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【小説:純文学】季節留学

 これもどこかの新人賞に投稿して一次落ちした小説です。最初は主人公も違っていてスジも全く違ったので全部書き直したのを覚えています。春夏秋冬が一つの国に一つしかない世界、を書いてみようと書き始めたのですが、それがうまく活かせなかったのが欠点でした。

─────────────(以下本文)───────────────

 豆腐屋のラッパが聞こえる。落ち葉焚きの白い煙が、高く高く天に登り、薄い雲と一つになった。焚き火を調整しているえー兄はでかい銀色のトングを使って、燃える落ち葉の山に穴を空ける。焚き火の周りには、アルミホイルに包まれた、さつまいもが均等に並べられ、甘い香りをさせている。
「まだかい、まだかい」
 額に汗が少し滲んでいる、ツナギ姿のえー兄にせっつく。
「まだだよ。そら、向こうでガキどもが呼んでいるぞ」
 光彦くんが、手を振りながら小さい体を弾ませて私を呼んでいる。太陽くんと、武志くんは、ベンチの上に広げられたカードゲームの盤面にある一枚のカードを、二人して見ながら、何かを言い合っている。きっとこれは効果がわからないというやつだろう。駄菓子屋兼カードショップのバイト戦士である、私がよく見る光景。
「おまたせ。どうした?」
「このカードで、このカードを出せるかわかんなくてさ。ちー姉わかる?」
 新しいカードだから、私もすぐにはわからない。調べてみると、発売会社がどう扱うか書いたページがあった。
「武志くんのカードでできるみたい。へぇー強いね」
「でしょ。一発当てしたんだ」
 それで今日はテンションが高かったんだ。そういうときって何でもうまくいくんだよなぁ。お菓子を開ければあたりが出て、髪のセットも一回で上手くいくし、手にとった牛乳は消費期限が一番遠い。なかなか強い太陽くんを、いつも勝てない武志くんが追い詰めているのを見ると、そういうジンクスってあるんだろうなって信じてしまう。
「ガキども、焼き芋ができたぞー」
 向こうでえー兄が少し不自然にオラついて、焼き芋を落ち葉焚き穴から取り出している。みんなは勝負の最中だと言うのに、あっけなくカードをポケットにしまいこんで、あっちへかけて行った。私も、その後をゆっくりと追う。
「えー兄、ありがとう」
 熱い焼き芋を貰って、手のひらが焼けないようにホッホとジャグリングしながら、向こうのベンチまで持って行き、四人でかけて、焼き芋を割った。オレンジ色のねっとりと甘そうな本体が顔を覗かす。蜜がカラメルになった香りと、すこしスモーキーな焚き火の匂いが、胸いっぱいに広がる。一口かじると、何よりも甘いホッカホカのさつまいもが口に広がる。熱くてホフホフと息が出るのも楽しい。
「ちー姉、何食べてんのー?」
 和也くんがのしいかを持って現れた。きっと駄菓子屋帰りだろう。
「焼き芋だよ。食べる?」
 残っていた半分を和也くんに差し出すと、手にとり「あちっあちっ」と言いながら食べて「すげー甘い」って褒めていた。「向こうのお兄さんが焼いてくれたんだよー」と、指差すと、えー兄は手を降って恥ずかしそうに、シガレットを取り出した。私はあれが偽物であると知っている。えー兄はいつも駄菓子屋で、あのシガレット型のお菓子を買っていく。猫舌のえー兄は焼き芋を食べずに、ボリボリ、シガレットをかじって食べている。
「あー、焼き芋だ」
 聡くんと、浩くんの兄弟だ。この時間なら、習字教室の後だろう。墨汁のオリエンタルな香りがほのかにする。私の持っている半分の焼き芋を、更に半分に割って、ちょっと少ないけど、二人にあげた。パクリと食らいついて「甘い」「うん、すごく甘い」って言い合っている、仲のいい兄弟だ。
「ほら、まだあるんだ、こっち来いよ」
 えー兄が手をひらひらと動かして、みんなを呼ぶ。お兄さんぶっているのは、昔から変わらない。
「これ、おじさんがちー姉にだって」
 そう言って、聡くんは、ちょっと大きめの焼き芋を渡してくれた。
「俺はおじさんじゃねえよ」
 地獄耳で聞いていた、えー兄が叫んでいる。にひひと聡くんは笑って、私は「ありがとう」と手を降って答えた。そうすると、みんなも「お兄さん、ありがとう」と一斉に叫んで、えー兄は恥ずかしそうにはにかんで笑って、トングで落ち葉の山をまた崩し、混ぜ始めた。
 誰が言い出したか、ベンチの上でカードゲームの大会が始まった。私もシードで入っている。いつもカードを持ち歩くのは、カードゲーマーの身だしなみ。みんなのポケットにも、入っているみたいだ。
 三回戦。この後は私の試合がある。今日は場内の予想に反して、武志くんが浩くんに勝った。やっぱりジンクスは効いている。
「おーい、誰かちょっと来てくれ」
 えー兄が呼ぶので、私が行こうとしたら、背の高い太陽くんが「任せて」って走って行ってしまった。えー兄はバケツをひっくり返して水を焚き火にかけた。さっきまでの煙とは違う、もやもやとした湯気が立ち昇った。しゃがんで太陽くんの目線に合わせ、蛇口を指さしてバケツを渡した。
 焚き火の灰をトングで掻きませて、鎮火するまで油断せずに見張っている。太陽くんが水をバケツいっぱいに汲んで持ってきた。それをまた、灰にかけて水漬けにする。彼の短くて立っている髪の毛を、軍手を外した手でなでている。彼は笑って、こっちまでかけてきて「今どんな感じ?」といの一番に聞いた。
 大会は光彦くん対和也くんの試合。だいぶ膠着していたけれども、盤面が動き出した。光彦くんが、ほんのちょっぴりリードしている。和也くんのひっくり返すためのカードに、光彦くんのカウンターが上手く入って。そのまま光彦くんが勝った。次は、私と聡くんの試合だ。
 聡くんはなかなか強かった。だが、しかし、私のほうがもっと強い。高らかに「フェイタル・アトラクション」と声にして、彼のエースカードを破壊し、私が勝った。なんで勝てなかったのか、聡くんと浩くんの兄弟ミーティングが、別のベンチで始まる。
 次の試合は光彦くん対武志くん。ベンチを立って、一番うしろからジャッジ代わりに見ていたら、灰を処理し終わって、ぬるくなった焼き芋を食べているえー兄が、隣に立っていた。
「懐かしいな。昔はよくやったよな」
「私は今もやっているよ。また始めようよ」
「カードはあるけど、見ていて何が起きてんのかさっぱりわからん。どうせあるのも古いやつだしさ」
「そんなことはないよ、ほら右の子のカードは見たことあるでしょ?」
 武志くんのカードは古いカードが、最近になって強化されたやつを使っている。ここのところ、昔のカードを強化するのがこのゲームの流行りだ。
「あるけど、今更だしなぁ」
「今からだっていいんだよ。なんたって、世界中で遊ばれているんだよ。それか、カードは駄菓子屋に売っちゃう? 色つけちゃうよ」
「はっ、どっちもしないのを知っていて言うんだろ。俺は思い出はとっておくんだ。お前の歯型のついたカードだって、押入れに思い出だからって入れてあるよ」
 そんな恥ずかしいカードがあったのか。ちょっぴり顔が熱くなる。そんなカード捨ててくれればいいのに。
「キタキター!」
 武志くんが興奮して、引いたカードを場に出した。一発当てした強いあのカード。盤面はよくわからないけど、一枚からどんどん展開されて、そのまま武志くんが光彦くんを押し切った。
 さぁ、最終戦。私対武志くん。えー兄も見ている。勝ちたい。私のカードは最初から動けない。でもそれは武志くんも同じ。静かに試合が立ち上がる。所々で攻防があり、カウンターの応酬もあり、その度にみんなが「おっ」と声を漏らす。えー兄も太陽くんに声をかけて、説明してもらっている。
 流れが変わったのは、武志くんが引いたカードを見て「ふっ」と笑った時、あのカードを引き当てたのだ。今日は強いジンクスがかかっている彼に運の風も吹いている。どんどん展開されて、彼の場は大軍を作った。そして、勝負。明らかに彼は試合を決めにかかってきている。だけど、負けたくない。今ある全部を使って、準備したカード達も使い切ってなんとか耐えた。だけど、次のターンが最後。まだ、動ける可能性はある。逆に考えろ、駄菓子屋の大会にやってくる高校生たちの言葉を思い出す。逆境は攻めるのに最適だ。カードを引いた。私もいいカードを引き当てた。ジンクスに勝るのは、信じる心だ。
 私は手札の三枚のカードを並び替えて、左から、場に出していく。使い切ったカードたちが復活する、組み立てられていく私のエースカード。そして、勝負。私への攻撃で疲弊した、彼のカードたちを追い詰める、そして、声にする「フェイタル・アトラクション」私のエースカードが、勝負を決めた。この大会、私の優勝だ。息を呑んでいたみんなが、「おぉ」と驚いた声を出して、ガッツポーズで右手を掲げた私に拍手を送ってくれた。武志くんは「くっ、くそ」と握った拳を額に当てている。
「ぎりぎりだった。武志くん。強くなったね」
「次は勝つからね」
 右手と右手で握手して、試合は終わった。
「大人げねー」
「いい、えー兄。本気でやるから遊びは楽しいのよ」
 試合のテンションのまま、ビシッと言い放つ。みんなも頷いている。「ええ」とえー兄はうろたえている。
 一匹のカラスが長く鳴いた。終劇のブザーのようだ。西の赤い夕焼けは東から夜の濃い紫色になっていく。
「そら、ガキども、試合も終わったんだし帰った。帰った」
 えー兄にはやされて、みんなカードをしまって、公園の出入り口から、散り散りに帰っていく。私もカードを片付けてバックにしまう。えー兄は濡れた灰の入ったゴミ袋を背負って、むこうの出入り口に向かって歩いていく。私はそれについていく。言葉を待っている。
「ちー子、車に乗っていくか?」
「うん」
「じゃあ、終了の報告だけすっから、ちょっと待ってて」
 今どき携帯電話を取り出して、どこかに電話をかけている。えー兄の車は、黒色に赤色のツートンカラーなミニバン。ここでは、紅色の車をよく見る。紅葉の赤より少しトーンの暗い赤。だけど、この車は、トーンが柔らかい。いい色をしている。さすが、えー兄が選んだだけある。
「待たせた。行くか」
「社会人みたい」
「社会人なんだよ。ちー子も半分そんなもんだろ」
 助手席に乗り込むと、消臭剤でも消しきれない、落ち葉の腐臭がした。えー兄は落ち葉処理業を仕事にしているから、この臭いが染み付いている。それに、今日は後ろに落ち葉の灰が積まれている。だから臭いも仕方ない。でも、窓は開けさせてもらった。
「今日みたいなの、駄菓子屋でもやってるのか?」
「うん。まぁ向こうじゃ、静かにしなさいって言う方だから、あんな気持ちよくできないけどね」
「そりゃそうか。それにしてもまだあのカードをやってるとはね」
「私はあのカードゲームは本気でやるって決めたんだ」
「そりゃまた、何故?」
「世界チャンピオンになるため、って言ったら笑う?」自分が我慢できずに笑ってしまった。
「納得する」えー兄も冗談っぽく笑う。もし本気なら、そんな笑うのは失礼千万、ひどい人だ。
「世界中でやられてるからだよ。私、夏に留学したいんだ」
 えー兄は目をしばたいて、口を一文字にきっかり閉めて、黙ってしまった。
「留学はいいことばかりじゃない」重そうに口を動かした。
「冬の大学行ってたえー兄がそう言う?」
「それは、まぁそうだけど。冬なんてやたらめったら寒いし、ときどき雪って言って、氷の削りカスみたいなのが空から降ってくるんだぜ。夏だって一緒さ。暑くてジメジメするって言うし、日焼けって言って太陽の光でやけどしちまうんだ。秋にいりゃ平和だ」
「そんなことわかってるの。でも、暑いってどういうことなのか、日焼けがどれだけ痛いのか、私にはわからなくって、わかりたくって、たまらないんだ。だから行って、ああこういうことだったんだって知りたいの」
「それなら、旅行のほうが絶対楽しい。留学なんていいものじゃない」
 意地が悪い。私が留学がいいって言うなら、私にとって留学はいいことに決まっている。えー兄のものさしで測っちゃいけない。
「冬がそんなに嫌だったの?」
 えー兄はまた黙ってしまった。そこの角を曲がれば、駐車場がある。
「冬の大学は勉強が難しいって言うのに、合格して行ったと思ったら、卒業した途端ふらっと帰ってきて、落ち葉処理業者なんて始めるんだもん」
 もう、外は夜の帳が降り、冷たすぎるからっ風が吹き込む。街頭の明かりが届かない駐車場は暗くて、運転しているえー兄の顔もよく見えない。
「冬は辛いとこだったんだね」
 車を降りて、えー兄は後ろから落ち葉の灰が詰まったゴミ袋を取り出して、掛け声代わりに「なんだそりゃ」って声に出した。
「本当になんだそりゃ。そんな風に思わないでくれ」
「じゃあ、私の留学、応援してよ」
「考えておく」不器用にえくぼを作って笑うのが、本当にえー兄らしい。
「大丈夫だよ。私が行くのは夏だし、カードゲームもあるし」
「ハッ」エー兄が鼻で笑いとばした。ムカつく。
 LEDの白い街灯がシャープな光で、私達を照らしている。私はえー兄の一歩先を歩いて、落ち葉を踏む。秋は落ち葉の国だ。毎日、落ち葉が降って、世界を紅葉色に染め上げてしまう。えー兄はそれに立ち向かう戦士なのだ。落ち葉を集めて、元の路面に戻す、グラウンドに戻す。そうすれば、すこしばかり本当の色を取り戻す。だけど、それが本当にえー兄のするべき役目なのかと言うと、私は疑問に思ってしまう。
 家の前についた。玄関灯が町田という表札を照らしている。南向きの窓の前には小さな庭があって、そこに桜の木が生えている。流行りのモミジやイチョウではなくて、サクラの濃い黄色の葉が、この家の目印になっている。
「それじゃ、ありがとう。えー兄」
「ああ、留学するなら寂しくなるな」
「そう言ってくれるんだ」
「まぁな」えー兄は、目線を外して、夜空のほうばかり向いている。

