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「間違えました〜」 -意味不明で怖い小説-

宵の刻の新橋はもう賑わっていた。
ビルというビルから仕事終わりのサラリーマンがこぞって出てきている。
皆、一息ついたような晴れ晴れした顔だ。
まだ水曜だというのに、大方飲みに行くのだろう。一様に駅の方へ向かっていくようだった。

その様子をこじゃれたオフィスビルの5階から眺めていると、やはり良い気分はしない。
窓から目を離してフロアを見ると、100人は働けるようなだだっ広い職場に珍しく誰も残っていなかった。

「最近の若いやつらは、やたらプライベート重視だからな。ワークライフバランスだっけ?」
再び、タイピングを打つ音だけがフロアに響く。
40歳手前で悲願の管理職にのぼりつめたものの、勝ち得た名誉と承認欲求を集めても足りないくらい業務は山積みである。
特に年末のこの時期は、在庫調整に大忙しだ。

プルルルルル、プルルルルル

デスク脇の電話が鳴った。この鳴り方は外線だ。
「営業時間は終わったってのに」
しかし、仕事は仕事。すぐに電話を取る。
「はい、◯◯食品です」
すると、電話の向こうから取って作ったような女性の声で、

「間違えました〜」

と聞こえた。
「あ、左様でございますか。では、失礼いたします」
受話器を置いて安心した。話が長引かなくて、よかった。
この時期は売り上げが増える分、めんどくさい客からの電話も増えて困っていたのだ。

再び、仕事を続けていたそのとき、
プルルルルル、プルルルルル
また電話が鳴った。

「はい、◯◯食品です」
「間違えました〜」

さっきの女の声だった。電話はすぐに切れた。
「同じ番号を押しちゃったのかな」

気を取り直して、パソコンに向かうと、またまた電話が鳴った。
「はい、◯◯食品です」
「間違えました〜」
プツッと電話は切れる。

受話器を置いた手がなかなか離れない。
待てよ。これは、さすがにいたずら電話じゃないのか。
番号を間違えることはあれど、これで3回目だぞ。
業務執行妨害? 威力業務妨害?
とにかくそういう類のやつだ。
一体、こいつは誰なんだ。

プルルルルル、プルルルルル

そらきた!
「はい、〇〇食品です」
と言いながら、すかさず発信者通知を書き留める。
「間違えました〜」
と、やはり電話は切れた。

「03-4782-××××。固定電話か」
よっぽど暇なやつなんだな、と、こんなことに労力を割いていることに虚しくなってくる。
「またかかってきたら、もう出ないからな」
明日あたりに部長に相談するか、と腕を組んで椅子にもたれかかったそのとき、

プルルルルル、プルルルルル

またかよ。
3コールくらい無視していたが、ナンバーディスプレイをよく見ると、先ほどとは違い、携帯電話からの発信だった。
慌てて受話器を取る。
「大変お待たせしました! ◯◯食品でございます!」
「間違えました〜」

なに…。
こいつ携帯からもかけてきているのか。

プルルルルル、プルルルルル。
今度は違う市外局番だ。

「はい…。◯◯食品です」
「間違えました〜」
相変わらず、例の明るい声だ。会社の電話番のような空元気な明るい声。
間違いなく同じ声だ。
こいつ、まさか隣の家の電話を借りてまでうちにかけてきているのか。

プルルルルル、プルルルルル
また、違う市外局番だ。
「はい、◯◯食品です」
「間違えました〜」

プルルルルル
「はい」
「間違えました〜」

プルルルルル
「……」
「間違えました〜」

プルルルル
「間違えました〜」
プルルルル
「間違えました〜」
プルルルルル
「間違えました〜」
「間違えました〜」
「間違えました〜」

「あぁ、もう!」
何十回繰り返したんだ。
訳がわからない! 気が狂いそうだ!
こんなに電話を間違えてかけてくるやつがいるか!

朦朧とした頭の中で、ふと、新卒で入社してきた1人の女の子が脳裏に浮かんだ。
手始めに電話番をやらせてみたのだが、どうにも役に立たないやつで何度も取引先に電話をかけ違えては、「間違えました〜」と申し訳なさそうに笑っていた。
あんまり出来が悪いものだからみんなの前で怒鳴り散らして「もう来るな」と言ってやったら、真に受けて本当に退職したんだっけ。
あいつ、それからどうなったんだ。

「……はっ!」
思わず息を呑んだ。しばらく呼吸ができなくなる。
そうだ、あの声だ!
あいつ、俺に復讐を!

そのとき、

プルルルルル! プルルルルル!

フロア中の電話がけたたましく鳴った。
「なんだ、これは。どうなってるんだ!」
そのうちの一つを震える手で取り、おそるおそる耳に当てると、
「間違えました〜!」
フロアのありとあらゆる電話から一斉に明るい声がこだましたとき、
急に目の前が回り出して、私は後ろから倒れ込んだ。

どのくらい時間が経っただろうか。
「課長、課長!」
肩を揺り動かされて目を開けると、若手の男性社員の顔が飛び込んできた。
「なんでフロアで寝てたんですか。もう朝ですよ」
「なんだと!」

起きて立ち上がると、立ちくらみと同時に、冬場の雲ひとつない爽やかな青空が目に入ってきた。すぐさま目元に鋭い痛みを感じ、私は大きなため息を吐きながら椅子に座り込んだ。
「俺はあれから何をしていたんだ……」
休む間もなく、男性社員が目の前に新聞を突きつける。
「君、これは……」
そいつは何者にも染まってないような澄んだ目で、しかし、それでいて静かな憤りを宿した形相で私に対峙してきた。
「飛び込んだらしいですよ、あの子」

昨日夕方、都内の駅のホームで人身事故があったらしい。
犠牲者の名前を見て、私は言葉を失った。
「そうか、そういうことだったのか…」
私は椅子からずり落ちるように、がっくりとひざまずいた。

うろたえた私を上から見下ろし、男性社員はふっと鼻で笑う。
「別に全てが課長のせいだなんて言ってませんよ」
「……そうだよな、そりゃ、そうだよな。別に私は」
免罪符を獲得しようと躍起になる私に、男性職員はその隙を与えなかった。

「知ってました? あの子、課長に怒られたあと、すぐに会社を辞めたと思っていたでしょう。違うんです。あの子は毎朝、会社の前まできていた。頑張って出社しようと朝も昼も会社の前をウロウロしていた。でも、あなたが怖くて来られなかったんです」
「……そんな。私は何も間違ったことは言っていない。あの子のためを思って!」
「課長」
いやに静まり返った声が上から降ってくる。こんなにも次の言葉が聞きたくないと思ったことはなかった。
「でも、やっぱり課長の指導が、あの子が飛び込む一因になったんじゃないですか? あんな辱めるような怒鳴り方して人の人生を狂わせて。あれで正しかったんですかね」
私は拳をギュッと握り、首を垂れた。
「いえ、間違えました…」

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