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『彼岸と此岸』 -意味不明で怖い小説②-

そよ風に吹かれ、草花が触れ合う音。とうとうと静かに流れる水のせせらぎ。
その心地よさにたまらず目を覚まして起き上がると、あたりにはこの世のものとは思えない美しい景色が広がっていた。
「ここは……」
左右に顔を動かすと地の果てまで花畑が続いていた。人もちらほら見える。なぜかぼんやりと生気のないように佇んでいた。視線を前に向けると、右から左へ川が流れていた。水の澄んだ綺麗な川だった。

どこか見覚えのある場所。自分で見たことはないけれども、なぜか知っている場所。それがどこであるかに気付き、僕は唖然とする。
「本当にあったんだ。臨死体験をした人がみんな見たってやつ。この前、テレビでやってたばかりじゃないか!」

なぜ、こうなったんだろう、と必死で記憶をたぐり寄せる。
夜の首都高。遠くに見える工場夜景。
あのとき、僕は車を走らせていた。やっと自分の車を買ったのが嬉しかったんだ。
隣には彼女が乗っていて、慣れないドライブデートを楽しんでいたんだっけ。
そしたら、急に目の前の車が急ブレーキをかけた。

そこからは何も思い出せず、ぐしゃぐしゃと頭をかきむしる。

とにかく三途の川を渡る前に早く戻らなければ。
川辺をあてどなく探してみるが、花に足を取られるばかりでどこにも出口は見つからない。
「どこだ、どこから帰れるんだ!」
いくら叫べども、その声はおそろしいほどに穏やかな花畑に吸い込まれてしまう。
焦りばかりが募り、息がうまく吸えなくなってきた。
「僕はまだ死にたくない。死にたくないんだ!」
「そこで何をしているんです」
不意にしゃがれた男の声を背中に浴び、途端に冷静さを取り戻す。
振り返ると、白髪の老人が弱々しそうに立っていた。
「あ、あなたこそ、何をしているんです」
思わず逆に問いかけてしまうと、老人は静かに答えた。
「もうすぐ孫が来ようとしているんじゃよ。それを追い返すためにきた」
老人は川の向こうを指す。つられて、僕もその先を見るが、そこには誰もいない。
「追い返す……? だって、ここは」
そのときだった。
川の向こうに黒いモヤモヤが現れたかと思うと、それはたちまち人の形になっていった。
「まさか……」
その姿が鮮明になったとき、僕は腰から砕けそうになった。
「ひな……。お前、もう彼岸へ行ってしまったのか」
ひなは僕を見つけると、今にも泣きそうなくらい悲しそうな顔をした。
「なんで自分だけ向こう側にいってしまったんだ。ずっと一緒だったじゃないか!」
視界がゆらゆらと揺らいでいき、耐えきれずにまばたきをする。
こんなことがあっていいものだろうか。僕のせいで。僕のせいでひなは事故に遭ったのに。
「川を渡ったらもう戻れないなんて、誰が決めたんだ。そんなら僕が力づくでこっちに連れていく!」
「待ちなさい、君!」
老人の忠告を背中で跳ね除け、僕は川の中を一歩ずつ進んでいく。
川幅は5メートル弱。決して、渡れない距離ではなかった。
「大丈夫だ、僕が助ける!」
遠くへ、より遠くへ。少しでもひなに届くように手を伸ばす。
すると、ひなは首を横に振るのだった。
「いやだ! 来ないで!」
予想だにしない言葉に一瞬たじろいだが、僕は構わず足を進めた。
「生きるのを諦めるな。僕と一緒に向こう岸に行こう」
嫌がるひなの手首をしっかり握ると、僕は力の限りを振り絞って、再び向こう岸に戻った。

「あぁ、良かった。助かった」
達成感に浸りながら、ゼェゼェと息を吐く僕に、ひなは震える声で言った。
「なんでこんなひどいことするの?」
「は?」
言われた意味がわからず、苛立ちさえ覚える。
「なんでって、お前を彼岸から助け出してやったんだよ。これで生き返れるじゃないか」
「ちょっといいかね」
割り込むように老人の手がスッと僕の肩に置かれる。
「初めて見たよ。親族をおいでおいでと手招きする人はあれど、あの世に力づくで引きずり込む人がいるとは」
言いがかりをつけられているようで、僕は眉間にしわを寄せる。
「引きずり込んだ? 変な言い方はやめてください。僕は」
「君、知らないのかね。君が最初にいたこちら側が、現世の人から見た彼岸。彼女がいた方が此岸なのだよ」
「そんなわけがない。テレビでやっていたじゃないか。臨死体験をしたときに、川を挟んで向こう側に彼岸が見えるって。そこには亡くなった人たちがいるって」
老人はややためらいつつも口を開いた。
「たまにおるのだよ。生死の境をさまようことなく死んだ者。つまり、即死した者はすぐに彼岸にくる。そりゃ、君の視点から見たらこちら側が此岸、向こう岸が彼岸だと思っても致し方のないことだが」
「じゃあ……」
すすり泣くひなの顔を僕は二度と見れなかった。







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