 いつものように大学が終わってから、駄菓子屋に向けて歩いていると、真っ赤なモミジ並木の中を、頭を垂れて歩く太平くんが見えた。
「なーにをやっとるかね? 太平くん」
 後ろから走り寄って、背中を思いっきり叩いてやると、彼は前につんのめって、操作していたスマホを落としそうになる。こりゃ不味いと思ったのも隠して、笑顔でごまかそうとした。
「そういうの辞めてくれって、前から言ってるだろ」
「ごめん。落ち込んでいると思って」
「落ち込んでいたら叩いていいのかよ。もうちょっと考えろ」
 全面的にこっちが悪いのだから、何も言い返せない。もう、笑顔で押し切れ。笑顔は最強の武器なのだ。彼の背中を擦ってやるも、手を払いのけられた。
「なにやってるの? ゲーム?」
「子供だな。俺がやってるのは商売。つまり、ビジネス」
 子供だと言われるのは馴れているけれども、悪いように言われるのはムカつく。彼がまるで高尚なことをしているように、得意げな顔をして、大きな身振りをするのもムカムカする。
「そういや、ちー子、夏に留学するんだって? 兄貴が言ってたけど」
「まだ、大学に申請中。だけど、絶対行ってやるんだ」
 太平くんはスマホいじりながら話しているから、私は壁と話しているみたいで気持ち悪い。えー兄から話を聞いたなら、もっと話すことがあるでしょう。
 だけど、自分から話しかけない私も卑怯だ。あんまりに馴れていたから話しづらいってわけじゃない、近視で遠視な老眼みたいに、年下の幼馴染という微妙な位置にいる彼がよくわからない。心の目に老眼鏡がほしい。クリアグリーンが鮮やかな、老眼鏡なのに若者向けのやつ。
「もし留学行くなら、静かになるのにな」
「そう言っちゃうんだ」
「案外、寂しいとか思うのかね」
「静かすぎて寂しいとか、ツンデレだなぁ太平くんも」
 思わず背中を叩こうと右手を振り上げて、ヤバイと気づいた。やっぱり、太平くんとは距離感がおかしい。
「ちげえよ。ちー子でもホームシックで寂しい、なんて泣いちゃうのか疑問に思っただけ」
 その何を真似ているのかわからないぶりっ子が、どうしようもなくムカつく。
「そんなこと、どうだろ? でも、心配しても仕方ないんじゃない?」
「それもそうか」
 妙に納得して、歩いていく。モミジの落ち葉はサクサクで踏むと気持ちいい。特にスニーカーで踏むといい感じ。音じゃなくて、足先から細かな震えが耳に跳んでくる。たぶん、この震えは高い青空の向こうまで、跳んでいっている気がする。夏の皆さんにも届いていると嬉しい。
「そういえば、ちー子の知り合いに、留学生っていない?」
「いるけど、どうして?」
「いや、ビジネスの相方を探しているんだ」
「紹介してもいいけど、どんな話? 変なのだったら困るし、教えてくれないと無理かな」
「簡単な仕事さ。ネットの通販サイトってあるだろ? あれを使って、貿易をするわけ。秋の落ち葉でさえ売れるんだぜ。他の国の情報があれば、もっと儲けられるはず」
 スマホを握りしめて、太平くんがニッと白い歯を見せて笑った。悪い顔してるなぁ、こういうやつから、悪い大人に絡め取られていくんだろうな。ああ、私達も大人か。
「面白いとは思うけど、それなら、えー兄に相談すればいいじゃん」
「兄貴はやりたくないってさ。言い出したら意固地だからね」
 なんでやりたくないんだろう。別に怪しい話じゃない。そんな調子じゃ、えー兄は何のために冬に行ったのかわからない。それがわからないから、私にまで留学をやめろと言うのか意気地無しめ。
「ま、いいよ。春から留学してきた子がいるから話してみる」
「お願い。俺のアドレス教えちゃってもいいから」
 世渡りが上手い。さすが弟。私を含めれば、末っ子世にはばかる。ダーウィンも驚きの、適者生存をひっくり返すことわざ。憎ったらしくても、愛嬌があるからズルい。
 モミジの並木道の向こうに、黄色いモサモサした木と横に走る白い線、丸く光る橙色が見える。幅の広い赤い道の終わり、どん詰まりのT字路。右に行けば、私達が通っていた小学校があり、更に行けば家がある。
「それじゃ、私こっちだから」
 右に曲がり始めた太平くんに手を降って、私は左の駄菓子屋へ通じる方へ別れようとした。彼は「そっか」と味気ない反応をして、そのまま右に曲がっていく。もうちょっと興味を持ってもいいんじゃない? 太平くんが駄菓子屋に来たことは一度もない。頻繁に来るえー兄のほうが、変かもしれないけど、私がいるんだから一回くらい顔出せよ。もっとチャラい駄菓子が置けないか、店長に相談してみよう。

 タツヤが相変わらず、琴葉の一つ隣りに座っている。いい加減諦めないと、ストーカーになっちゃうよ。ああ、また教授の話も聞かずに、琴葉のほうに笑いかけた。あのアクションはどうでしょう、解説の千穂子さん。実況の千穂子さんも講義は真面目に聞きましょう。ですが、教授はプリントを読んでいるだけ。本当に知りたいことは、講義に出るより図書館で調べましょうって、大学に入って一番に悟った。教授は出席カウンターで研究バカ。講義をするより、研究室に戻りたいのがありありとわかる。
 だれもが待ち望んだ、チャイムが鳴る。ああ、昼休みだ。タツヤとは別方向から出てくる琴葉を追って、昼ごはんに誘った。学食は一人でも使えるのに、座席は割り切られたように、偶数人のグループで占められる。カウンター席は一段上にあって、下を向いた頭が並ぶのは、まるでさらし首。あれの一員になりたがる人はいない。
 A定食の味噌豚焼きとご飯、味噌汁、小鉢に茄子の生姜煮を選んで、琴葉と向い合せで座る。同じA定食なのに、温泉卵を選んだほうが美味しそう。
「今日の定食は当たりだね」
 琴葉はいつも食べる前にレビューをする。でも写真は取らない。写真を取ると、料理の魂が取られるんだそうだ。
「当たりとは?」
「ドコドコ風のナンチャラカンチャラって、カタカナを並べられると落ち着かないじゃない。だけど、今日はシンプルに味噌豚焼き。定食はやっぱりこうじゃないと」
「わからないでもないなぁ。でも案外カタカナのくせして、家庭料理ってパターンもあるじゃん」
「そういう例外はいいんだよ。あー、この味噌、癖になるわー」
 豚ロースの脂が絡んだ味噌は、甘じょっぱい上に旨い。ちょっと味が濃いから、付け合せのキャベツの千切りがまた口直しにちょうどいい。
「それにしても、タツヤには困ったもんだよね」
「顔はいいんだけどね。でも、他が残念。男子校出身はこれだからダメなんだよね。距離感がわかってない」
「それ言っちゃうー」
「言う言う。不器用なのが気持ち悪いんだよね。下心が隠せてないっていうか」
「可愛い不器用なら良かったんだけどね。他人に不器用なのはダメだよ」
「そういや、あいつの元カノも留学生なんでしょ。人を珍獣扱いして気分悪い」
 タツヤは、春からやってきた留学生というだけで、琴葉を狙っている。狼ならば下心くらいは見えないように隠しておけ、不器用男子め。
 琴葉は秋の何に惹かれたんだかわからないが、遊びに行く度に「この国は綺麗だね」と褒めてくれる。ここみたいに死んでいく紅葉と違って、春では様々なものが生まれて、花も木も芽吹いていくというのに、この国を綺麗という。それも、本気で。
「そう言えばさ、昨日、誰かと歩いていたよね。彼氏?」
 熱い味噌汁を、ぐいっと飲んでしまった。
「あれはただの幼馴染。弟みたいなもんだよ」
「そうなの? まぁ、あれじゃ無理か」
「どこから見ていたの」
「背中を叩いて、怒られているところだけだよ」
 あれは、私にとっても失敗です。もう、とてもとても反省いたしておりますので、はい。
「いやー。私もタツヤのこと言えなかったわ。あいつとの距離が上手く測れないんだよね」
「ふーん。不器用。でも、いいんじゃない。千穂子のは可愛い」
「そうかい?」
 ふふと軽やかに笑う琴葉がナプキンで口を拭った。私が見ても色っぽい。私がやるとどうもだらしない。器用良しとはこういう事を言うんだろうな。
 休み時間後半でも、お茶やお冷が飲み放題の学食はなかなか人がはけない。カウンターで売ってるプリンがとても美味しそうで、へい、おばちゃん、といつの間にか百円玉がプリンとプラスチックの小さなスプーンに化けている。彼女はデザートに見向きもせず、温かいお茶をゆっくり飲んでいる。大人百パーセントの人はああするんだな。こうみると、社会人のはずのえー兄も、ずいぶん子供っぽく見える。
「私も留学したら大人っぽくなれるかな」
「うーん。無理、かなぁ」
「そんなぁ。そこは嘘でも、なれるよ、頑張って、って言って欲しいな」
「ごめんね。でも、留学ってそういうものじゃないしさ」
 パクンとプリンを食べる私にも、琴葉がなぜか物憂げに言ったのがわかった。プラスチックのスプーンを滑らせて、口から取り出してなにか励ますべきか考えたけど、沈黙のほうが、私の口よりもべらべらと口を滑らしていた。
「あ、そうだ、今度の休みに春人街に行こうと思うんだけど、千穂子も行かない?」
「行ってみたい。いろいろ教えてよ」
「いいよ。メープルのお菓子とかあるよ」
「へえ、どんなのなんだろ、楽しみ」
 プリンを食べ終わって口の中に、カラメルソースの甘い黒が広がっているのに、春のあまーいお菓子を食べたいなんて思っちゃう。ダイエット? そんな活動は完全週休二日制なのさ。
「秋はいいよね。ご飯も美味しいし、焼き芋にもハマっちゃった」
「そう言われると、なんか嬉しい。私も夏に行ったら、ハマっちゃうのかな」
「そうだね。そんで、タツヤみたいなのに付きまとわれたりしてね」
「うげ、それは最悪」
「でも、留学するとあいつみたいなのが寄ってくると思うよ。こっちは普通にしていても、コレクターには名札に国の名前が書いてあるように見えるみたい。高崎・春・琴葉みたいにね。ああ、もう嫌になっちゃう」
 口の中の粘っこい唾を飲んだ。原因は、甘いものを食べたからだけじゃない。私にも見えてしまう。琴葉の胸にくっついた、春と書かれた名札。嫌なヤツだな。そうだから、私は隠すそぶりも匂わせず、話を笑って冗談めかす。あ、と思えば、えー兄の胸にも冬の字が見えていた。
「千穂子も悪い男に引っかかんなよ」
「大丈夫だよー。でも、留学するってどんな感じなんだろ」
「どうだろうね。私も実感わかないや。でも、春に帰ったら、何かを見つけられそうな予感はする」
「帰るまでが留学です、って遠足みたい」
「遠足とはぜんぜん違うけどね。あ、もうお昼休み終わっちゃう」
 留学で私は変われるだろうか。その言葉を、ポジティブな意味でしか使わないのは、能天気すぎるかもしれない。
 琴葉は変わった。えー兄は変わった。でも、それは本当か。元の琴葉なんて私は知らない。えー兄が変わったのは、名札に書かれた冬の字だけじゃないだろうか。冬に行かなくても、えー兄は落ち葉処理業者を始めたんじゃないか。じゃあ、何が変わるのだろう。
 名札。それを頭の中で反芻して、琴葉を見ると右の胸に春の字がついている。太平くんからの頼み事。ビジネスの情報が欲しいんだ、留学生を紹介してくれ。私が簡単に引き受けたこれは、タツヤと同じに見える。少なくとも、私にはそう見える。
 結局、私は琴葉に太平くんのことを紹介できないまま、大学が終わった。彼の考えは悪いことなんだろうか。そのことを決着させられず、私の中でもやもやと黒い雲になって渦巻いている。昇り龍でも表れて、雲を蹴散らしてくれやしないか。この際、昇り鯉でも構いやしない。駄菓子屋で待っていても、表れやしないだろうな。諦めた頃になって、えー兄がやってきた。
「いらっしゃいませ」
 奥でカードを並べていた店長も、気づいて挨拶をした。たぶん、買うのはシガレット型のお菓子と、新商品の下ネタチョコ。アングラ界隈でも、人気の駄菓子らしい。小さいカゴにそれらを予想通りに入れていく。小学生にはちょっとお高めのストーンチョコの袋もいれる。おやおや、それではカカオばっかしになってしまう。
「これください」
 高校生くらいの少年が、カード類のレジ前に立ち、コモンのカードを数枚持って待っていた。鯉がやってきたと思ったから、気づかなかった。
「6枚で百九十五円になります。天使デッキ使っているの?」
「そういうわけじゃないですけど、強いから確保だけしとこうと思って」
 二百円が出されたから、お釣りの五円を渡す。小さな封筒状の透明な袋に、カードを入れる。顔を上げて「おまたせしました」と少年にカードを渡すと、その後ろでえー兄がこちらを見ていて目が合った。ああ、これは。駄菓子用のレジ袋を開けて、えー兄がやってくるのを待つ。ほら、すぐ来た。
「おつかれさま」
 えー兄からは落ち葉の焼ける匂いがした。作業用のツナギだから、ちょっといかつくて、この駄菓子屋には不似合いな格好。でも、いつもこの格好でやってくる。こちらにはドレスコードなんて、大層なものはありやしないから、構いやしない。
「太平から話聞いた?」
「なんの?」
 こうやって話す間にも、レジに打ち込んでいく。馴れたものだ。曲打ちでもしてやろうか。ただの冗談。そうやって私の顔に笑みを作りだす。
「ビジネスとかいうやつだよ。聞いてないならいいんだけど」
「四百六十五円になります。聞いたよ。留学生を紹介してくれだって」
「五百二十円で。引き受けたのか?」
「五十五円のお返しになります。引き受けちゃったけど、今になって悩んでる」
 チョコレート菓子ばかり入ったレジ袋を、渡しながら笑えなかった。もやもやがずっと心の中にあるから、それが刺激されたから。ちょっと突かれて、ぐるぐる渦になって、ゴロゴロ鳴り出す。
「あー、俺から言うのも変だが、協力してやってはくれないか」
 なんですと? 私がこんなにも気を使って、こんなにも悩んでいて、えー兄は自分は協力するのを断ったのに、私には協力してくれというのか。私がそんな都合のいい、物分りのいい人間であってたまるか。
「それじゃ、えー兄が協力すればいいじゃん」
 えー兄は目を泳がせて、しどろもどろ「あー、うん、それは」答えにならない言葉を漏らしている。こっちを見てよ。私に理由を話してみなさいよ。
「正直、俺は面倒くさくて断ったんだ。冬について俺は語りたくなくてな」
 こっちを見て話したから、さっきの態度は免じてやろう。
「私の知ってる子も、留学生って見られるのが嫌みたい。だから、太平くんにダメだったって伝えるつもり。バイトが終わったらメールでするよ」
「太平のこと、その子に話したのか?」
「ううん。いろいろあって話さないほうがいいて思っただけ」
「話してみてくれよ。太平に必要なのは、文化を大事にするパートナーなんだ」
「それには、異国からの留学生ってこと? そういう風に見られるのが嫌なんだって」
 私は睨むように見上げて言い切った。さあ、どう出る。こっちは、いつでも言葉を居合抜けるように、喉を柄にかけているぞ。
「すまん。だけど、聞くだけ聞いてくれないか。無理に頼まれたとでも言ってさ」
 顔の前で両手を合わせて、頭を下げるえー兄に毒気を抜かれてしまう。私も聞いて断られたわけじゃないし、本当のところはわからない。意固地な私に閉め出された、素直な自分が囁いている。
「仕方ないな。じゃあ、聞いてみるだけ聞いてみるよ」
「ありがとう。すまないな」
「そう思うなら、なんか買っていって?」
 えー兄はたい焼きチョコレートを追加で買っていった。本当にカカオが好きね。チョコスティックも勧めればよかった。そしたら、今頃、鼻血を垂らしているかもしれない。頭の中で、間抜けなえー兄を想像して、仕返ししてやった。
 二十二時半。ゲームセンターと共用になっている、駄菓子屋のロッカールームでその時間を確認した。琴葉にメールをしても大丈夫だろうか。それとも、明日話せば良いことだろうか。面と向かったら、複雑な気持ちが表に出してしまう。隠そうとしても、にじみ出る、ワキガのように。
 外灯が一個だけついている、ルーフ付きの従業員用駐輪場で、明かりだけ借りて、琴葉に送るメールを書ききった。悩んだけれども、えいやと送信ボタンをタッチする。すぐには返信はないと思う。もう今日は遅いし、明日あった時に伝えてくるかもしれない。それは憂鬱だけど、悩んでも仕方ない。それに、琴葉は私がどうだって、付き合いが変わる子じゃない。短い付き合いだからこそ、そこだけはわかっている。さて、帰りますか。
 吸い上げたものを チョコバナナ味にするという魔法のストローを使って牛乳を飲んでみると、見た目の割になめらかな甘さがする。ちょっと酸っぱいのがバナナ分だろうか。四本で百六十円。駄菓子屋に置くには少し高いけど、なかなかおもしろいから、少しだけ置いてみても良さそうだ。
 カードゲームのアニメの配信は確か今日だったはず。スマホを開いてみると、メールが一通、琴葉からだ。
「ちょっと興味あるかも。明日詳しく聞かせて?」
 おもわず笑っちゃった。何を悩んでいたんだろう。一人でキリキリして。自分の尻尾を追いかけるバカ犬かよ。ぐるぐる、頭も、心も、回した意味なんてなかった。目が回っただけ。まったく、くだらないことだった。
 でも、なんでだろう。タツヤと太平くんに違いなんて感じない。タツヤがキモいから? 太平くんは会ったことないから? 筋が通ってないから、やっぱりもやもやする。もやもや、ぐるぐる、そのまま片隅に固めて、忘れてしまおう。話はもちろん、もやもやも丸く収まったし、それでいいんだ。

