲で大きな被害を受けてそこから復興して今がある、そんな大まかなことを考えてわかった気になっていた。
私にとって浅草とは、相変わらず有名で風情のある観光名所でしかなかったのである。
浅草を観光地として認識する。そんな日々に区切りがついたのは、いよいよ東京を離れるという3月のことであった。
3月10日。東京大空襲の日。
小学生の頃、図書館に置いてある太平洋戦争下の被害に関する本は片端から読み、もっと知りたい、経験した人の話を聞きたいとずっと思っていた。
大学生になって東京に住むことになり、その思いはさらに強くなった。私が今住んでいる東京が77年前にどうなったのか知っておきたくて仕方がなかった。
東京にいれば、いつか大空襲の話をお聞きする機会がくるのではないかと思っていたが、私の行動力のなさもあって、月日は一年、二年と経ち、いよいよ東京を離れる大学四年生の3月になってしまった。
3月10日の朝、いつも通りTwitterを開くとトレンドに#東京大空襲があった。
毎年のとおり、そのハッシュタグから、何か私が今まで知らなかった体験談がないかツイートを探していくのだが、そこである告知を見つけた。
浅草公会堂で戦争資料展を開いており、しかも、戦跡ガイドをしているのだという。
それを見た瞬間、自分が強く駆り立てられるのを感じた。行かなければならない。これが最後のチャンスだ。これを目にしたのもきっとご縁だ。
急ぎ、銀座線に乗って浅草へ向かった。
浅草公会堂に行くと、3月10日当日ということもあり、高齢の方から、クリップボードを持った地元の小学生たちまで多くの老若男女が資料展を訪れていた。
戦跡ガイドには、誰でも無料で参加できる、ということで、ガイドの時間まで、大空襲の惨禍を伝える絵や写真を見ていた。
戦跡ガイドに参加して
いざ、時間になり、集まったのはガイドのおじいちゃん2人と、参加者のこれまたおじいちゃん4人ほどと、私だった。
さて、行きますかね。と、戦跡ガイドの旗を持ったおじいちゃんの後を、参加者のおじいちゃんたちと一緒に小幅でついていく。
どうやら、浅草寺の方に向かうようだった。
浅草寺の歴史なども説明してもらいながら、見慣れたいつもの浅草を歩く。こんなに観光地然としていて、洗練されている浅草寺のどこに戦争の爪痕があるのだろう。石碑などが立っているのかな。
愚かな私の推測はすぐに裏切られることになった。
「この木を見てください」
ガイドさんの言葉を受け、私は初めて浅草寺に生えている、今まで認識もしていなかった木に目を向けた。
見ると、木は割れていて中が黒焦げになっている。
「この木に焼夷弾が落ちて、木の中が燃えたんです。あの木もそうです」
ガイドさんは、焼夷弾の直撃を受けた木に次々と誘う。昔、駐在所だった場所の近くの大きな木も含め、ざっと4本(本当はそれ以上にある)は見て回ったかもしれない。
「この狭い範囲で焼夷弾の直撃を受けた木が何本もあるということは、いかに多くの焼夷弾が降り注いでいたかがわかると思います」
衝撃だった。浅草がこれほどの空襲を受けたこと、そして、今まで何度も訪れた浅草に今も戦争の爪痕が残されているのを知らなかったことに私は強い衝撃を受けた。
朱色の映える浅草寺は大空襲で全焼し、五重塔もまた焼け落ちた。今、現在建っている五重塔は新しく建てられたもので、場所も当時とは違う。それを示す石板もあったが、写真には収めていない。浅草寺を前方に見て右側に五重塔が建っていたとのことである。
他にも、様々なことを教えていただき、ここには書ききれない話も多い。
戦跡ガイドは約1時間ほどで終わり、私はまだ資料展をすべて見ておらず、また、戦争を体験された方のお話も聞けていないので、ガイドのおじいちゃんに歩幅を合わせて再び公会堂に戻った。
資料展でのことは、ここでは多くを記さないが、当時14歳だった方の体験もお聞きすることができた。普段、私がスカイツリーを撮影しに何度も足を運んでいた十間橋の下で、多くの方が折り重なって亡くなっていた話などは忘れられない。
戦争を今に伝える存在としての浅草
そして、資料展を後にしてから、再び浅草寺に寄った。今度は自分一人でもう一度、戦跡を見てまわりたいと思ったからだ。
春休みということもあり、多くの着物姿の人がお参りをし、おいしそうなものを頬張っている。
実に、観光名所らしい光景だ。
だが、私には、浅草寺を、そして、浅草を、以前と同じようには見ることはできなかった。
仲見世通りや浅草寺の境内には寄らず、真っ黒に焦げた木へまっすぐ向かう。
木は真っ二つに割れてなおも、すっくと立っていた。
浅草寺にこのような爪痕があったことを知らなかった自分を恥じると同時に、浅草に生きていた人々の営みのようなものが伝わってくるようで、締め付けられるような思いだった。
今日知ったことを生涯忘れることはないし、誰かと浅草を訪れることがあれば、必ずこの木に案内しようと決めた。
東京を離れる前に、3月10日にここに来れて知ることができて、本当によかった。
二度とこのような惨禍が起こらぬようにと浅草寺でお祈りをして浅草を後にした。
あれから5ヶ月が経ち、8月も半ばに差し掛かろうとしている。
お盆休みということもあり、浅草に出かけている人も多いことだろう。
雷門の前で写真を撮って、仲見世通りで和風雑貨を買って、そして浅草寺まで来た時に、一度あの木に目を向けてほしい。この真っ黒に焦げた木が何を意味するのか分からなくても、その存在にだけでも気づいてほしい。
浅草に残る戦争の爪痕が世代を超えて、そして、まだ生まれていない人々へも伝わっていく。そうなることを心から強く願っているし、それを担うのは今を生きている私たちに相違ない。
明日、8月15日は終戦の日である。
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