巣立ちに寄せて
いつもの散歩道の途中でアイスコーヒーを飲もうとコンビニに寄った。
入店すぐに雛鳥、それも恐らくスズメの雛であろう鳴き声が店内中にチュンチチュンと響いているのに気が付き「こういう環境音でも取り入れているのだろうか?」などとぼんやり考えながらトイレを済ませ、レジでアイスコーヒーを頼む。しかし明らかに生きている雛のリズミカルな鳴き声がする。これはおかしい、と怪訝に思いながらカップをセットしボタンを押したその時「チチッ」と小さく聞こえるが早いかカウンターの脇からすぐ目の前にやはり!雀の雛鳥が飛び出してきた。すぐに店員さんを呼んだが、右往左往するだけで点で話にならない。
仕方なし、誰知らずや伊達で無しに鳥好きを自負する私ではある、仕上がったコーヒーカップを放置したまま、呆気に取られる店員を前に捕物をおっ始めた。といってまだ飛翔能力も大して備わっていない幼鳥を捕まえるのは造作もないこと。本当は人間の匂いをつけたくなくて網かザルか、何か彼(彼女?)を傷付けぬような素材があれば良かったのだが望むべくもなく、なるべく優しい言葉をかけながら(この場合言葉が伝わるかどうかは重要ではない)両手で覆うように隅でブルブル震える雛をふわりと拾い上げ、すぐさま通りの反対側に面したコンクリート壁の真下に一旦避難させる。
コンビニの店員さんから「ありがとうございます...でもどうしてそんなに手際が良いのですか?」と聞かれて答えに窮した挙句にでてきたボソッと一言が「鳥が好きなので」とあまりに朴訥だったのには我ながら失笑を禁じえず。
さて、緊急避難したは良いが親鳥の姿が見当たらない。こういう迷い雛鳥の周囲には必ず親鳥がどこかから見ているはずなので、少し姿を隠しながら耳を攲てる。すると通りのコンビニ側の路地から、かなりけたたましい雀の鳴き声が聞こえてきた。見れば路地に建つ家の屋根の端で飛び回る成鳥。恐らく消えた雛を必死で探しているのだろう、ほとんど悲痛なほどに鳴き続けている。付近の頭上をカラスが滑る様に飛んできてその上を旋回している。親鳥の騒ぎを聞いて餌にありつこうとやってきたのだろうか?急がなければ。
すぐに先ほど避難させたコンクリート壁まで戻る。いたいた、小さく鳴きながら壁の凹凸の隅に縮こまっている。そっと拾い上げ、あまりに急いで注意散漫になっている自分自身が車に轢かれそうになりながら、親鳥の鳴いている屋根の真下の砂利の上へ綿毛でも置くように優しく乗せた。人間の匂いがついてしまったことで親に見放されてしまうのでは、と気が気でなく少し様子をみることにする。さて、ホッとした瞬間に隣のコンビニへ放置していたアイスコーヒーを思い出し、それを持ってきて少し離れたところで様子を伺いながら緊張で乾いた喉にゴクリと流し込んだ。
しかしいつまで経っても親鳥は雛のそばに近寄ろうとせず、互いに頻りと鳴き交している。もしかすると私の存在に気がついていて警戒しているのかもしれない。先ほどのカラスが気にはなるが、自然界の摂理を真っ直ぐ生き抜く彼らを前に、私如きの出る幕などハナからありはしない。人間の責任が及んでいる場所からの避難はとりあえず果たしたのだから、ここらでそろそろお暇するかと思い直し、飲み切ったアイスコーヒーのカップをコンビニのゴミ箱へ放ってその場を後にした。
帰り道を歩きながら、なぜかボードレールの「貧民を撲殺しよう」の一節を思い出していた。援助するものとされるものの互いの関係における対等性と存在価を見つめた現代にも警鐘を鳴らし続けるあの有名な詩である。
「他人と同等であることを証明する者のみが他人と同等であり、よく自由を征服する者のみが自由に値するのだ」。
と同時にいつだったか友人が、乞食に幾ばくかの金銭を恵んでいることや、何それの機関や団体に寄付や援助を行った、行っているということを嬉々として私に語った時のことが思い起こされた。さも美しい美談か何かのように話す彼のその口ぶりに何か得体の知れない薄寒さと淀んだ水のような嫌悪感を感じた私は、彼の口の動きと表情を観察した。