 駄菓子屋でのバイトが終わって、星空を見ながら歩く。月は猫目の形をしている。長期休暇に入ってから、毎日バイトに行ってるもんだから、月の形くらいしか日の移ろいがわからない。まったく、昨日と今日と明日の違いがさっぱりわからない。今日が特別な日になってほしい。そんなふうに残り二時間の今日に期待する。
 家に帰ると食卓に、今日の晩ごはんの芋の味噌汁とサンマの塩焼き、それと大きな封筒。大学のマークが大きく印刷されていて、宛名は私行き。これはあれだろうか。留学の選考結果だろうか。厚い封筒に期待を込めて、えいやと力を込めると、あっけない程簡単に封筒は開いた。一番上にある薄い紙を取り出して、ぱっと目の前に広げた、小さく選考の結果と書かれた隣に太文字で、合格と書いてある。
 嬉しすぎる時、それ以外のことが分からなくなって、どう喜んでいいのかさっぱり分からず。ガッツポーズも、泣くのも忘れて、心の中で、受かった。受かったんだ。夏に行けるんだ。って、壊れたプレイヤーみたいに繰り返してしまう。
 とりあえず嬉しすぎるから、封筒にこの通知用紙はしまおう。大丈夫。大丈夫だよな。味噌汁の芋を食べて、噛みしめると喜びが溢れてきた。今日のバイトの疲れもどっかへ飛んで、サンマの塩焼きの肝が苦いのも美味しくて、とにかく笑いが漏れてしまう。母も父もおめでとうと言ってくれて、大学合格の時よりも嬉しい。
 ラインでえー兄に「留学選考受かったよ!」と送ってから、なにかお祝いがしたいと思って、晩御飯も食べたのに、コンビニへ向かった。ああ、今日の空は少し曇っていて美しい。猫目の月も雅で美しい。空で点滅する飛行機のランプも趣深くて美しい。
 コンビニの真っ白い光の中で、ショートケーキ二つパックが私を祝福するように残っていた。上に乗っかっているクランベリーが、真っ白なクリームの台地に灯る赤い炎のようだ。他になにか買うものがあるだろうか。お酒は飲みたくないし、雑誌には興味がない。でも、コンビニ本のニッチな内容は好きだから、ちょっとだけ見て回る。
「よっ、ちー子」
 マンガ雑誌を立ち読みしているおっさんから、いきなり声をかけられた。と思ったら、ジャージ姿のえー兄だった。いつものツナギを着ていなかったから、一瞬誰か分からず、睨んで返してしまい、えー兄をたじろがせてしまった。
「えー兄、何してるの?」
「別に。こんな遅くからケーキを食べるのか?」
「いいの。だって、今日は特別だから」
「誕生日だっけ?」
 とぼけるえー兄に、ローキックを軽く当てて「ライン見ろよ」と言ってやる。あいにく、えー兄は財布と鍵しか持っていなかった。仕方ないので、私の口から合格を報告してやると。「良かったなー」と頭をワシャワシャと撫でられて、ひどい髪型になる。私は犬かっての。もうちょっとレディとして扱ってもらいたい。
「えー兄はまだいる?」
「いや、俺もコーラでも買って出るわ。そうだ、そのケーキ奢ろうか? お祝いなんだろ?」
「だったら、別のがいい。もっと面白いものを探して、プレゼントしてよ」
「それだと、コーラキューカンバーになっちまうぞ?」
 コーラキューカンバーも興味あるけど、えー兄のセンスで選んでくれた小物がいい。それなら、お守りに夏へ持っていってやってもいい。
 えー兄はペットボトルのコーラを二本買って、一本を帰りながら飲んでいた。私がケーキを食べるのを驚いたくせに、自分はカロリーたっぷりのコーラを飲んでいるのがズルい。
「夜はちょっと冷えるね」
「夏に行ったら、こんな夜も恋しくなるさ」
「冬で恋しくなった?」
「んー」口を一文字に締めて、えー兄はこんなことにもぐっと考え込む。根が真面目なんだ。川に飛び込むのを、注意するような子供だった。飛び込むのはいつも太平くん一人だ。あれ? あれは私が叩き落としたんだっけ? 自分のことながら、恐ろしいことをしたものだ。
「あっちは寒かったけど、秋が恋しくなることはなかったな。寒いと頭がよく回るんだ。だから、頭の中はずっと数式でいっぱいでさ」
「うげ、私はそんなの無理かも」
「夏に行ったら、逆になるんじゃない?」くくくと笑うのが、案外憎たらしかった。
「アホになるっていうの? ひどいなあ」
「悪い、悪い。今のは誰にも言うなよ」
 えー兄が落ち葉処理を担当している公園に通りかかった。広いグラウンドと機関車の形をした遊具、ブランコも小さく置かれている。外灯がグラウンドを囲むようにぽつぽつとあって、必ず下にはベンチが置かれている。
「ちょっと話さないか?」とえー兄が言うので、出入り口近くのトイレ真横のベンチに座った。えー兄は座る時に、ゲフとゲップをしていた。全くロマンチックじゃなくて、それが私達だった。
「あー留学楽しみだな。色んな所へ行って、色々勉強しなきゃ」
「どこへ行ったって、こことそんなに変わりやしないさ」
「でも、海とかぜんぜん違うんだよ? プール以外で泳ぐなんて初めて」
 夏の海、きらめく波打ち際と熱い砂浜。海の中に飛び込みたくなるような、熱い空気が充満していて、体中に陽の光を浴びて水面に飛び込む。口の中がしょっぱくなるそうだ。夏の山もこことはぜんぜん違う。一面、緑の葉をつけた木々が立ち並ぶらしい。あのサクラもイチョウもモミジも、全て一様に緑だと言うから驚きだ。土のせいだろうか、それとも暑い気候のせいだろうか。
 えー兄はコーラを一口飲んで、ゲップも飲み込んだ。口からは刺激的なコーラの香りがしている。
「そういうところは旅行で行けばいいんだ。生活だ。生活こそが重要なんだ」
「まぁ、そうかもね」
「逆に言や、生活さえできれば大成功さ。辛くても泣くなよ」
「そんな、えー兄じゃあるまいし」
 私は笑って言ったけど、えー兄の顔はいつになくマジだったので「わかりました」ってこっちも少しマジになって言ってしまった。
「俺は泣いちまったからな。大層なことは言えないや」
「うっそ、そんなこと聞いたことなかった」
「嘘だからな」
 ニヒヒとしてやったりと笑う、えー兄があまりに愉快そうだったので、つい右手で背中を叩いてしまった。パァンと小気味いい音が無人のグラウンドに染み込んで、消えた。えー兄は持っていたコーラを落としてしまって、コーラも少しグラウンドに染み込んだ。
 そのコーラを拾い上げて、えー兄は何でも無いことのように飲んだ。太平くんみたいに怒られるのは楽だけど、こう何も言われないのは辛い。
「冬の生活は割と楽しかったんだ」
 コーラのボトルに付いた砂を払いながら、つぶやくように、えー兄は話し始めた。私は申し訳無さと興味で、静かに両手を膝において聞き漏らさないように、耳を傾けた。
「冬の名所を色々回ってさ。冬の山は灰色なんだ。木が葉をつけないから、幹の灰色がむき出しになるんだ。海もすごかった。海の上に氷のかたまりがいくつも浮いていてさ。どっかから、氷が流されてくるんだ。そんなことを四年間、見て回ったよ。それで、秋に帰る日、いろいろ思い出していたんだ。名所のこと、バイトのこと、大学のこと。そしたらふと気づいたんだ。俺は冬に来てなんにもしてないってことにさ。ただ、ガイドブック通りに冬にいただけ。留学で特別な人間になった気がしても、実のところ他国にいたってだけ。俺は半端な秋人でしかなかった」
「そんなことないよ。冬に住んでいた体験だけで、凄いことだよ」
「そんなことはない。いや、冬に住んでいたからこそ絡まった。半端に冬を知ってしまったから、俺の中の秋と冬が反発し合って、頭がひしゃげそうだった」
 えー兄は淡々と話すけれども、グラウンドについたコーラのシミを見る目が泣きそうだ。まるまる背中を擦ってやると、少し落ち着くようで、しばらく何も話さず二人でシミを見ていた。
「だから、ちー子には留学に負けないでほしい。何かを勝ち取ってきてほしいんだ」
「わかった。大丈夫、安心して、私にはカードもあるんだから」
「なんだそりゃ」って、私が留学したいと伝えた時と同じ風に笑って言ってくれた。カードゲームが世界をつなぐなんて、実は私は信じていない。今だって、大学の同級生とつなげてはくれない。だけど、このカードで、世界に思いを馳せることは許してほしい。

 強い日差し。サウナのように熱く蒸す空気。爽やかに少しツンとする匂い。これが夏。空港に入ると、外とは違って少し寒いくらいの冷風が吹いている。こんな設備、秋にはなかった。入国審査の細々とした書類のやり取りをすると「良い留学を」と、審査員のおじさんが言ってくれた。
 電話でホームステイ先に連絡すると、近くの駅まで迎えに来てくれることになった。空港からそこまでは、電車で直通している。夏の風景を見ながら来てちょうだい、と面白いことを言ってくれる人だ。
 大きなキャリーバックを転がして、駅のホームに行くと、遠くに山が見えた。霞がかっているが、たしかに緑色だ。西から東まで見渡しても、黄色い山なんて一つもない。ホームの壁には光る広告看板が貼ってあって、どれもモデルの人が短い袖から褐色の腕を伸ばしている。ホームで電車を待つ人も、殆どは褐色の肌をしていて、ビビットなカラーの服を上手く着こなしている。水色のTシャツを着た子供が、頭の上を飛んでいく飛行機を指さしている。その光景も、夏の日差しに当たると絵画のようになる。
 電車がやってきた。銀色の車体にワンポイント、ブルーのラインが走っている。秋にはない色使い。青色は低く濃い夏の青空と同じだ。入ってみると電車の中も涼しい。夏は暑いから、逆に涼しさを楽しむのだろう。秋からやってきた私には少し寒い。
 窓から見える町並みは秋とそんなに変わっては見えない。それでも、街の木々は緑の葉をつけていて、強い日差しが街をきらめかせている。窓をそっと触ってみると、熱さで手のひらがヒリヒリと痛い。これが暑いということなのか。
 約束の駅に降りると、早速の容赦ない暑さ。半袖シャツだけの中途半端なサラリーマンが、そそくさと日陰の方へと入っていく。エスカレーターまで移動する間でも、腕が汗でびしょびしょになった。なかなか乾かないのは、乾くよりも汗をかくスピードが早いからだろうか。
 改札となりでしゃがみこみ動けなくなったおじいさんに、警察官が話しかけている。さっきの半袖サラリーマンは、スマホを取り出して、どこかへ電話をしていた。薄っぺらいサンダルを履いた女性が、潰れた輪っかを持つ男性に駆け寄っていった。駅のコンコースにある金時計の前に立っている、赤みがかかったフェミニンなボブカットの、背が高く、褐色の肌がセクシーな女性が「千穂子ちゃん」と私の名前を読んだ。きっとあの人がホームステイ先の鈴木さんだろう。駆け寄って「鈴木さんよろしくおねがいします」と頭を下げてお願いをした。
 それじゃあ行こう、と鈴木さんに案内された駐車場には、大きなメタリックグリーンのSUVが置いてあった。秋では、こんなカラーの車が走っているのを見たことがない。えー兄のポップな赤いミニバンもまだまだ秋色だったんだ。後ろからキャリーケースを入れて、助手席に失礼します、と乗り込んだ。車の中は電車と違って、外の気温よりかなり暑く、ゴムの焼けるような臭いが少した。
「ああ、暑い。夏って暑いでしょう? 私が、鈴木陽子。これから六ヶ月よろしくね」
「町田千穂子です。暑いってこういうことなんですね」
「これ、渡しておくわ。夏じゃ必需品だから使って」
 渡されたのは、二本のスプレー缶。秋では見ないブランドのもので、何なのかさっぱりわからない。私が、二本のスプレー缶をまじまじと眺めていると、陽子さんが笑った。
「ごめん、ごめん。意地悪だったわ。その緑色のが制汗剤。汗の匂いを抑えてくれるの。それで白いのが日焼け止め。本当はクリームがメジャーなんだけど、スプレーは扱いやすいからね。早速使ってみて」
 へぇと思ってから、もしかして、私は汗臭かったのかなってちょっと気になった。車の中で悪いけど、日焼け止めを塗って、その上から制汗剤をかけた。シトラスの香りらしい。夏に来た時感じた、ちょっと酸っぱい匂いに似ていた。
 車から見る夏の街はとても明るい。ポップなカラーの看板や、袖がない服を着た大学生くらいの子、道路を修理している作業員のヘルメットから、白いてぬぐいがはみ出て、太陽の光を反射している。
「夏の街はまだ珍しい?」
「はい。こんな色合い初めてで、とても綺麗です」
「そう、よかったわ」陽子さんは前を見ながら、歯を見せて笑った。その歯も真っ白に、太陽の光を反射していて驚いた。ぜんぜん違う。えー兄、ぜんぜん秋とは違うよ。街の景色だけで、早くもノックアウトしそう。どうやって生活しよう。わかんないことだらけだ。こういうときこそ、啖呵を吐いて、バンと居直るしか無い。さぁ、夏よ、来てやったぞ。どうしてくれようか。
「さぁ、着いたわよ」陽子さんが連れてきてくれたのは、うちの家よりはちょっと小さい一軒家。南向きに庭があるのは一緒。でも、サクラの木はなく、代わりにツゲの生垣がある。陽子さんは、玄関横のルーフ付き駐車場に車を停めて、後ろから私のキャリーケースを取り出そうとしてくれた。でも、さすがにお世話になる身として、夏に住む者としてそれくらいは自分でやらせてもらう。ちょっと重いけど、これくらい平気。でも、私の腰以上の高さがあるキャリーケースを持ち上げて、玄関まで行くのはちょっと苦労した。
「いらっしゃい、どうぞ、我が家へ」
 白以外の壁紙の家に入るのは初めてだった。薄黄色の玄関が、とても明るく見えた。
「お邪魔します」
 他人の家なのだが、これから住む家に、お邪魔します、はちょっと違う感じがした。だけど、それ以外の言葉が思いつかないんだから仕方ない。
 二階の南西の部屋に案内された。ここが私の部屋になるようだ。薄い橙色と黄色の壁紙のせいか広く見える。シングルベッドが一つと、デスクと椅子のセットが一つ。それと、黄色のカーテンが掛かった窓の上に、白い長方体の機械がついていた。
「あれはクーラーっていうの。暑いからね、遠慮せずにあれで、この部屋を冷やしてちょうだい。このリモコンでオンオフできるけど、ここにいるときは、ずっとオンにしておいたほうがいいわ。暑さで死んじゃうからね」
 暑いくらいで、死んじゃうものなんだろうか。でも、夏に住む陽子さんが言うなら、本当なんだろう。フローリングの床にキャリーケースを置いて、カーテンを開けると、夏の強い日差しが、遠慮なくこの部屋に注ぎ込み、カッと暑くなった。
「クローゼットはここにあるから、好きに散らかしてちょうだい。一息ついたら、下に来て。お茶にでもしましょう」
 陽子さんが、部屋から出ていって。私は、まずベッドに飛び込んだ。薄い敷きパットが私の顔を跳ね返す。窓から注ぎ込む日光は秋よりも高いところから降り注いでいる。本当に、夏での生活が始まるんだ。怖気づいていた気分の下から、高揚感がボコボコと湧いて心の中をぐるぐるとかき混ぜて、不安もバラバラに溶けきった。
 キャリーケースを開けると、秋から持ってきた長袖の服たち、ボトムスはともかく、トップスはこれでは暑苦しい。いくら薄手のを持ってきたと言っても、街で見た人々の格好から浮いてしまうのは必死だ。これはどこかに買いに行かねばならない。さっそく散財してしまいそう。いいか、やっとこれた夏なんだから。
 本と歯ブラシ、えー兄が出発間際にくれたプレゼント。これは夏で開けてくれと言われたから、秋の赤い色紙に包まれたままだ。それも、後で開けようとデスクの上に出しておく。あと、使えそうなものは、メイク道具くらいか。さて、どうしようか。考えても仕方ない。下で待っている陽子さんのお茶にお呼ばれさせてもらうことにしよう。
 トントンと音を立てて、階段を降りていくと、ガチャリと廊下の先の扉を開けて陽子さんが手招きしてくれた。ここがダイニングらしい。クーラーのおかげか、大きな窓から陽の光がたっぷり入ってくるのに、とても涼しい。
 四人がけの食卓の上に、温かい紅茶が二つと、ビスケットが一袋、それと柿のような橙色の透き通ったクリームがジャムの瓶に入ったもの。陽子さんが、ビスケットにそのクリームを乗せて食べるので、見よう見まねで乗せて食べてみると、予想外の酸っぱさでも、そのあとに優しい甘さがじんわりとくる。爽やかな果物の香り。あ、夏の香りに似ている。これは夏の食べ物なんだ。
「これ、オレンジカードっていうの。オレンジ、って言ってもわからないか。大きなミカンみたいな果物なんだけどね。夏が詰まってるみたいでしょ?」
「美味しいです。なんていうか、夏の匂いがするっていうか」
「そう、なら良かった。私の好きな味なんだ」
 紅茶のほうも、秋ではまず出ないような、温かいのにすぅっと涼しくなるような味がした。ミントティーというらしい。ティーバックのお茶だから感心しないで、なんて言うが、これ自体が私にとっては発見だ。
「それじゃ、千穂子ちゃん。ハウスルールを確認しましょうか」
 陽子さんはシングルマザーで、普段は日中仕事があって家にいないこと。私と同い年の紅音さんも住んでいること。家事は分担制のことと、当然それに私も組み込まれること。でも、夏に馴れるまでは、朝と夕のご飯は陽子さんが作ること。大雑把にこんなことを約束した。
「それと、最後に何だけどね」
「なんですか?」
「がっかりするかもしれないけど、私は秋出身なの。だから、夏のことにちょっと疎いかも。紅音は生まれてからずっと夏だから、いろいろと教えてもらってね」
 私はそんなことに全く気づかなかった。日焼けした肌に、薄黄色の壁紙の家、オレンジカード。どれも、私にとって夏だ。陽子さんが、秋出身だからどうだというのだ。そんなことでがっかりするほど、小さな人間じゃない。いや、がっかりするやつは人間じゃない。ここはたしかに夏で、陽子さんは魅力的なまでに夏だ。
「あの、この辺りにショッピングモールってあります?」
「ふふ、分かるわ。服がないんでしょう? いいわ、今から一緒に行きましょう。車でちょっと行ったら、ショッピングモールも、安いファッションストアもあるわ」

