今日という日にありがとう

11年前、わたしは日本橋の近くのデパートか何かで買い物をしていた。
5,6階にいたのだろうか、グラグラと揺れていた。
そして、窓から外を見ると隣のビルもグラグラと揺れていた。

館内にテレビがあったのか、自分の携帯のワンセグで見たのか
とにかく、ニュースで大きな地震が起きたことを知った。

津波も画面越しに見た。言葉がなかった。
避難指示など特になかったので、自主的に外へ出ると
静かだけれど人がウロウロとしていた。
当時、わたしは夜間の歯科技工士学校に通っていたので
とりあえず、授業があるかもしれないからと地下鉄の駅に向かったのだけれど、学校から安否確認と休校の知らせがあった。
こうなると、あとは自宅へ帰るしかないのだけれど
地下鉄が動いていない。

帰る手段がない。

わたしは中学生の頃に地震で被災した経験があったので、
どこか避難所でもないものかと思ったけれど、
当時は探せなかった。
どのくらいで地下鉄が復旧するかも分からず、
とりあえず歩いて帰ることにした。
今ならこの選択をまずはしないと思う。


飲み物と食べ物を調達とは思ってコンビニ入ったけれど時すでに遅しだった。

幸か不幸か連れがいたのだけれど、
あの時は険悪になろうが、もう少しわたしがリーダーシップをとればよかったのかもしれない。
こうゆう時の価値観の違いは厄介だ。

少なからず
災害時にどう動くか、何をしたらまずいか
そんなことを経験していたのはわたしの方だったのだから。

あの日、たくさんの人が歩いていた。

寒空の中、
自宅を目指して歩いていた。

家が大丈夫という確証もないまま
ただ歩いていた。

わたしはこの日起きた地震と津波のニュースを見るたびに、聞くたびに
自分がかつて経験した震災と重ねてしまっていた。
あの時は夜で津波をわたしは目撃していない。
暗闇の中に静かに漂う、お寺の屋根を見ただけだった。
そして、全てがぼんやりとした景色だった。
けれど、この時を境に、きっとあの時もこうだったんだと
記憶が戻っていくのか、自分が戻ってしまったのか
時折、鮮明に心臓を締め付けるほどの不安や恐怖に飲み込まれそうになる。

記憶は曖昧なのだけれど、感情的なものは忘れたくても忘れられない。

そして原発の事故。これもテレビで見ていた。また言葉を失った。
わたしは大学生のころ、授業で持続可能なエネルギーについてのレポートを書いたことがある。専門科目ではなく、一定の単位数が欲しくて受講した授業だった。そこで、原子力発電について調べて、その有効性や安全性についてまとめた。自分が入手できる程度の情報なんてたかがしれてはいるけれど、その当時、わたしが知りうる限り、チェルノブイリ原発事故のようなことは起こらないし、起こらないように対策はされていて安全で、クリーンなエネルギーである。地震が起きた場合は、津波が起きた場合はなどといった話には触れることもなく、とても、頑丈で丈夫。他の再生可能エネルギーに比べても安定している。など、原子力発電はまさに未来のエネルギーという話が主流だった。
それが目の前ですべて裏切られた。
どうして、あの時、もっと突っ込んで調べてみなかったのだろう。
ある一つの授業のレポートなので、世の中に出ることもない。先生に提出して原本すら残っていない。
けれど、なんとも言えない罪悪感のようなものがずっと残っている。
知らないということは本当に恐ろしい。
疑わないということも本当に恐ろしい。

11年。
あの頃と今では生活が随分と変わってしまった。
何がなんでも守りたい存在の息子もいる。

いつ、何が起きてもおかしくない世界で生きている。
全てが穏やかで優しい未来を描くほどわたしはロマンチストではない。
きっと未来は苦しい。
希望と不安。
間違いなく不安の方が大きい。

気丈に凛としていられるだろうか。
限界を超えてるはずの一歩を踏み出せるだろうか。

考えれば考えるほどに
先の未来は苦しいものだ。

だけれど、今日まで生きてきた。

だから
ありがとう。

生きてこられたことに
感謝を忘れずに。

ありがとう。

今日の空に願いを込める。






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