その顔はまさしく、ボードレールが上の詩の中で批判した、他人を自身の存在価値の担保の為に利用する人間のそれそのものだった。私がカラスを追い払おうと躍起になっていたらば、きっと似た様な下卑た正義感に酔いしれていたのかもしれない。別にここで寄付や援助を批判する訳では勿論ない。しかし援助を行う側の動機と心構え、その責任を自覚せねば、憐みは行使される側の人間的価値をいとも容易に奪い去り、行使する側に優越感という麻薬を与え相互にある種の不健全な契約を成立させてしまう諸刃を秘めている。これは凡ゆる正義の行使に通ずると思われる。
そうして歩きながら、さらにもう一つ思い出す。以前日本野鳥保護連盟の冊子か何かに書かれていた文章で「野鳥の雛は強いものが生き残る。例えその雛がそのまま死んでしまったり捕食者の餌になろうとも、その犠牲が種を存続させることへつながる。自然界に一方的力関係と無駄は存在しない。ゆえに我々の価値基準で安易に拾ったり悲しんだりしてはいけない」とまあ細部はアレとしてこんな様な意味の一文だったと思う。然り。まさに生物として責任を果たすとはかくあるべしと私も思う。
結婚もせず子も産まず、能天気に音楽などという霞の様なものを食ってズルズルと生きる私の様な種類の人間は、たまにこうして生活していることをこの上ない恥辱に思うことがある。果たして芸術家などという職業的存在は資本主義が生み出した厚顔無恥の成れの果てではないだろうか?などと勘ぐってみたりする。しかして先のスズメたちの様な図太い生き様を見せられると、私とてせめても人類という種の為に今少し恥を忍んで生きてみようか、それが可能ならば幾ばくかの価値でも生み出してみようか、などと思う気持ちくらいはおきる。
それにしても元来生き物とは、個ではなく種を生きることこそ健全で合理的なのではないのだろうか?ここ数年叫ばれる人新世における気候変動に伴う地球環境の指数関数的悪化スピード、COVID-19によって(いやマルクスが指摘したその時からすでに)暴露され(てい)た資本主義経済の限界局面を我々市井レベルの人間まで遍く感じられる世界に様変わりしてきている。端緒はそもそもデカルト的西洋合理主義による個人の時代の産物であることは最早自明。少し大雑把すぎるが、一つの原因として個人における豊かな生活を目指して突き進んだ代償が津波の様に押し寄せてきている。
ここに及んで今更ながらに鳥や獣たちの個々に備わる強靭な肉体、生き延びる為に持ちうる全てを駆使して進化してきた羽毛や爪、特殊能力の様な多様で優れた感覚器官を備えた多様性、それそのものの存在理由こそが互いがバランスよく循環していくための最適解なのだとまざまざと思い知らされる。先述のスズメたちに触れ、なんだか台風が来ようと大地震が来ようとものともしない、持たざるものたちと思われていたはずの動物たちの生活に顕現する、捕食/被捕食者における力相関的な、互いに互いの存在価に対してこの上ない全肯定を送り生命賛歌を歌い合う様に触れ、改めてハッとせられた。
そろそろ飛び立つ若鳥を見ることができる季節。彼らの翼は、彼らにとって必然的な危機を乗り越え、あるいは彼らの代わりに死んだ兄弟たちと共に、否、というよりこの世界と一枚布の様に繋がりあって、大いなる今日の日を力強く羽ばたき巣立つ。そしてこの循環の歯車の中でこそ、本質的な意味での個という存在をきっと謳歌するのだろう。
そんな訳でまあ、今よりもう少しは私も、私を成立させてくれているこの世界の為になれたら良いのに、などと殊勝なことをたまには思いながら銭湯へ向かう準備をする。
さて今日もなんてことない月曜の夕方が、知らん顔して私の前を通り過ぎていく。
おい待ってくれ。
今日の日記はここまでにしよう。
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