 思い切って買った、ピンク色の半袖のシャツを着ると、袖から出る白い肌が、少し弱々しく感じた。陽子さんは、日焼けなんてするもんじゃないと言うが、あの力強い肌には憧れる。
 ショッピングモールには、私の知らないブランドがたくさん入っていた。アクセサリーや小物なんかも秋とは違い、ビビットな物が多い。特にフレグランスの違いには驚いた。秋ではウッド系のかすれたような香りばかり、琴葉と買った春のフレグランスが、甘い香りだったのにも驚いたが、ここのはスカッとするような、強いけどすっと抜ける、そうオレンジの香りのようにパッとまばゆい香りだった。
 クローゼットに付いていた鏡で、買ってきた服を合わせてみて、一人ファッションショーを開催しているが、審査員の私の評価は低い。もうちょっと挑戦してみてよかったんじゃないか? おへそを出してみるのもよかったかも。でも、かなり恥ずかしい。やっぱり、日焼けした肌じゃないと合わないなあなんて、ちゃぶ台をひっくり返すような声も聞こえる。いつかへそ出しもしてやろう、その前に水着にも挑戦して、体を焼いてやろう。やりたいことはたくさん、やるべきこともたくさん、ああ、これから忙しくなるぞ。
 一階から美味しそうな香りがしてきた。外はまだ明るい。だけど、時間はもう六時を過ぎている。夕ご飯の支度をしているなら、手伝ったほうがいいかな。家だと全部、母親任せだから、手伝うってことがなんかむず痒い。
「なにか手伝うことありますか?」手伝うことなんてあるに決まっているのに、聞いたことが恥ずかしい。恥ずかしいと思う不器用さが、小学生だ。
「それじゃあ、キュウリでも切ってもらいましょうか。下処理の仕方見て覚えてね」
 陽子さんは、冷蔵庫から緑色で細長いイボイボが付いた、ちょっとグロテスクな野菜を取り出した。まずは普通に水で洗い、それから、まな板の上に置いたキュウリの上からちょっと多めに塩をふりかけた。まな板の上で塩の付いたキュウリをゴロゴロと転がすと、イボイボが取れて、緑色が濃くなっていく。適当、陽子さんはテキトーって口で言ったけど、そこまで転がしたら、また水で洗う。これがキュウリの下処理だそうだ。
 見よう見まねで、まずはキュウリを持ってみると、重そうな濃い緑をしているのに、意外に軽い。三本くらいを水で洗って、下処理をする。ゴロゴロしていると、ぼつぼつしたイボイボの感触がなくなっていく。これがテキトーということなんだろう。塩を付けたまま食べても美味しいらしいが、今日はサラダにするから塩を落として、薄切りにしてほしいと頼まれた。
 よし、と肩に力を込めて、キュウリを垂直にタンと切る。本当に、キッチンにタンという音が鳴った。それはもう見事に。今のは端っこだから多少太くても大丈夫。でも、次は薄いから、どうやって猫の手で押さえればいいだろう。爪先で、キュウリの端、二ミリくらいを押さえて、包丁を下ろす。なんとか円形のキュウリが切り上がる。
「千穂子ちゃん。料理ってしてた?」
「いえ、あんまり。でも大丈夫ですよ。包丁くらい、小学生だって使いますし」
 タンとまた包丁を下ろした。ちゃんと二ミリの厚さで切れている。久しぶりにしてはいい調子じゃないだろうか。
 だけど、陽子さんに代わってほしいと言われたので、包丁を渡すと、切り落とす方ではなく、キュウリ本体のほうを猫の手で持った。包丁が踊るようにスッ、スッ、と美しい音を立ててキュウリが薄切りになっていく。鮮やかな手さばきに思わず拍手をしたくなる。そっちを持てばよかったのか。
「ちょっと千穂子ちゃん、包丁を持ってみて」
 私はまな板の前で、普通に包丁を持つ。後ろから、陽子さんの手が伸びてきて、私の両手を掴む。耳元で陽子さんの声が聞こえる。左手は猫の手で、ちゃんと切るものを押さえて、手に力が入りすぎ、もっとリラックスして、そう、力入れなくていいの、そしたら、包丁をこう引くように切って。そうそう、力はいらないの、スッと引く。これが重要だからね。自分の手じゃないみたいに動くのが、なんか不思議だ。面白いくらいに気持ちよく、キュウリが切れていく。もう、陽子さんの腕はないけど、キュウリを切ることなら任せてくれ、てやんでい、って感じ。下処理したキュウリ全部、スイスイ薄切りにしてみせた。
 陽子さんが何を作っているのか見せてもらうと、鍋の中は真っ赤、ポークビーンズを作っているらしい。だけど、ポークビーンズという料理自体が馴染みがない。それに、こんな真っ赤な煮込み料理は、ちょっとおどろおどろしい。夏では、トマトという真っ赤な野菜を、そのまま食べたり、ソースによく使うそうだ。赤いと言うとどうも辛いイメージがする。だけど、味見させてもらった味は、甘酸っぱく独特の深いコクがあった。
「週末のどっちかで、スーパーに一緒に行こうか。料理の練習もしてもらわないとね」
「そうですね。夏の野菜とかさっぱりわからないですし」
 炊飯器が陽気なメロディを奏でる。ご飯も炊きあがった。さっきのキュウリは薄緑色の葉野菜と真っ赤で玉のようにコロコロした野菜で、サラダが作られた。あの赤い野菜はトマトだろうか。さっそく、生で食べられるのは嬉しい。
 テーブルに食器を並べていると、ガチャリと玄関の扉が開く音がした。何気なく、体が硬直して、緊張する。ダイニングの扉を開けたのは、陽子さんと同じ綺麗な褐色な肌に高めの背丈、明るくメッシュに髪を染めたボーイッシュなショート、肩を出した黄色のノースリーブに、足の付根くらいまでくらいしか裾のないデニムのパンツを着た、最高に夏の日差しを楽しんでいる女性だった。
 彼女との間にある空気が淀んでいくようで、とっさに声が出ない。同じくらいの女性といえば、この家には紅音さんしかいない。こういうコーデをするのが夏の正解だったかあー。あー挑戦すべきだった。
「ども」
 軽々と淀んだ空気を飛び越して、彼女は軽く挨拶した。「はじめまして」と言えればよかったものの、私はついつい「おす」と答えてしまった。
「ちゃんと挨拶しなさい。紅音」
「わかってるよ。ハジメマシテ。アタシが鈴木紅音」
「はじめまして。町田千穂子です。秋からやってきました」
「秋、秋か。これから、よろしく」
 手のひらをひらひらさせて、それだけ言うと、椅子に座ってすでに自分の箸を取り出している。太平くんみたいだ。あっちなら、こっちが上手に出れるけど、彼女にはどうも、私も怖気づいてしまう。やっぱり、このタイプとは距離感がわからない。だれか、若者用心の老眼鏡を持ってきておくれ。
 食卓にはサラダと平皿に盛られたご飯、この場合ライスか? それと、メインディッシュのポークビーンズが白い陶器のボウルによそわれている。いただきますと言ったものの、ポークビーンズの食べ方がわからない。サラダから食べていると、陽子さんが、ポークビーンズをライスの上にかけて、カレーライスのように食べ始めたので、それを真似させてもらう。ポークビーンズライスはカレーというよりハヤシライスに近い味だ。あれより、酸味と甘味が、ぐいんと伸びている感じ。
「アタシは、これをかけるのは無理だわ」
 私達が美味しそうに食べてるのをみて、紅音さんがぼそっと言った。
「というか、ポークビーンズって好きじゃないんだよね」
 スプーンを口に入れて、眉間にシワを寄せた。生気のない目でライスを見つめている。なんかどっかで見たことがある。昔、ひな祭りのお祝いで、うちに呼ばれたえー兄が、お寿司にわさびが入っているのを知って、悲しんでいた時の目だ。ちなみに、太平くんは平気にトロを食べていた。
「もしかして、トマトが苦手なんですか?」
「そういうわけじゃないけどさ」
 もう一口、ポークビーンズを食べるが、やっぱり眉間にシワが寄ってしまうようだ。
「この子が苦手なのは、ピーマンなのよ」
「ちょ、言うなよ」と慌てる紅音さんは、第一印象よりも可愛らしく見える。
「これに刻んで入っているのが分かるみたい。昔からその野菜がダメなのよ。だけど、栄養があるから食べてもらわないと、ね」
「ピーマンくらい食べられなくても、死ぬわけじゃないじゃん。いつも入れやがって」
「お母さんって、どこもそうなんですね。私も、しいたけが苦手なんですけど、煮物にだいたい入ってるんですよね。もう、臭いだけで食べたくないっていうのに」
 陽子さんはあらあらと笑って、紅音さんはうんうんと頷いている。私にはポークビーンズに入ったピーマンとやらが、どんな味を出しているのか、さっぱりわからないし、これはお世辞抜きに美味しいが、嫌いなものは嫌いなわけで、それを食べたくない気持ちは嫌になるほどわかる。嫌いなものが刻んであるほど、怒りが増すというのもよくわかる。
 結局、なんだかんだ言いながら、紅音さんはポークビーンズを残さず食べた。私が、しいたけ料理を出されたら、確実に残すから、彼女はとても偉い。それに、当番だからと、食器洗いを進んでやるのも、私よりカッコいい。
 お風呂の時間になって、さすがに居候させてもらってる手前、先に風呂に入る訳にはいかない、と雰囲気を醸し出して、ダイニングの椅子に座り、テレビを見つめていた。そうしたら、じれったくなったのか先に陽子さんが入ることになり、私はダイニングで紅音さんとテレビを眺めることになった。テレビ番組を見ていると、彼女より更に眩しい夏の女性たちが出てくる。海でサーフィンをやっていただとか、今日は彼氏と夕日を見に来たとか、キラキラしすぎて、もうすげーとしか言えない。
「なあ」テレビを頬杖ついて見ていた紅音さんが、目線も変えずに呼びかけるので、ちょっとビクリとした。
「あんた面白い人だな。大抵の留学生は、母さんの肩を持つか笑ってごまかすんだ。あんなことを言ったのは、あんたが初めてだ」
「そんなことはないですよ。たまたまです」
「そんな硬い言い方は辞めてくれよ。私のことは、紅音って呼んでくれいいからさ。アタシも千穂子って呼ぶし」
 それが、紅音の留学生に対する対応術なのかわからないが、そのざっくばらんとした態度は気持ちがいい。何に例えよう、暑い外から帰ってきた時のクーラーのようだ、と言おうか。
「それじゃ。ピーマンってどんな野菜なの?」
「悪魔みたいな顔をした緑色の野菜さ。苦くて臭くてもう最悪。小学生の嫌いなものランキングは不動の一位。なのに、母さんは食べさせようとするんだ」
「へぇ、私は苦いとか分からなかったな。私が嫌いなしいたけはね、」
「知ってる。肉厚なきのこだろ。爺ちゃん家で何度か食べたことがある」
 そう言えば、陽子さんは秋出身なのだった。それなら、紅音がしいたけを知っていても頷ける。頷けるけど、料理には入れないでほしい。陽子さんにもお願いしたいが、ピーマンを入れる人だしなあ。
「ま、ピーマンはまだいいんだよ。我慢すれば食べられるからさ」
「というと、もっと嫌いなものがあるの?」
「ある。さつまいもだけは、食べられないんだ」

