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2024年4月5日の上野公園日記(7) 初めての法隆寺宝物館(長文です)

 東博のゲートから再入場してすぐ左に曲がって、法隆寺宝物館を初訪問。
────ほんとにこっち入っていいの?
────別料金取るんじゃないの?
 不安になるくらい、そこへ至るまでの庭園は静かで上品。 
 やがて見えてきたのは、
(絶対これ別料金取るって…)
 と、確信しないではいられない、立派にして個性的な建物。
 まあ、お金を払えと言われたら払いましょう。伎楽面見たいもの。でも高かったら引き返そう。
 腹を決めて建物の中へ。

ひとりひとり顔立ちもプロポーションも違う。

(法隆寺宝物館って、ほんとにトーハクの入場料だけで入れるんだ…!)
 という感動と、
(なんでこんなにものすごいものが密集してるんだ…!)
 という困惑とで、目も頭もクラクラしてしまった。
 中尊寺金色堂展に全然見劣りしない。
 いや、正直に言って、私の感想としては、こっちのが凄い。数も内容も、圧倒的に勝ってる。
 なのになんでこんなに空いてるのか。
 金色堂展の会場の賑わいを思い出すと、こっちは白昼夢なんじゃないかという気がしてくるくらい静か。
 お客さんは私のほかにはひとり、ふたり、いたりいなかったりするだけで、ほぼ貸し切り。
 こんなすごい仏像たちと、一対一で向かい合えるなんて。
 贅沢さに感激して、泣かないようにするのが大変だった。

VIPになって博物館を貸し切った気分。

 余計なものは何も無い。 
 ただ「そのもの」と向き合う、ということだけに集中できる空間がそこにあった。
「そのもの」の前で、自分自身の体すら消えてしまったように錯覚した。心だけで仏像と向き合っているような感覚。
 
 ふと思い出したこと。
 ここまで来る途中、宝物館を外から見たとき不思議な気がした。
「木の温もりをふんだんに感じさせる」とかいうのとは正反対の、すごく人工的な形と材質の建物なのに、冷たくない。人工的なのに、人工物の不自然さや、醜さを感じない。
 なぜだろう? と。

 宝物館の中に立って、宝物とひとつひとつ向き合っていたら、その疑問の答えが自分の中で見えた気がした。
 この空間にいると、自分が心だけになった気がする。
 心だけで美術品と向き合っている気持ちになる。
 そういう空間を作ろうと考えて、計算して、設計した人がいる。
 その人の理知が形になったのがこの建物なのだとすると、外から見たとき感じた不思議な自然さとはつまり、
「人工」
 もまた、
「自然」
 なんだ、と、この建物が教えてくれていたのじゃないかということ。
 人の心や、人の理知もまた、「自然物」なんだということ。

横顔もかっこいい。死角無しのイケ面。

 金曜・土曜だけ公開される伎楽面の部屋はもっと静かで、本当にほとんど貸し切りだった。
 私は伎楽の役者たちを主人公にした『味摩之』というお話を書いたこともあって、伎楽面にはなんとしても会いたかった。やっと会えた。
 最初の出会いの時間がこんなに静かに贅沢に過ごせたことは、私にとっては一生減らないたからものだ。
「宝物館」の名前に偽り無しだなあ、と思った。

かっこいい…!

 また来ます、と、心の中で挨拶をして、名残惜しく建物の外へ。

【ちょっと宣伝】

 私が書いた本『味摩之』の紹介ページです。
 年に一、二回、「文学フリマ東京」などのイベントで頒布してます。(たまに関西にも行きます)
 いまリンク貼ってみて気づいたのですが、イベントの日付間違ってました。2022年じゃなくて、2023年の新刊です。

【失敗写真】

 摩耶夫人が踊っている姿を象った小さな金の像が可愛かったので写真を撮ろうとしたのですが、館内照明が暗め&サイズが小さいせいでなかなかピントが合わず、手ぶれもひどく。
 ディスコで踊る摩耶夫人&天人ガールズ、みたいなノリノリの写真になってしまいました。

腋から産むわよ!(Yeah!)

 体力も時間も尽きて、今回の上野散策はこれにて終了。
 帰ってからスマートウォッチの歩数計を見たら、23998歩(15.49km)歩いてました。
 次行く時は今回ほとんど見られなかった「東洋館」をじっくり見て回りたいです。楽しみ。

法隆寺宝物館と桜。