生きる意味。

私は、「生きる意味」についてしばしば考えることがある。
あなたが「生きる意味は何?」 と問われたら何と答えるだろうか。

これから先に書くことは、私の拙い語彙力が原因で正しく伝わらないかもしれないし、1人の視野狭き者である以上、筋が通っているのかも分からない。が、思ったままのことを書いてみる。

「生きる意味」について、先人達も同じ疑問を呈し、迷い込み、その答えを求めてきた。
そして多くの偉人達が、生きる意味は「幸せになるため」だという。
幸せに生きる。私はどちらかといえば幸せだと思う。365日、24時間のうち、本当に幸せだと感じる時間はそんなに長くはないが、まんべんなく、平均すると幸せだと思う。しかし、この日常が生きる意味を満たしているのだろうか。何かしっくりこない。

ある日、私はとても気分が落ち込み、何事にもやる気がでず、生きていても意味がないのではないかと思う時期があった。
おそらく人間関係のことで悩んでいたのだと思う。
なんとなく生きていることの方がつらくて、いっそ死んでしまった方が楽な気がした。
鬱なのかとも思いつつ、インターネットで生きる意味を求めた。
そこには、「他人はコントロールできない。」「物事は自分の捉え方が大切だ。」「ありのままを受け入れる。」という言葉が並んでいた。
確かに、こういう考え方に私もいくらか救われた覚えがある。
しかし、他人との関係性は日常的に、連続的に存在し、「繋がりたい」 と 「1人になりたい」の行ったり来たり。まさにヤマアラシのジレンマであった。
人間関係で疲れ、生じた負の感情を受け入れるにはさらにエネルギーがいる。これにも正直、疲れてしまった。
そして次第に「生きる意味」ではなく、「死」について調べるようになっていた。

死とは何だろう。
日常ではあまり考えないが、確実に無関係ではない「死」。
今生きている人はいずれ死ぬ。先人たちはすでに死んでいる。これから生まれてくる命もいずれ死ぬ。
生あるものはいつか死ぬという至極当然の事実。
「死」という存在はすべての生き物に共通しているのである。
これを意識した時、私は皮肉にも世界と繋がっているような感覚を覚えた。
今まで他人と繋がりたいという欲求がジレンマを生みそれを繰り返してきたが、死という存在を感じた時、その欲求は満たされてしまった。
そして私は、「幸せになるため」に生きるよりも、「より良く死を迎えるため」に生きた方がしっくりくるのを感じた。
なぜなら、今この瞬間が幸せになるよう努力する必要がなく、しんどい時は心のエネルギーを無理に使わなくてもよいのである。こちらの方が自然体だ。より良い死を迎えるには、死ぬまでに幸せな人生だと思えればいい。そして、それはみな同じなのだが、死は個々に訪れるため誰かと比較する必要が全くなく、焦ることがない。
もう、「幸せになること」に追い回されるのは終わりにしようと思う。私は「より良い死」のために、世界の人々と死で繋がりながら生きていきたいと思う。

#君のことばに救われた

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