 学校のガイダンスまであと三日もある。夏に来たら、行きたいところがいっぱいあったはずなのに、部屋でえー兄からのプレゼントの中身だった、マンガのそれも一巻だけを何度も読み返していた。暑いということが、こんなにも体に堪えるとは思わなかった。近所を散歩して、駄菓子屋を探していただけだと言うのに、頭がクラクラして、しまいには上手いこと舌が回らなくなった。それで、急いでコンビニに駆け込んで、お茶を飲みながらイートインで休ませてもらった。そのお茶も、茶色いお茶なのでほうじ茶かと思ったら、全く違う苦味がして、ああ異国の洗礼を受けていると感じたものだ。
 結局、駄菓子屋も見つけられず、家に退散して、夏の暑さに降参。開始一ラウンドでノックアウトさせられた気分で、部屋のベッドに沈んでいたら、えー兄からのプレゼントが目に留まり、開けてみた。そしたら、えー兄が好きそうな、見たこともないレーベルの、聞いたこともないタイトルのマンガの完全版、それも一巻だけが入っていた。
 教科書を読む気もしないから、それをパラパラと眺めてみたが、面白いのかさっぱりわからない。ギターを嫌う少年と、元天才ボーカルが、出会い響き合う話。こんなありきたりな話、何度読んだって感動しないと、悪態をついているのに、裏腹に読み返している。それも何度も。だから、面白いなんて言ってやりたくないのに、このマンガは面白いかもしれない。それをなんと言っていいのかわからない。
 スマホがティロンと短くなった。今の時間ならニュースアプリじゃなくて、メールかもしれない。でも、充電しているスマホの近くまで行くのもだるくて面倒くさい。まだ、ここに来てだれにもアドレスを教えてないから、どうせ大したものじゃない。マンガを読むのも馬鹿らしくなって、寝っ転がったまま、デスクにマンガを投げて置こうとしたが、飛距離が足らずに床に落ちた。もう、このまま昼寝でもしてしまおうと目を閉じた。
 目を閉じて、体の神経が鋭くなっていくと、神経が自分の体を超えて、ベッドを超えて、床のマンガを捉えたり、メールの受信を知らせるランプがチカチカ光っているスマホに届いたりする。どうにも気になって仕方ない。これじゃゆっくり眠れやしない。ベッドから立ち上がって、マンガを拾い上げてデスクに置き、スマホのロックを解除してメールを見た。太平くんからだ。
 どうせ、商売の話なんだろうな。開く前から予想はしていたけど、ばっちり。まさにその話。夏はどんな感じだーとか、寂しいって思ってんじゃねえのとか、そういう前置きもなく、短く、夏のもので売れそうなものない? これだけ。分かっちゃいたけど寂しい。それでも、私は優しいからオレンジカードのことを短く書いて返事をしておいた。追伸に陽子さんと紅音のことをほんの少しだけ書かせてもらった。陽子さんは秋出身なのに夏で雑誌を作っていて、夏の料理にもとても詳しい。紅音は第一印象は太平くんだったが、今ではえー兄によく似ているところが目に留まる。もちろん格好じゃなくて性格がだ。ちょっとオラついてみたり、そのくせちょっと弱気なのがとても似ている。
 このままの勢いでえー兄にラインを送ろうかと思ったけど、今送ったらプレゼントのマンガに話が取られちゃいそうでやめた。もっと話すことができてから送ろう。そう思うと、この部屋にいるのが、もったいなく思えてきてしょうがない。ショッピングモールにでも行って、行ってどうしよう。服は買ったばかりだし、雑貨は欲しくない。それでも、街中で行くところはそんなところしか知らない。駄菓子屋すら存在しないんだから。
 調べてみるとショッピングモールは結構遠かった。歩いたら一五分くらい。多分、暑いからもっとかかるだろう。でも、この部屋には居たくない。制汗剤と日焼け止めをもう一度吹き付けて、クーラーを切って退路を断ち、外へと飛び出したら、段差でけつまずいて転びかけた。こんな焼ける鉄板みたいなアスファルトと、熱いキスはしたくない。
 三時を過ぎたというのに、日差しは強く、動けているのがおかしいくらい暑い。鼻の奥がヒリヒリする。もしかしたら、熱い空気で焼けたんじゃないか。夏の木が緑の葉っぱをたくさんつけるのは、私達に日陰をサービスするためだろう。街路樹の下は幾分涼しい。だけど、上の方からノイズのようなうるさい音が鳴り響いていて、耳からも暑くて仕方ない。それに、風が吹くと最悪だ。じっとりとまとわりつくような熱い空気が、日陰にまで入り込んでくる。風が気持ちいいなんてお話だけの話だったんだ。
 ひいふう、なんとかモールにたどり着いた。私達の街にはこんな大きなところはなく、せいぜい駄菓子屋が入っている二階建ての建物くらいだった。でも、この道を歩いてくると、こんなに大きなモールを作る意味がわかる。外を歩いて買い物など、ここでは不可能。モールのように、クーラー付きの建物に入ってようやく、店を回ってみようという気が起きる。
 頭の天辺が熱くて仕方ない。今なら、髪の毛の上で目玉焼きが作れそうだ。ひとまずは、フードコートに避難させてもらおう。喉がカラカラ、お腹は減っていないが、おやつになにかつまみたい気分でもある。
 フードコートにはいろんな店がある。秋にもあったドーナツや、うどんもあるし、見たことないオシャレなサンドイッチや、カレーもあった。サンドイッチは注文すると、細長いバゲットのようなパンに野菜を挟んでくれる。野菜ケースには秋で見る野菜は一つもなく、名前がわかるのはトマトとピーマンくらいだけ。聞いたこともないアボカドシュリンプサンドを頼むと、苦手なお野菜はありますか? と聞かれたけれど、どれが苦手な野菜なのかもさっぱりわからないので、全部入れてもらった。
 それと、オレンジジュースを頼んで席に座ったが、サンドイッチが思ったより大きくて驚いた。エビがシュリンプだというのは分かるが、アボカドとはこの緑色の物体のことだろうか。ひとつつまんで、食べてみると、油っこくないバターのような味。上手く伝えろと言われれば困る味。こんなものが美味しいのか、不安になったが、かぶりついてみると、これがエビと合う。アボカドは、エビのために作られたんじゃないか、と思うほど驚かされる。さっきのケースで見た、輪切りのピーマンをつまんで食べてみる。ちょっと苦くて、ほんの少しだけピリッとする。確かに香りは癖がある。だけど、私は好きだ。
 サンドイッチを半分ほど食べたら、少しお腹が張ってきたから、一息つくために下ろして、オレンジジュースを手にとった。オレンジカードよりも酸っぱいけど、夏の暑さにはぴったりだ。氷の入ったジュースを飲んでいると頭が冷えてきて、だんだん、誰かから見られているような感覚が出てきた。周りを見てみるけど、誰も私を見ているわけじゃない。だけど、それは違った。サンドイッチを食べているだけで、通り過ぎて行くキャラクターのTシャツを着た女子も、あそこでピザを食べている母子連れも、パソコンで仕事をしているおじさんも、私の顔を見てくる。誰も見ていないのではなく、誰もが見ていた。私の顔に何がついているっていうんだ。
 ムカついたから、私も誰も彼もを見てやった。みんなが褐色の肌に、明るい色の服を着ている。そのハイコントラストが美しく、ひどく羨ましい。そうか、私は肌が白すぎるのか。そんなくらいで、わざわざ顔を覗いてくるなんて。だけど、この感じを私は知っている。琴葉を見るタツヤの目だ。あいつほどひどくはないが、誰も彼も、弱々しい好奇心、という美辞麗句を使って野次馬根性で見てくる。お腹は張っていたが、サンドイッチを詰め込み、この嫌味なフードコートから出てやった。
 前にここに来たときは、陽子さんと一緒だったから、そんなに気にならなかったけど、すれ違うだけで、振り返られることに馴れない。ホイップした生クリームをパイに塗りたくり、振り返ったやつの顔にぶつけて、お前も白いだろうと言ってやりたい。
 それでも、人間というのはどんどん鈍感になっていくもので、モールを一周した頃にはそんな目にも馴れてしまった、いや、正確には馴れていない、諦めることができるようになっていた。商品を見る余裕も出てきて、秋でも使えそうな、白いリボンが可愛いストローハットを見つけた。あの日差しに勝ち越してやるためには、装備を整えるのがゲームの定石、私は迷いもなく買った。店員は、装備しなくちゃ意味がない、とは言ってくれなかった。
 意外なことに、一階に秋のグッズを扱う店があった。さつまいものタルトや、枯れ葉の栞、焼き芋の缶ジュースなんてものもあった。どの品も空港の土産屋でしか見たことがない。名所に行けばかならずあるはずの、銘が刻まれた木刀とかは置いてない。そんなものがコレクションで置いてあったら、秋のお土産の少なさに嘆いてしまいそうだ。
 三階には本屋があった。夏のファッション誌にはモデルがスカイブルーやホワイトの光るような色を着て、眩しい白い歯を光らせていた。ゆったりとした服が多いかと思えば、紅音みたいに肌を見せるコーデもある。でも、こんな服を着れるのは肌が綺麗な人だけだ、私みたいに弱々しい、白い肌には似合わなさそうだ。
 小説コーナーはいわゆる教科書で学ぶような、文学小説は秋と同じタイトルが置いてあったけど、ほとんどは聞いたことがない人の小説。青春小説が二つの棚を占めるように、並んでいるのには驚いた。秋だと、結構サスペンス小説が人気でよく見かけたが、夏だとそれが青春小説に変わるようだ。そういえば、えー兄が前に冬でミステリー小説ばかり読んだと聞いたから、こういうのにもお国柄というやつが出るんだろうな。
 マンガコーナーは一番私に馴染み深い。やっぱりメジャー誌のマンガはあっちと同じく最新刊まで並んでいる。「サカマキ排球団」なんて、来る前に読んだ巻と全く同じものが置いてある。えー兄くれたマンガの完全版は、新刊が平積みしてある机の上にもなく、フェアの棚にもなかった。よくよく探してみると、マイナー作品の新刊棚に、ひっそり差し込まれていた。一巻しか出ていないから、これから出ていくマンガなのだろうか。
 ここでは、何冊かファッション誌を買っていった。私と同じ年代のやつと、ちょっと上のやつ。私より若い子向けの雑誌は、見ると落ち込みそうで止めた。ちょっと青春小説を読んでみようかとも思ったが、どれが面白い小説なのかさっぱりわからないし、フェアの棚にある小説をちょっと立ち読みしたが、名詞がわからないことが多くて挫折した。
 外に出てみると、まだ日が昇っていて明るい。でも、来たときよりも少し涼しくなり、太陽の光も黄色がかって見えた。ストローハットを早速かぶってみると、これだけで大分快適。夏に生きるとは、太陽との戦いなんだと、どっかの特撮ヒーローがいいそうなセリフを思いついて、一人思いつき笑いをした。見られているのを思い出して、しまったと思ったがもう遅い、なにもないのにニヤニヤしている変な人ができあがってしまう。
 歩くのに余裕が出てくると、風景が頭に入ってくる。街路樹のある通りには、学習塾の看板や、氷と一字だけ入った涼し気な暖簾がある。あの暖簾は何の意味があるのだろうか。氷と書いてあるところから見るに、暑さ祓いの意味でも込められていそうだ。
 この推理が正しいか、料理当番で早く帰ってきている紅音に尋ねてみたら、そりゃかき氷の旗だと、笑われた。なんでも、氷を細かく削って、上からシロップをかけたお菓子らしい。どんな味か聞いてみても、ありゃ店によってぜんぜん違うと言う。砂糖のシロップがそのままかかってる所があれば、果実のシロップをかけるところもある。凄いところだと、フリーズドライの果実パウダーをかけたりするそうだ。だけど、そんないいものを出す店はこの辺りにはない、とはっきり言われた。なにか手伝おうか、と言う私の言葉も、私の手に余る、とはっきり断られた。

 大学ってのは、秋も夏も変わりやしない。教授の話はやっぱり面白くないし、ほとんどの学生はチャイムが鳴るのを今か今かと待っている。私は、真面目に聞いてはいるが、時々入る夏の文化の話がさっぱりわからず、メモを取っては後で調べる毎日だ。
 それでも、大学で不自由をしているわけじゃない。昼ごはんを一緒に食べる友だちもいるし、休み時間に一緒に移動する話仲間もいる。この大学に完全に溶け込んでいると思うけど、私の肌は相変わらず白くて、健康的な小麦色の日焼けした肌が羨ましくて仕方ない。この前なんか、透き通った雲のようにきれいな肌だね、と言い寄ってきた男がいたけど、その言葉にあんまりに白けちゃって、あ、そうですか、ありがとうございます、それではまた、ってその場から離れた。後で友達にキモい目にあったと愚痴をこぼしたけど、それは褒め言葉だよなんて言うから、わかってくれたかわからない。
 それで、私はとにかく肌を焼きたいとばかり考えていた。だけど、運動部員みたいに真っ黒に焼けるのは嫌で、夏にいてもおかしくない程度に軽く焼きたいだけだった。日焼け止めをやめればすぐにでも焼けると思うけど、陽子さんはゆっくり焼いてかないと痛い目を見るわよ、比喩じゃなくてね、なんていうから怖くて塗らないってことはできない。
「はあ」今日の夕御飯、ナスの回鍋肉を作りながら思わずため息を吐いてしまう。
「何、悩んでいるか当ててやろうか」
 ダイニングで麦茶を飲みながらテレビを見ていた紅音が、ニヤッと笑いながらこちらを向いた。なんでもお見通しという顔をしているのがちょっとイラッときた。
「早く日焼けしたいなぁ。肌が白いと浮いちゃうなぁ。そうだろ?」
 聞きもしないのに、紅音は私の心を当てやがる。そのせいで、恥ずかしくなって、当たりと言うことも、ハズレとうそぶくこともできやしない。ただ、回鍋肉が焦げないように、炒め続けている。
「気休めにもならないけどさ、ここに来る留学生のほとんどは、それに悩むんだよな。別に住むわけでなし、気にする必要なんてないのにさ」
「気になるよ。みんなから見られてさ」
 炒めすぎた回鍋肉は味噌スープのようになってしまった。ナスが縮んでシナシナになっている。火を止めて、キュウリの浅漬けの方を味見してみると、ちょうどいい塩梅なので、小鉢の上に取り出しておいた。
「秋の人間が、夏の人間になるなんてどだい無理なんだよ」
「陽子さんはどこからどう見ても夏じゃん」
「母さんがそう見えるってことは、まだ夏じゃないってことさ」
 紅音は麦茶をコクリと飲んだ。そりゃ私は紅音みたいに夏で生まれたわけじゃないし、夏での生活もまだ一ヶ月くらい、夏人なんて言えやしない。それだからって、上から言う態度にちょっと呆れる。今からピーマンを回鍋肉に足してやろうか。
 紅音の向かいの椅子にドカリと不満げに座ると、麦茶をついでくれた。冷蔵庫から出してしばらく立っているけど、部屋がクーラーで涼しいから、まだ冷たさを保っている。この特徴的なほうじ茶と違う苦味が、最初は違和感あったけど、今じゃなかなか美味しいと思えるようになった。一杯飲み干すと、大分心が落ち着いた。
「夏っていいところじゃないだろ?」
 そんなふうに紅音に尋ねられるけど、どう答えていいものか言葉に詰まった。来たばかりの頃なら、暑さも人々も全て含めてすごくいいと言えたものだけど、今いろいろわかってからは、なかなか手放しにいいとは言うことはできなかった。それでも、何も言えないのが紅音の求めている答えだと思うと、外してやれと小学生な私が言う。
「夏はいいところじゃないんだよ。どこの国も同じさ。どこもクソみたいなところしかない」
 大きく伸びをして、あくびもついでにして、紅音は吐き捨てて、キッチンの冷蔵庫へと立った。冷凍室をごそごそやっているから、アイスクリームでも探しているのか。戻ってきて、私にもチョコレートがコーティングされた棒アイスを差し出した。
「紅音は秋に行ったことあるの?」
「そりゃね。爺ちゃん家はそっちだから、長期休暇の度に行ってた。孫ってだけでかわいがってもらえるし、悪くはなかったな」
「じゃあ、さつまいもはその時に食べたんだ」
「一回だけね。こんな甘くて美味しいものがあるんだって思ったよ。その時はさ」
「それじゃ、好きなんじゃん」あれが冗談だったとわかって、笑ってると紅音はむくれたような顔をして、アイスクリームをかじった。本当に嫌いなのかもしれないと、その顔を見たら思った。
「アタシはさつまいもが嫌いだよ。それだけは本当だ」
 真剣な顔で言うので、それから先は聞くことができなかった。ちょうど陽子さんが帰ってきたので、晩ごはんの準備を二人で手分けしてやった。その時も、紅音は何も喋らなかった。ただ、ん、と言うだけだ。水っぽくなった回鍋肉を、皿によそうのはちょっとむずかしかった。
 陽子さんは回鍋肉を独特な味ねと褒めてくれた。紅音は料理について何も言わないけど、また、くだらない笑い話をし始めた。テレビで良水町のスイカ特集をやっていたとか、今度はもう少し明るい色に髪を染めたいとか、そんなこと。私も負けずに、髪を染めてみようかなと言ってみるが、それなら暗めがいいな、と無難なことを言われるのが、がっかりだ。
 お皿の片付けは陽子さんの当番だったので、ぐだぐだ、紅音と髪の色の話を、あの色がいい、それはダサいから止めたほうがいいと話していた。服もそろそろ新しいのに挑戦したかったから、紅音を買い物に誘ってみたら、だったら街にでたほうが楽しいと、いろいろ連れて行ってもらえることになった。こりゃ、また散財しそう。今月はおやつは我慢しないといけなさそうだ。

