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Every dog has his day.㉒

  第22話、
「何ですって、巴波醤油が店を畳むんですか」
 江上は携帯を握ったまま、絶句した。衝撃の一報に、
(雪はどうなる、どうしたらいい)
 と、切羽詰まった思いが駆け巡った。
 通報は市議の常本からで、会員でもある商工会議所に立ち寄った際、職員から耳打ちされたという。
「大手メーカーの攻勢で経営は厳しいとは聞いていたが、市内を代表する地場企業だったからね。猪野瀬さんは長く会議所会頭も務めた功労者だし、商工関係者の間に衝撃が走っている。雪の安否を口にする人もいて、とにかく江上さんが雪探ししているから連絡したんだ」
「本当に連絡、ありがとうございます。雪の情報は何か漏れ聞こえますか」
「会員の間で『廃業するんなら雪も売ってしまうんじゃないか』って見方は出ている。廃業宣言で、猪野瀬所蔵説がにわかに高まっている感じかな」
 常本の電話を切り、江上は情報通の神村の携帯に連絡し、神村の会社に車を走らせた。 
 巴波醤油廃業のニュースは既に神村の耳にも入っていた。鐘馗図、三福神の相撲図の発見、市所有を機に、神村は歌麿を核としたまちおこしのための市民団体を新たに設立することにして、江上らの研究会の活動を支援し、雪探しに大きな関心を持っている。
「驚きました。突然、巴波醤油が店を畳むなんて。どういうことなんですか。詳しい事情は聞いていますか」
「来月の年度末で醤油の取り扱いを止める、つまり自主廃業らしい。既に記者クラブにも情報提供があったようだ」
「経済ニュースとしてリリースされたんでしょうが、地元の記者ならピンときますね」
「これだけ歌麿だ、幻の雪だ、と盛り上がっているから、彼らなりに調べているだろうし、噂は当然耳にしているだろう」
「急いだほうのがよさそうですね、雪の確認作業は。記者に先を越されたら冗談ですみませんから」
「まあ、それはそうだろうが、果たして動けるような記者がいるだろうか。仮に接触できても、本音を引き出せなるかどうか」
 自分が記者だとしたら、と江上は考えた。警察、行政などの広報に頼らず、自ら事実を確かめる調査報道はスクープにつながる報道機関の本分だ。雪探しが地域の話題となっている以上、噂の真偽を確かめる可能性は十分ある。ただ、神村の指摘する通り、事実を語らせなければ意味がない。所有者とされる猪野瀬に当たるには状況証拠の把握が必要だろう。丸腰で所在の有無を確かめはしない。
「記者の取材活動はさておき、事態が風雲急を告げた以上、対策を考えないと」
「部外者の立場で差し出がましいかもしれんが、まず市から調査を委託されているのだから、市の考えなり、今後の意向、どうしたいかをはっきりするのが先決ではないか。西郷さんの時のように、予想外の動きになることだって考えられるだろう」
 鐘馗図、三福神の相撲図の場合、美術商への売却が水面下で進んでいる中、神村の仲介で急転直下、栃木市への寄託、さらに譲渡まで一気に進んだ。
 仮に雪が同様の流れになったとしたら……。
 雪は遊里をテーマにした月、花を含めた3幅の1つで、各幅約畳3畳分もの大きさがあり、深川の料亭を舞台に粋で鯔背な辰巳芸者ら女性20数人を描く。美人画で知られた歌麿の傑作であり、浮世絵の中でも稀有で貴重な大作とされる。
 既に所蔵する肉筆画3点に雪が加われば、市が目論む歌麿による地域振興に一層の弾みがつくだろうが、半面、保管や展示施設、学芸員らスタッフなどの受け入れ態勢の強化、何より厳しい財政事情の下、億単位とされる購入資金の工面、市民の合意形成が不可欠となる。
「ものが破格だけに、取らぬ狸の皮算用と陰口を叩かれても事前準備がなにより重要でしょう。とにかく神村さんのおっしゃるように、これまでの調査報告を早急にまとめて市に提出し、対応を考えるよう申し入れます」
 江上は市役所に直行し、市の担当課職員と協議。担当職員の耳にも巴波醤油の動きは入っており、雪の動向に気をもんでいた。江上は研究者や美術商らから調査方法の意見を聞き、市との仲介役となる巴波醤油社長、猪野瀬の友人らを探すことにした。江上らの報告を元に、市は対策を検討することになった。
 1か月後の3月2日午前、市議会定例会の演壇で、市長の末永は軽く咳ばらいをすると、議場の市議らに訴えた。
「歌麿の描いた雪については買えるものであれば、買うことも含めて他への流出を防ぎたい」
 市議の前置きとして「県南地区にあるとも言われている」と、噂される猪野瀬所蔵説を示唆し、市執行部の対応を明確にするよう求めていた。
 江上には市担当課から、猪野瀬宛に市長親書を送るとの連絡があった。
 賽は投げられた。雪は里帰りしているのか。
 市長判断が下された以上、江上は推移を見守るしかなかった。
              最終第23話(7月23日掲載予定)に続く。

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