 街ってのは、どこの国でも背の高いビルが、ガラスの壁で陽の光を反射しているものらしい。大きな雲の浮かぶ真っ青な低い空を写しながら、ビルは意識など持たずにただ立っている。歩道は街路樹とビルの日陰のおかげで、家の方よりも幾分歩きやすい。私と同じようなストローハットをかぶった、ヒゲをはやした男が、君、肌白いね、とかっこ悪いナンパをしてきたけど、紅音が凄むと、おずおずと引き下がっていった。
 紅音がおすすめするショップは、かなりイケてるパーリーピーポーが着ていそうなブランドばかりだ。正直、小学生とカードゲームをやっているような私には似合いそうにない。だけど、夏に来たのだから、これくらい挑戦してみるのも経験か? とざわめくけど、試着の段階に来ると、白く弱々しい肌を見せるのが恥ずかしくて、なかなか見せる気にもなれない。でも、これは秋っぽい黄色なんだからきっと似合ってる、と自分を鼓舞して、えいやとカーテンを開けて紅音に意見を求めると、やっぱり似合っているよ、と言ってくれた。ボーイッシュな彼女に言われると、惚れてしまいそうだ。結局そこでは三着のトップスと、ショートのパンツを二着買ってしまった。いい買い物したじゃん、と言うが、私には本当にこれを着るのか、という不安がちょっと隅っこに残っていた。
 それから、寄ったのは竹の装飾が特徴的な茶屋。そこはあんみつが有名らしいけど、隠れ人気は豆かんの入ったミルクのかき氷だと教えてもらった。頼んでみると、器からはみ出るほど、こんもり盛られた細かい氷の上から白いミルクがかかっている。口に入れてみると、スッと氷が溶けて、ミルクのコクのある甘さがふわっと広がる。美味しい、と声にして、紅音をみると自慢げに笑っていた。
 ワンフロア全て本ばかりのこのエリア最大の本屋にも寄らせてもらった。いろいろ名前を覚えた今なら読めなかった青春小説を読めるかもしれない、それに、えー兄がプレゼントしてくれたマンガの続きもついでに買って行きたかった。この本屋には色々な本がおいてある。秋の出版社が出した本も一つの棚を使って紹介されているし、青春小説に至っては一列全て、フェアが開催されて、平に並べてある。
 作者を知らない小説を選ぶのは、勘と表紙だけが頼りだ。ピンときたら、裏のあらすじを読んで面白そうなのを選ぶ。感動とか感涙とか書いてあるのはあまり好きじゃない。そんなものは、秋でも似たものがある。そんなチープな感情より、なんとも言えない感情が沸き立つものがほしい。真剣に選んでいると、紅音は飽きたらしく、雑誌のところにいるね、とそっちに行ってしまった。パステルグリーンの背表紙の小説が、タイトルから何かを匂わせていて、つい手にとった。あまり夏らしくない表紙絵と、思いっきり夏っぽいあらすじが面白い。こいつは掘り出し物かもしれぬ。期待を持ってそれを買うことにした。
 マンガーコーナーは規模が家の近くのショッピングモールとほとんど同じだった。なんで、本屋なのにマンガを軽視するのか。これがわからない。新刊コーナーの平積みされている所には、やっぱりあのマンガは置いてない。なら、マイナー本の新刊コーナーはと思ったが、そんな棚はなかった。あっちのほうが充実しているじゃないかウドの大木。不満が口から零れ落ちそうだったけど、出版社を調べて、それが置いてあるコーナーを見てみると、完全版の二巻がちゃんと置いてあった。
 会計を済ませて、雑誌コーナーに行くと、紅音のファッションとは合わない、年上向けのちょっと高級なファッション誌を読んでいた。
「そういうのに興味あるの?」
 抜き足差し足忍び足で、後ろについていきなり話しかけてやった。肩をビクンと震わせて驚くのは面白い。これだから、驚かせるのは止められないなあ。
「興味はないよ。ただ、これ母さんが作っている雑誌だからさ」
 雑誌をきれいに閉じて、元あった場所に戻すと、それじゃどこに行きますか、といつもどおりの調子で元気よく別のモールへと向かった。
 水着のショップがあったので寄らせてもらったけど、水着ってほとんど下着と変わらない。秋の水着って言えば、ここでいう競泳水着だった。
「千穂子にはまだ早かったんじゃない」
 悔しいけど、そのとおりだ。こんな格好をしないと行けない海って、どんな魔境なんだ。本当に楽しいのか? 隣で試着していく、女子グループを横目に、私はおずおずと退散した。
 カフェフラペチーノというよくわからない飲み物が美味しいらしい、カフェで温かいほうじ茶ラテを頼んだら、手順が掛かりそうなフラペチーノよりも後に出されて驚いた。フラペチーノにしとけばいいのにあまのじゃくだねえ、なんて言われるが、今はほうじ茶ラテの気分なんだ。クーラーで涼みながら温かいものを飲むってのは最高に贅沢じゃないか。
 窓際の席に座って、通っていく人を眺めて話していた。あそこのフリル付きはきっとギークだ、とか、あのカップルはきっと彼氏が尻に敷かれているね、なんて勝手に話を作って意味もなく話しているのが楽しい。
「あそこの彼、あれは夏人じゃないね」
 紅音が目をやった男性を見ても、私には夏っぽさしか感じない。小麦色を超えて黒いくらい焼かれた肌と、脱色した色の薄い髪、青いハイビスカスのシャツに、ハーフパンツ。どこをどう見ても夏。もしかしたらサーファーかもしれないと思った。
「本当に夏生まれなら、夏の要素に他の国の風を入れるんだよ。例えば、バックをパステルカラーにしてみたりさ。あんなドギツい夏っぽさはダメ。母さんもそうだ。だから、バレるんだ」
「ファッションに詳しいんだね」
「見てれば分かるさ」
 そうは言うが、私には見ていても気づかなかった。実際、私はそれを知っても、誰が夏で、誰がそうでないかなんてさっぱりわからない。秋でも私は、秋人とそうでない人を見分ける印など、見つけてこなかったし、見ようともしていなかった。
「さて次はどこに行こうか」
 紅音は笑いながら、トレーを持って立ち上がった。

 マンガの最後で、ギタリストとボーカリストが対立した、言葉と音と暴力がぶつかりあって、ねじれ、切れる。私の頬を汗が伝う。もしかしたら涙だったかもしれない。こいつらはここまでなのか、これから復活しても、今まで通りは不可能だ。壊れきったバンドがどこへ向かうのか、次の巻で確かめなければいけない。
 えー兄にラインを飛ばす。
「あのマンガのラストどうなるの?」
 もう一度、二巻を初めから読む。コンテストでの活躍。プロへの壁。それでも、音楽を作る楽しい毎日と青春の日々。文化祭での山場で入ったバンドとしてのヒビ。それでも走る二人は、ヒビが深まっていくことにも気づかない。そして、ヒビは限界を超える。やはり、この展開は一巻が静かだったような気さえ起こさせる。
 ピローン。ラインのメッセージがやってきたようだ。だけど、もう一回ラストを読ませてほしい。ギターと歌のぶつかり合い、そして、ギタリストはギターを振りかぶり、アンプに振り下ろして、全てを終わらせる。終わりにしてしまう。
「あのマンガってどれ?」
「プレゼントしてくれた、天開ステッパーだよ」
「ラストを言っちゃダメだろ。ちゃんと次の巻を買うんだ」
「いじわるだね」
「どうとでも言うがいい。そっちはどうだ? 馴れたか?」
「暑さには大分馴れてきたかな。まだわからないことも多いけど楽しいよ」
「こっちは相変わらずだ。落ち葉は積もるし、太平はビジネスにかかりっきりだし」
「それじゃ、えー兄もバリバリ働いてるわけだ」
「バリバリってほどじゃないさ。いつもと変わらない。商店街に行ったり、公園を掃除したりしてさ。変わったのは、駄菓子屋にシガレットの菓子がなくなったくらいだ」
「あれね。だいぶ前から置かないでほしいって声はあったんだよ」
「俺も声を上げれば復活してくれるかね」
「それはどうだろう。もういっそ箱で買いなよ」
「大人買いしろって? それは大人げないだろ」
「大丈夫だって。えー兄は前から大人げないから」
「ちー子に言われるとは」
「ほんと子供っぽいんだから。それで冬に留学したとか、信じられないよ」
「信じられなくてもしてたのさ。失敗はしてしまったけど」
「やっぱり冬の服とか買ったの?」
「当たり前だ。あんな寒い国に、秋の薄手の長袖じゃ、凍えて死んじまう」
「私も全部買い換えになっちゃった。えー兄も驚くような大胆な服を着てるんだよ」
「そんなもん、AVで見飽きてるわ。今は逆に隠してるのがトレンド」
「うわ、そんな話聞きたくなかった。エロオヤジ」
「男は心に一人エロオオカミを飼ってるものなんだよ。首輪はつけているけどな」
「ねえ、やっぱり、冬でも外から来た人って見られるものなのかな」
「最初は見られたよ。肌の色がやっぱり向こうのほうが白いし。物珍しさで見られたりしてな。留学の最初の洗礼みたいなものさ」
「私のホームステイしてるところの子がね、夏らしい格好してるやつほど夏以外の人だって言うんだ。だけど、私にはさっぱりわからないの。それが不思議でさ」
「それだけ、自分の格好を気にしているんだろうな。自分は変に見られてないか、溶け込めているかって。ま、無責任な妄想だけど」
 そうなのかな。紅音はずっと夏に住んでいるって陽子さんが言っていた。それなら、何をそんなに気にすることがあるのだろう。
 部屋のドアがノックされた。向こうから紅音の風呂から出たという声が聞こえる。思わずスマホを裏返しに置いて、すぐ入るとだけ返事をした。えー兄には悪いけど、ちょっといってくるとスタンプを送って、会話を終わらせた。ドアを開けると、自分の部屋に入っていく紅音がこっちを向いて、笑いかけた。小麦色のきれいな肌と真っ白な歯。えー兄の言うようなことはきっと邪推でしかないんだ。

 朝から食べるもの全てがこれじゃない。昼ごはんに食べた学食のスズキのアクアパッツァは全く違う。デザートにしたマンゴーソースのパンナコッタはおしいけど、こんな上品な甘さじゃない。私が食べたいのは、この蒸し暑い中でも、ねっとり熱くて甘い焼き芋しかない。
 紅音にどこか店を教えてもらえるものじゃないし、ショッピングモールには焼き芋の缶ジュースしか置いてない。さて困った。口が今にも求めているのに、手に入らないとなると、余計に食べたくなる。教室の机をトントンと右人差し指で叩いて考えていると、大海さんが声をかけてきた。なにか嫌なことがあった? だって、言われて、イライラしているように見えていることに初めて気づいた。
「秋の食べ物がどうしても食べたくてさ。どうしたものか考えていたんだ」
 態度に反省して、正直に話すと、そんなことだったんだ、なんて笑って、じゃあ秋人街に行ってみたら? と提案された。調べてみると、ショッピングモールを更に超えた所にここの秋人街があるようだ。そういえば、秋にいたときにも、琴葉が春人街に誘ってくれたことがあった。留学の息抜きに行ってみるのもいいか。
 大学が終わってから、その足でバスに乗って秋人街にやってきた。商店街のようにアーケードがあり、入り口には、秋でみるようなモミジやイチョウをデザインした「秋人街」と書かれた紅葉色のゲートがある。茶色い店先が実に秋っぽい。開けっ放しの入り口も、言われてみれば秋では普通だった。店内は流石にクーラーがついているけれども、店先を開けっ放しにするのは、ポリシーなのか徹底している。
 中に入っていくと、懐かしい香りがしてくる。ちょっと甘い発酵したような匂い。これがもしかしたら、秋の香りだったのかもしれない。私は気づいてなかったけど、どうにもあの公園とえー兄が落ち葉を焼いている風景が思い出される。ああ、焼き芋が食べたい。
 角を曲がってみると、素の木材を使った雰囲気のある喫茶店があった。偽物だけど、紅葉色の葉がついた植木が置かれている。大きな木ばかり見ていた私には不自然だけど、それでも秋の雰囲気を楽しむにはいい。
 中はもっと秋らしかった。夏のクーラーをとにかくかける冷たさではなく、秋の自然な涼しさになるように空気を調整してある。店内は暗いウッド調に揃えられていて、その静かさが秋の雰囲気を醸し出している。夏の喫茶店はどちらかと言うと、白木を使っているところが多く、そうでなくても明るい色使いが多い。
 私はオリジナルブレンドコーヒーと、さつまいものタルトを頼むと、カバンから青春小説を取り出した。買ってから一ヶ月も経つが、一向に読めていない。それは夏の生活が充実している証でもある。
 足がひりつくほどの砂浜や、海水で塩っぽくなった口、それで食べるスイカ。描写されるどれもが遠くの世界の話のようだ。家や大学で読むよりも、ずっと遠くで起きている話のように見える。憧れるなら、この場所で読む青春小説は楽しい。
 コーヒーは当然ホット。私は砂糖とミルクも入れる。すっと口をつけると苦さが口広がって、喉に熱いものが通り抜け、鼻の奥に眠たくなるアロマが香る。いいコーヒーだ。さつまいものタルトは、ペースト状にしたさつまいもとムラサキイモを、マーブル模様に絞り出して見た目も可憐に作られている。三角形の先っちょにフォークを立てると、スッと入って底のタルトが割れた。味は焼き芋の甘さに近いけどどこか遠くに酸味を感じる。これは、オレンジだろうか。それなら、この発色の良いさつまいもに説明がつく。なかなかやりおる。だが、しかし、私の求めている味はこれじゃない。もっとチープなネットリした、焼き芋が食べたい。
 ちょっと涙が出そうになったけど、美味しいタルトとコーヒーが前にあれば、それはそれで幸せだ。通りを歩いていく人は、観光地なのにそれほど多くはない。紅音に見せれば、誰が夏人で、誰が秋人か、どんどん選別していっただろう。向かいの店は食料品店のようで、パウチになったさつまいものオレンジ煮や、栗鹿ノ子の缶詰が並んでいる。
 喫茶店を出て、向かいの店に入る。さっき見知った顔が入っていった気がしたのだ。店内には口のあいた冷蔵ケースと、お土産品が置いてある棚に分かれていた。見通しのいい店内に、見知った顔はなかった。見間違いだったのだろうか。お土産品の棚は、箱詰めされたお菓子ばかりで、むこうで見る駄菓子のようなものは、まったくない。棚の向こうで背の高い、ボブの女性が見えた。もしかして、と思って声を掛けると、陽子さんだった。こんなところで出会うなんて奇遇もあるもんだ。
 陽子さんが、ここに来た理由は私と同じ。たまに秋のものが食べたくなるんだそうだ。でも、これまで、陽子さんが秋の料理を作ったことは、一回もない。私は秋のことをすっかり忘れて、夏人として馴染んでいるように見えたけど、紅音の言うとおり、秋人の部分がしっかり残っているようだ。
 私が焼き芋を食べたくてきたことを伝えると、いい店があるから、とこの後に行くことになった。地理感がないから案内してくれるのは嬉しい。持っているカゴには栗きんつばとスイートポテトが入っていた。それを会計して袋に入れてもらっていたが、店のロゴの入ったあの袋を私は家で見たことがなかった。
「家じゃ、こういうの食べられないからね。いつも会社に持っていくんだ。あとは、取材先とか。結構喜ばれるのよ」
「別に家でも遠慮することないじゃないですか。スイートポテトは紅音が嫌がりそうだけど、栗きんつばとかは別にいいんじゃないですか?」
「そうね。でも、止めとくわ。これは会社用だしね」
 秋人街のゲートの反対側、あんまりシャッターを開けている店のない、通りにまた食料品屋があった。近づいてすぐに気づいた、この香りは焼き芋の香り。ここはもしかしてさつまいもを焼いているのか? 陽子さんは、店先で座っているこの店の主人に二本くださいと、お金を渡した。すると、横にある、石の詰まった鉄製の箱の中から、焼き芋を取り出した。秋で食べていたのよりも少し小ぶりだけど、この甘い香りは確かに焼き芋だ。袋に入れてもらったのを受け取り、そのままかぶりつこうと思ったけど、陽子さんが、車の中で食べましょ、と言うので、そこまではお預けの格好で我慢する。手の中に熱い焼き芋がある。そんなことが、こんなにも嬉しいなんて想像もしなかった。
 クーラーのついた、冷え冷えの車内で、食べる焼き芋はねっとりと甘く、すこし奥の方に芋の酸っぱさがある、最高に美味しい。少しおこげのようになっている所が香ばしいのもいい。夏の暑さを見ながら食べるのは、とても贅沢だ。
「やっぱり、焼き芋はいいなぁ」
「そうね、久しぶりだったけど、まだ焼き芋を売っていてくれてよかった」
「あんまり、食べないんですか?」
「紅音がさつまいも食べられないでしょう? だから、一人だけ食べるのも気が引けちゃってね。あ、ゴミはこの袋に入れてね。途中のコンビニで捨てるから」
「なんで、紅音はさつまいもが嫌いなんでしょうね。美味しかった、て言ってたのに」
「さあ、何故なのかな」
 そうやって言う、陽子さんの目はこっちを見ておらず、私の顔を避けるように外を見ていた。たぶん陽子さんは理由を言いたくないんじゃないだろうか。そして、それに顔を突っ込むのは私に分不相応だとも思う。
「そういえば、陽子さんは秋人ってカミングアウトして仕事してるんですね」
「そりゃね、十分に利用させてもらってるわ。秋のお菓子とか持っていくだけで、話題になるからね。ファッションには他国の流行なんかも影響してくるから、外国の風景を知っていると、それだけ重宝がられたりね」
 心の中の隅っこに固まっていた、太平くんの商売が起こしたモヤモヤ、留学生だからと言われる気持ち悪さが、また煙となって心をざわつかせた。
「留学してるのに、私にはまだなんにもわからないです」
「でも、留学は武器になるわ。当たり前だったことが意外に強力だったりね」
 陽子さんが笑うと、本当に武器にしてしまえる気がする。留学という弾丸を機関銃で打ちまくって、快感。留学生だからではなく、留学生こそと思わせる強さを手に入れられそうだ。琴葉も弾丸を撃ちたくて、太平くんに乗っかったのかな。
「千穂子ちゃんは、なにか、これになりたいんだっていうのある?」
「ええと、その、特にはないんです。好きなことはあるんですけど、それでお金を稼ぎたくないっていうか」
 下を向いた。目の前に、まんまる黄色の焼き芋の断面。私はそれにかぶりついた。かぶりついても、断面はやっぱりまんまるだった。
「留学でなにか見つかると良いわね」
 今度はえー兄の言葉が奥底から響いてきた。留学で勝ち取れ。留学で何を得ているのか、私にはさっぱりわからない。変わったのは肌と料理の知識くらい。なにくそ、と思い立ってみても、何を頑張ればいいのかわからない。
「なにかはどこにあるんでしょうね」
「それはわからない。でも、どこではなく、ここなのかもしれないわ」
 陽子さんは、左胸を指さしていた。そこは心臓であり、心であり、自分自身だ。胸に手を当てて、自分の中を捜索してみるけど、なにもでてきやしない。
「やっぱり、私にはわからないです」
「別にいいのよ。わからなくても。知ろうとすることが重要なのよ」
 焼き芋の端っこを一口で頬張ると、もうすでにぬるくなっていた、ホクホクとしたさつまいもが、喉に引っかかる感じがした。
「焼き芋の皮を捨てたら、帰りましょう」
 誰も軒先にたむろしていないコンビニの、燃えるゴミしかいれるな、家庭ごみは捨てるな、と文字とイラストで注意しているゴミ箱に、焼き芋の皮を捨てた。秋を持ち込まないのは、この家のジンクスだ。

 電車の窓に映る私の顔は、夏の強い日差しもあって、大分小麦色に近づいてきた。そうは言っても、夏人の集団の中では、私の肌は浮いてしまう。電車はなかなか混んでいて、クーラーがついていても、人の体温ですこしムシムシとして暑く、汗の酸っぱい臭いが充満している。人の数は電車が進む度に多くなっていく。大海がこっちに押されて、肩と肩がぶつかった。押したのは誰だ? そちらの方を二人して睨むが、犯人は素知らぬ顔して人混みに紛れたままだ。仕方ないので、美里の方へ一歩体を詰めると、目線の先にキラキラとしたものが表れた。目の端から端まで、どこまでも白く飛沫を上げて波打つ、海。
 海に行ったことがないとバレてから、本当に来るまで短かったな。二人に水着売り場に連れて行かれて、着せ替え人形にさせられたのも二週間前とは思えない。これくらい派手にしないと、と持ってこられたビキニは、パレオもついていない、ちょっと切れ込みの角度がきついやつで、無理、本当無理って恥ずかしがったら、そんな初心な態度しちゃって、と冗談なのか皮肉なのかわからないことを言われた。結局少しイエローが入ったオフホワイトの、ドレスワンピースタイプのものを買った。紅音に言わせれば、もっと黄色が入っている方がカッコいいそうだ。
 今回の海には紅音はついてきていない。誘ったけど、海に行くようなガラじゃない、と悪態をつかれた。いつもの態度を見ていると、じつは泳げないんじゃないかと疑いたくなって、泳ぎ方を聞いてカマをかけたら、むしろ泳ぎの上手い人のちゃんとしたレッスンになってしまった。暫くの間はベッドの上で練習しな、とフォームをいちいち正してもらったが、終了日になって、海じゃそんな泳がんけどな、とあっけらかんと言われた。この苦労は何だったんだ。天罰だったんだ。
 恋ヶ浜の駅で降りると、不思議な香りがした。二人は潮の香りがすると言うが、私には腐葉土の香りをとてつもなく薄くした香りと言われたほうがピンとくる。電車の中にいた人の殆どはここが目的地だったようで、ホームもすぐに満員になる。潰れたビニールのボールを持った女子高生や、細長いものが入ったケースを担ぐ男性とその彼女、サングラスに手をかけて海の向こうを睨む母親、みんな海に泳ぎに来たんだ。
 駅の改札を出ると、恋の始まる海、恋ヶ浜へようこそ、と大きく書かれたゲートと、海岸までまっすぐに伸びている商店街が、開けた眼の前に現れる。そして、その奥には太陽の光を反射する海だ。早く行こうよとはしゃぐのは大海、ちょっとまってと写真を取るのは美里、そして、風景に圧倒されるのは私。
 さあ行こう。なだらかな坂になっている商店街を早足で歩いていく。潮の香りが強くなっていく。海の色が青から、薄緑色に変わっていく。思わず、わぁ、堤防から体を乗り出して声を出した。砂浜がどこまでもつながり、色とりどりのきのこのように、赤や青の縞模様のパラソルが立っている。向こうの綱の所まで、黒い点が広がっている。あれ全てが人なんだ。
 海の家で着替えさせてもらったけど、二の腕が試着したときより、たぷんたぷんしている気がする。いつもとは違うSPFの高いウォータープルーフの日焼け止めクリームを、全身に塗っていく。すこしヒヤッとするのが気持ちいい。
 よっしゃ、行きますかと、野球少年がバッターボックスに立つ心地で、砂浜に飛び出す。夏のライナー性ホームランかっとばすぜ。カッと降り注ぐ、遮るものない太陽の光を、全身に浴びて、海まで走っていってオラッとダイブ。水しぶきが立ち上がる。後ろから、カバンを任せた美里がはしゃぎすぎって苦笑いするけど、これをはしゃがずして、いつはしゃぐ?
 戻ってみると、いつの間にか借りたパラソルの下にカバンを置いて、大海と美里は寝転んで、太陽の光をバシバシ浴びている。美里なんかはいつの間にか表れた、しずくが垂れるほど冷えたビールを片手に飲んでいる。
「泳がないの?」
「ビール飲んだら私も行くよ。だけど、今はだらけさせて。電車満員すぎ」
「なら私はカバンみてる。千穂子は行ってきてもいいよ」
 やれやれ、これだから大人ってやつはダメだ。私も砂浜に寝転んでみると、熱い砂が逆に気持ちいい。真っ白な太陽は容赦なく照りつけるけど、今日ばかりは容赦してやる。もっと照りつけるが良い。
 あ、そうだと思ってカバンからスマホを取り出し、砂浜と海と、濃い青色の空、真っ白な入道雲を全てフレームに収めて写真を撮った。後で、えー兄にでも自慢してやるんだ。
「その写真、誰かに送るの?」
「まぁね。心配性な幼馴染がいてさ」
「何? もしかして彼氏とか?」
「なら、一番に取らなきゃいけない写真があるでしょうが!」
 そう言って、大海は私からスマホを取り上げると、私にカメラを向けた。もしかして、この二の腕たぶたぷの私の水着姿を撮ろうってか。それだけは止めるんだ。
「ほら、千穂子笑って。ポーズももっとセクシーに。突っ立ってピースしてるだけじゃダメダメ。腰をちょっと曲げ、ピースも頬に寄せて、そして、もっとにっこり笑って。じゃいくよ」
 写真を撮られた。恥ずかしかったけど、撮られてみると満更でもない。どんな風に取れているのか、見てみたら楽しそうに笑っている私がいた。ちょっと、可愛いかも。無言で、えー兄のラインにその写真を送った。何か言うのはそういうの、カレカノっぽくて嫌だった。
 じゃあ泳いでくるね、と言って海に走っていった私の顔は赤かったかもしれない。顔が熱い。波打ち際はさざめきがうるさい。遠くに遠くにと泳ぐが、全く前に進んでいない。紅音コーチ、やっぱりベッドの上での練習じゃ、無理がありました。足がギリギリつくところまで歩いていって、だらんと力を抜いて海に浮いていると、すべてを忘れられそうだった。波がやってきてはゆらゆら。波が戻ってきてもゆらゆら。余計な音もなく、目の前に広がるのは、青の空。これが気持ちいい。紅音も来ればよかったのに、
 しばらく、クラゲのように浮かんで揺れていたら、いきなり胴体をガシッ抱きしめるように掴まれた。ばぁ、と顔を出したのは美里だった。
「何考えていたの? 彼氏?」
「だから、違うって。ホームステイ先の子も連れてこればよかった、て考えてただけ」
「千穂子のホームステイ先って、紅音のところだっけ?」
「そう。知ってるの?」
「中学まで一緒だったからね。今どうしてる?」
「元気だよ。ファッションのこととか、泳ぎ方とか色々教えてもらってるんだ」
 へぇ、と人差し指で頬骨を押さえて、ちょっと考えるような顔をした。私も、小首をかしげて、何を思ってるのと目で言った。
「紅音って喧嘩ばっかりなイメージがあったから、大分変わったんだな」
「そうなの? 姉御肌っぽいところはあるけどさ」
「小学校のとかは違ったよ。屁こき女って言われて、いつも男子と喧嘩してた」
「なにそれ、酷い」
「先生が悪かったんだよ。さつまいも食べるとガスが出るって言っちゃってさ。みんな紅音がさつまいもを自慢していたのを知ってたもんだから、誰かが言い出して、学年中に広まったんだよね」
 すぐに、紅音がさつまいもを嫌いだと言ったことを思い出した。もしかしなくても、この出来事がきっかけなんだろう。その、言い出したやつをぶってやりたい。
「紅音もね、秋のこといつも話していたからさ。あの年頃って、目立つ子は叩かれるじゃない? それで、標的にされたんだと思う」
 紅音に非なんてない。目立ったからって何が悪いんだ。美里だって、気づいているはずなのに、なんでそんな言い方するんだ。そうか、もう他人なんだもんな。
「ごめんね。変な話ししちゃって。向こうまで泳ごう?」
 紅音に教えてもらった、泳ぎ方じゃ、全然前に進まない。美里はゴールの方まで行って、戻ってきた。泳げなかったんだ、って笑うけど、私は心から笑えなかった。砂浜から音楽がなる。海から上がって休憩する時間らしい。
 パラソルの下に戻ってみると、大海が海を見ながら焼きそばを食べていた。そう言えば、お腹がペコペコだ。さっき更衣室を借りた海の家で、カレーライスと、冷えたコーラを買って食べた。なんてことはないレトルトっぽいカレーだけど、砂浜で食べると魔法がかかったみたいに美味しい。コーラも炭酸がプシュリと鳴って、とても爽やかだ。大海が。食べたら一緒に泳ごう、と誘ってくれたけど、今はパラソルの下に寝そべって考え事をしたい。

 肌が日焼けしても、ひりつく日光も、うだるような暑さも、決して涼しくはなりやしない。ショッピングモールは涼しかったのに、一歩外に出たらこうだ。もう太陽なんて、半分に切って、片方は冷暗所にでもしまっておけば良いんだ。
 右手に持っている、レジ袋には今日の晩ごはんの材料が入っていて、重いから持ち手が次第に指に食い込んできてかなり痛い。左手には新しい青春小説と、えー兄から貰ったマンガの新刊しか入っていない紺色の袋。こっちは軽いが、太陽の光を吸収して、結構熱いのが気持ち悪い。あー、早く家に帰って涼みてえ。
 木の上で鳴り響くサイレンのごとき鳴き声は、セミという昆虫が出していると、ずっと前に紅音に教えてもらった。道端に転がっている、あやつに近づいたら、急に鳴きだし飛んでいくブービートラップに、何度も引っかかったブービーな私には、もうこの鳴き声も風情としか聞こえない。
 家が見えた。駐車場にSUVは停まっていない。最近、陽子さんは忙しそうだ。雑誌の企画でトラブルがあった、と普段は飲まない缶チューハイを飲みながらこぼしていた。家に帰ってくるのが遅くなることもままあって、晩ごはんを先に食べてほしい、と電話がかかってくることもしばしばあった。
 冷蔵庫に入れるべきものは、しまいこみ、エプロンを付けて、晩ごはんの用意に取り掛かる。今日のメニューはサラダとポークビーンズ、やってきた日に陽子さんが作ってくれたレシピだけど、ピーマンは抜いた。ネットにはポークビーンズの面白いレシピもあって、今日挑戦するのは、ケチャップを使って作るやつ。秋の夏人街にもケチャップは売っていると太平くんに聞いたから、もし、帰って夏が恋しくなったら、これを作りたい。
 まずは、みじん切りにした玉ねぎを炒める。どうせ煮込むからそんなに時間をかけなくてもいいが、甘い香りがしてくるまでやったほうが美味しい。次は豚ひき肉。こいつはすぐに火が通る。そして、ここがポイント、余計な油が出てくるので、そいつをクッキングペーパーを使って吸ってやる。こうすると、ベタッとした仕上がりにならないそうだ。後は缶詰のひよこ豆の水煮とケチャップを適量入れてやる。味が薄ければ、コンソメを少し投入すると良い。陽子さんはここに更に砂糖を入れていたので、私も入れてみる。甘酸っぱいくらいが美味しい。ちょっと締まりがないので塩をすこし足そう。
 サラダは、板ずりしたキュウリを薄切りにして、ちぎったレタスとプチトマトで並べるだけ、ドレッシングはお好みでどうぞ。
 紅音が電話をしながら降りてきた。ダイニングの椅子に座って、こちらをちらりと見たかと思うと、大丈夫、と言って電話を切った。さぁ、晩御飯を始めようって言いたげに、サラダを運び、小鉢に佃煮のようになったポークビーンズを二人分よそった。母さんの分はまた後で、ということはさっきの電話は陽子さんからだったんだろう。
 今日はライスではなく茶碗に盛ったご飯。水っ気が少ないから、カレーのようには食べられない。いただきます、とちゃんという紅音に続いて、私もいただきますと箸をつけた。紅音がポークビーンズを一口頬張って、こりゃいいね、と言ってくれたのが嬉しい。今になって、陽子さんが言っていた、独特な味が不味いという意味だと気づいた。だけど、もうこれは、特技は料理、と書いてもいいレベルなのではないだろうか。
「あと二ヶ月かぁ」
 テレビを見ながらご飯を食べている紅音を見ていたら、急にここを出ていかねばならないことが、頭をよぎった。
「あと、なら良いじゃん。まだ、って思うよりかはさ」
 たしかにそうなんだけど、このまま帰ってしまうことに不安がつのる。えー兄と約束したように、夏で生活できているのだろうか。夏で生きているのだろうか、生かされているのではなく。答え合わせは、帰ってみないとできないことがもどかしい。
 後片付けは、紅音の当番なので、私は足を伸ばして、今日買ってきたマンガを包む透明なフィルムを無理やり剥がした。少し、マンガの角が曲がったのが、悔しいがハサミを使って、表紙を切ってしまうよりはマシだ。
「それってもしかして、天開ステッパー?」
「そう、それの完全版だって。よく知ってるね」
 洗っていた茶碗を水切りラックに置き、笑いながら、高校の時、友達からこれは絶対に読んだほうが良い、と無理やり押し付けられた、と語ってくれた。あいつ何をしているのかなぁ、なんて、その子の事を思い馳せているのは、中学まで荒れていた、と美里が言った紅音とは、全く重ならなかった。
「そういえば、紅音って中学まで荒れてたってマジ?」
「誰から聞いたんだそんなこと?」
「園山さん、悪いと思ったけど色々聞いちゃった」
「じゃあ、あの話も聞いたんだな」
 コクリとうなずくしかなかった。何かフォローの言葉を取り繕うこともできたけど、それは素直じゃない。
「かわいそうだなんて思うなよ。アタシはそんな悲劇のヒロインなんかになるつもりはない。あれは生まれが悪かったんだね」
「そんなことない。後ろ指差す奴らが悪かったんだ」
「そんなことは、誰だって分かるさ。今更言ってどうする。いつかなる運命だったんだ。それが早かっただけのこと。生まれの悪さなんて、どうやってよくできるっていうんだ」
 何も言わせない。そう怒鳴り散らすような剣幕ながら、静かに吐き捨てた。目が少し、潤んでいたのは見間違いでなかった。紅音は立ち上がると、ダイニングから出ていった。じきにポーンとふろ給湯器リモコンから音がなった。風呂を入れて、自分の部屋に戻ったみたいだ。
 紅音と会話しなければいけない。階段を駆け上がって、紅音の部屋のドアをぶち破って、何かを言わなければならない。そう思ったものの、何を今話せるのか思いつかず。虚しく映像を垂れ流しているテレビの音だけが、ダイニングに響いていた。
 紅音の部屋をノックしたが、返事はない。もう一度ノックすると、あい、と気の抜けた声で紅音は扉を開けてくれた。私が紅音の部屋に来るのは、何度目かだったが、ひどくなにもない部屋だ。ベッドとデスク、チェアがあるだけ。その他のものはクローゼットにしまいこんでいるらしい。教科書や雑誌もそこに詰め込んでいると言うから驚きだ。前に聞いたときは、寝る時に余計なものが部屋にあると寝られないと言っていた。そのせいか、この部屋には壁掛け時計もない。
「さっきのことちゃんと謝ろうと思って。ごめんなさい。聞くべきことじゃなかった」
「別にいいよ。それにそんなことされたら、かわいそうだったみたいじゃないか」
 まぁ、入れよ、という言葉に促されて、お邪魔させてもらった。クローゼットからクッションを二つ取り出して、青い方を私に、黒い方を自分の下にやった。
「考えていたんだ。さっきのこと。怒って、突き放して二ヶ月を過ぎさせるか。それとも、せっかくだし話してみるか。そしたら、案外冷静に考えられているアタシがいてさ。そしたら、これは怒るべき時じゃないんだって思った」
 紅音は足を崩して、頬杖しながら窓の方を見た。そこには紺の秋っぽい色のカーテンがかかっている。
「つまりは、アタシが夏人のくせに、秋人でもあって、でも、秋に居場所はない。夏の居場所も用意はされていなかった。それが悪いんだ」
 彼女は立ち上がって、クローゼットの中から、雑誌を取り出した。あのロゴは、確か陽子さんが作っている雑誌だ。それの今月号。パラパラとページを捲って、見せてくれたのは、外国のファッション特集のページ。これがどうかしたのだろうか?
「今、これのせいで、この雑誌が炎上しているの知ってる?」
「ええ? 知らなかった。それで陽子さん忙しいの?」
「たぶんね。話してくれないけど」
 ページの写真一枚を指さした。よく小麦色に焼けた肌の女性が、山吹色のカーディガンと、ちょっと重めのイチョウの紅葉色のロングスカート、白いモカシン、手首には紅葉の紅色や黄色がアクセントに入っているブレスレットをしている。
「どう思う?」
「秋っぽいファッションで良いんじゃない? ファッションの参考になるし」
「そう。でも私には不躾な写真に見える。秋の文化をなんで夏人が語ってんだってさ。私が頑張って見つけた居場所を、かすめ取られた感じ。わかってもらえないかな?」
 正直な話、私にはわからなかった。私には、居場所がなかった経験がない。秋に帰れば、両親のいる家があって、例えなくても、えー兄や太平くんがいて、それがなくても、私を迎え入れてくれる秋という土地がある。それは与えられたように。
「わからないか。つまんねえことだ。ようやく手に入れた居場所ってやつが、簡単に侵略されちまう。本当につまんねえ。反吐が出る」
 なんでか知らないけど、涙が出てくる。鼻水も垂れているかもしれない。紅音は、泣くなよ、とティッシュペーパーをくれたけど、一枚でも、二枚でも、足りなかった。
 アニメだったら、カードゲームをすれば、全てわかりあえたかもしれない。だけど、私達は一緒に住んでいたのに、全くわかってやれなかった。これからも、わかってやれないかもしれない。永遠に交わることがないのが、悲しい。
「天開ステッパーのラストをネタバレしてもいいか?」
 私は涙を拭き、鼻をかみながら、うなずいた。
「わかりあえなかったギタリストとボーカルは、袂を分けるんだ。だけど、最後に踏み出してこう言うんだ。出会わなかったら、今の音はなかった、ってさ。だから、わかりあえなくても、それは悲しいことなんかじゃない」
 そうやって笑う。紅音は卑怯だ。かっこよすぎて卑怯だ。

 家の近くのショッピングセンターのマスコットキャラクターと写真が取れるブースを目の前にしながら、ベンチに座ってスマホをタップ、スワイプ、ズーム。写真を撮っているんじゃなくて、紅音を待っている。
「大学の四限が終わったら、ショッピングモールで待ち合わせしよう」
 そんなメールが来たのが、昼休憩の終わり頃。美里に彼氏からのメール? なんて言われるのは面倒くさかった。今日の調理当番は私なので、ショッピングモールにはどうせ行かなきゃいけない。別に断る理由もなく。むしろ、歓迎する理由のほうが多いので、喜んで、いいよー、と気の抜けた返信をした。
 ただ一つ誤算があったとすれば、紅音の大学は私の大学のように、家から歩いていける距離になく。四限が終わっても、私が待ちぼうけするのは確定していたことだ。
 すまん、すまん、と息を弾ませながら、紅音はやってきた。待ちぼうけ食らったのを怒る気にもなれず。待ってないよ全然、ってあからさまな嘘をつくと、ならちょうどいいタイミングだ、と悪びれずニヒヒと笑う。
 さぁ、エスコートしてくださいお姫様、とでも言わんばかりに私は立ち上がって、どこ行くの? と聞いてみても、さあどこ行こうかね、なんて全くの無計画の当てずっぽうにモールの中を歩いていく。
 三階の本屋で、マンガコーナーに立ち寄ると、「サカマキ排球団」の新刊が出ていた。紅音はこの漫画のことを知らないと言ったから、これは絶対に今世紀中に読んでおくべきマンガと、推しに推して半額セールをしていた一巻を買わせた。どうやら、紅音は高校の時に植え付けられた、ニッチなマンガ情報しか持っていないらしい。「天開ステッパー」を知っていたのが奇跡か、よく作られた運命のようだ。
 雑誌コーナーには、陽子さんが関わっている雑誌が、今月号も元気良く出ている。ページを開くと一番に目に入るのは、謝罪文。これのどこまでが本音で、どこからが建前かさっぱりわからないように、丁寧に言葉が選ばれている。これでいい、とは紅音の言葉だ。
 二階の雑多な雑貨屋さんは通路が細くて、すれ違うのも大変だ。背中をこすり合わせながら、すれ違った時、白い服を来た痩せた男性が、振り返ったけど、店の商品を落としてしまっただけのようだ。
 奥の方に音楽のコーナーがひっそりとあって、一つのヘッドフォンを二人で使って色々聞いてみたが、どうにもしっくりこない。紅音は買おうか迷っているが、どうもビートにノレない。私の体に流れる血液のビートは、秋から変わっていないからだろう。結局、紅音も買わずに、ちょっと古っぽすぎる、と文句を言っていた。
 さぁ、今日の夕飯はどうしようと、相談してみるけど、ピーマンの入ってない料理ならなんでも、と難しい注文をつけてきた。こういうときは、アレって言ってくれたほうが楽。楽させるために余計に困らせる。裏切りの言葉ってのはこういうやつだ。言った方も、聞いた方も、言葉に裏切られる。ブルータスもびっくりだ。
 難しい料理はできないし、カレーでも作ろうと、ズッキーニとナス、あとトマト、玉ねぎ、ゴーヤは意外にも紅音もいけるらしい。豚肉はブロックよりも小間切れのほうが、火の通りも早くて楽だ。ルゥはちょっと辛めの中辛を一つ。確か家に、もう一つ残っていたから、それとブレンドすれば美味しくなるだろう。
 鬼のように紅音がいなくなって、神のように現れたら、カゴの中に棒アイスの箱がこっそり増えている。まぁ、どうせ陽子さんのお金で買うから。こっそり増えててもなんとも思いはしないけど。重くなった分だけ荷物運びを要求する。げっ、と言ってもそうしてもらう。
 宣言通り、紅音に荷物を持ってもらってモールの一階を出口に向かって、歩いていくと、秋グッズショップで、焼き芋の缶ジュースが冷蔵棚に並べられていた。あれは結局どんな味がするのだろうか。
 思わず見ていたらしい。紅音は何も言わずに、その店に入っていった。栗きんつばの箱を指さして、栗ってどんなんだ? と聞かれたけど、ほくほくした甘い木のみと言ってもイメージできるはずもなくじれったい。
 冷蔵棚にならぶ、ビールやワイン、みかんジュース。そのなかでも異彩を放つ、焼き芋の缶ジュース。一六〇ミリリットルなのに、百五十円もする。主原料はさつまいもだけ、どうにも味が想像できない。
「気になるなら、買っちまえよ。アタシも買うからさ」
 これさつまいもだよ、と言っても、知らね、知らね、と意気揚々と二つを会計に持っていった。おごってくれるのか、私の分も払っている。店から出ると、私に渡された、冷たい焼き芋の缶ジュース。白と紫のカラーリングがなんか毒々しい。
 外はいい加減にしてほしいくらい暑い。太陽はまんまるに空で光っている。アスファルトの照り返しがきつく、黒色の路面のくせに輝いている。
 暑い外では、冷たい飲み物が欲しくなるわけで、たまたま私達は冷たい焼き芋の缶ジュースを持っていたので、パカッとプルタブを上げて、シンクロでもするように、右手に持った小さな缶に口をつけて、一口飲んだ。甘い。ねっとりとした飲み心地ではない、むしろサラッとしている。それなのに、オレンジのようなさっぱりさはなくて、ひたすらに甘く、濃厚なコクが有る。香りはまさに焼き芋を口に含んだ時のもわもわした力強い香り。そんな風に私が味を楽しんでいる横で、紅音はむせていた。やっぱり飲めないらしい。ジンクス超えはゆっくりやっていくと良い。でも、空き缶は家のゴミ箱に捨てさせてね。

 二十九日で終わるカレンダーに、丸のついた日、それは今日だ。ついに秋に帰る日が来てしまった。昨日は紅音とお土産を探しに街へと行って、遅くなってしまったので、少し眠い。朝早く近くの駅までは陽子さんに送ってもらい、そこから先は見送りに行くと言う紅音と一緒に空港へ向かった。
「留学生を見送りに来るなんて初めてだから、何言ったら良いかわからんけどよ。元気でな。もし、夏に来たらいつでも連絡くれよ」
 出発ゲート前でそんな恥ずかしいセリフを、簡単言う紅音はやっぱりカッコいい。えー兄なら、恥ずかしさで噛んでいただろう。
「これ、渡しておきたいんだ」
 私は、あのカードゲームの自分のエースカードを渡した。今まで私とともに戦ってくれた、勇敢なるモンスター。
「なんだこりゃ?」
「私のお気に入り。必殺技はフェイタル・アトラクション。私は紅音の居場所になりたい。だから、紅音に持っていてほしいんだ」
 それは湿っぽいな、という声がちょっと震えてた。あのカードが、世界をつなげてくれると私は信じている。
「じゃあな。アタシも千穂子の居場所だからさ」
 握手をギュッとして、私はカウンターの向こうへと歩き出した。紅音とまた出会うことはない予感がしていた。でも、それでも構わなかった。帰ったらえー兄に自慢してやろう。私に、わかりあえない友人ができたことを。

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